以前に、実績や経験で投票するのではなく、当選する候補者に投票することを選択眼の証明のように考える人物が話題になっていた。
候補者が当選した時点で満足して、政治家となった候補者のその後には急速に興味をなくす。選択眼は別とすれば、選挙の瞬間のみ政治家に興味をもつことは珍しい態度ではないかもしれない。
しかし一般論として、選挙は競馬と違って「的中」した段階でリターンが返ってくることはない。
政治家となることがゴールではなく、本来は政治家になった後に監視しつづける必要がある。
競馬にたとえるなら候補者の当選は出走の成功のようなものであり、リターンが返ってくる馬は別かもしれない。
そのようにリターンが返ってくる保証がないことを考えれば、選挙はクラウドファンディングのほうが近いかもしれない。
寄付したプロジェクトが期限内に目標達成すればプロジェクトが成功する可能性は高まるし、リターンが返ってくる可能性も生まれる。
しかし目標を達成したプロジェクトがリターンを返す絶対の保証はない。
それでも集まった寄付を新たなクラウドファンディングの宣伝につぎこみ、運営を動かしてクラウドファンディングのルールを自分に有利に変えていけば、リターンを返さなくても寄付を集められるサイクルができてしまうかもしれない。
たくさんのリターンを返すと説明して寄付を集め、まともにリターンを返したことがなく、それでも目標金額を達成しつづけることができればリターンを返す意欲は消えていくだろう。
一方で、寄付が目標にとどかなかったプロジェクトでも開始することはあるし、リターンを返そうと努力するかもしれない。
もちろん意欲があっても困難な環境におかれたり、経験が少なくてプロジェクトを遂行できる可能性が低い可能性もある。
いや、たとえ意欲と経験があっても最後まで確認しなければ、やはりプロジェクトが成功するかどうかはわからない。
どのようなプロジェクトであっても、寄付の受付期限がくればクラウドファンディングは終わりというわけではない。
寄付したプロジェクトがきちんと遂行されているか、リターンをきちんと返してくれるか、くりかえし確認しつづけるものだ。そのなかで寄付した自分自身の責任についても考えざるをえなくなる。
奇妙なのは、クラウドファンディング以上に選挙には自分自身の人生がかっているのに、当選結果が出たとたんに政策の結果も出たと考えられがちなこと。
仮に、自分の選択が間違った可能性に向きあいつづけることがストレスになるため実際の政策を確認しつづけることが心理的に難しいのであれば、それは選挙をとおした民主主義が原理的に機能していないということになる。