中国の人民服は、立折襟で胸と裾に二つずつ貼り付け型のポケットをもった(ないものもある)前開き五つボタンの上衣と、スラックスでセットになっている。袖のボタンは3つで、作業着タイプでは頭には前つば付き帽子、いわゆる人民帽(単帽)と呼ばれる帽子をかぶる。ネクタイは用いない。
1923年頃に孫文が考案し、北伐後に中国全土に普及した。人民服は中華民国で事実上の男子正装として用いられた。
1928年には中華民国の内務省職員の制服として着用を義務付けられ、1929年には正式に民国政府の制服として採用された。1936年2月、蒋介石はすべての公務員に制服の着用を命じた。
中国の人民服は「中山服」「中山装」と呼ばれおり、中国共産党の幹部や富裕層らが「中山精神」なるものを表して着用するものとされる。
蒋介石と毛沢東、敵同士が共に中山服を着用
【第15回】“人民服”の歴史的変遷~国民服から最高指導者の正装へ | e-doctor PRESS(イードクタープレス)
この「中山精神」の「中山」とは「革命未だ成らず」と言い残した孫文のこと。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/07/100-86_3.php
中国語圏では孫文よりも日本名の中山 樵(なかやまきこり)をとった孫中山(そん ちゅうざん)の名称が一般的で、孫中山先生と呼ばれている。
孫文は辛亥革命後に袁世凱からの弾圧を逃れるため日本に亡命し、東京に住んでいた頃、日比谷公園の近くにあった中山大納言家(明治天皇の母方の一族)の立派な邸宅の表札を目にし、表札に書かれた「中山」という文字を気に入り、ご自身の日本名として「中山樵」(なかやまきこり)と名乗るようになったのだそうです。
人民服の起源は、日本の帝国大学の詰襟の学生服を参考に孫文が中国に取り入れた「五四青年装」と呼ばれるものであり、そのため彼の死後は「中山装」「中山服」と呼ばれるようになり、1936年2月には蒋介石が全ての公務員に「中山服」の着用を命じたことから、現在の中国共産党の「人民服」となった。
孫文が考案した「五四青年装」は彼が日本亡命時代に目にした帝国大学の詰襟の学生服を真似たものであり、帝大の学生服は1886年頃に帝国陸軍の制服を手本として採用されたものです。
帝大在学時の夏目漱石
明治19年(1886年)に採用された帝大の学生服(復元品)。
当時唯一の大学だった帝国大学の制服は5つの金ボタン式で詰襟の始まりとなった。
江戸時代の漢籍偏重の古典教養主義教育を否定し、近代教育を推進する象徴として、当時一般的だった和服ではなく洋装を採用した。一般大衆と区別される選良性、風貌の端厳(引き締まった顔と態度)、帰属性(国と大学への帰属意識)、兵式体操、行軍旅行(徒歩による規律正しい集団連泊旅行)、洋式寄宿舎で寝起きする必要性から、当時は機能性と見栄えに優れるとされていた帝国陸軍の制服を手本に採用されたものだったそうです。
■清朝を倒し辛亥革命を成功させた孫文と袁世凱
清朝末期の1895年、孫文はハワイで結成した革命団体「興中会」のメンバーらが清朝打倒を目指して武装蜂起を計画した「第一次広州起義」は、事前に情報が漏れ、清朝政府の軍に鎮圧されて失敗に終わった。
孫文は1895年の広州蜂起の失敗後に日本に亡命し、その後も日本を訪れ、他の革命家と協力し、「黄花崗事件」など、幾度も革命を試みた。
一方、李鴻章のもとで軍人としてのキャリアをスタートさせた袁世凱は、北洋軍(後の北洋軍閥)を組織・育成して清朝末期の実力者となり、1911年に孫文らによって辛亥革命が勃発すると、清朝政府に革命鎮圧を命じられたが、革命側の孫文と交渉し、宣統帝(ラストエンペラー)を退位させる代わりに、中華民国の臨時大総統の地位を孫文から譲り受け、これにより清朝は滅亡して、中華民国が成立。
1911年に「辛亥革命」によって清朝は滅亡し、孫文が目指した共和制の「中華民国」が建国され、孫文自身が1912年1月に中華民国の臨時大総統に就任したが、辛亥革命で手を組んだ袁世凱に、中華民国の初代臨時大総統の地位を譲った。
その後、袁世凱は首都を南京から北京に移し、独裁色を強めたため、孫文は武力によって袁世凱を倒そう試みた(第二革命)が、失敗に終わる。この失敗の後、孫文は袁世凱の弾圧によって国民党が解散に追い込まれ、1913年から1916年まで日本へ亡命。
(注)李鴻章
清朝末期の政治家で、太平天国の乱鎮圧や「洋務運動」を推進し、清国の近代化に尽力したが、その功績の陰で、日清戦争で清国の全権大使として日本と「下関条約」に調印したことでも知られ、清国の敗北と国益の喪失に大きな責任を負った人物として記憶されている。
■日本に亡命していた頃の孫文
1911年の辛亥革命後、袁世凱による弾圧を受けた孫文は、1913年から1916年まで日本に亡命し、日本の民間人(梅屋庄吉、宮崎滔天ら)から強力な支援や保護を受けて暮らしていた。
孫文が日本に亡命していた際、日本政府は公式には清朝(後に袁世凱政権)との外交関係を重視し、その要請に基づいて孫文ら革命派の取り締まりや国外追放を検討・実行したこともあったそうで、孫文は亡命中に日本政府から国外追放されないよう、日本の外交当局に好意的な対応を期待する書簡を送るなど、自身の立場を安定させる必要に迫られていた。
孫文は日本の多くの民間人や、一部の軍人・政治家(犬養毅ら)と個人的なつながりを持ち、彼らから資金や武器の提供、身の安全の確保といった支援を受け、政府・軍部関係者も、当初は孫文の活動に接近し、援助を行うことに努めていた時期があったとされる。
孫文が滞在した場所として知られているのは以下の3箇所
- 滔天(とうてん)の家: 1910年頃、中国革命の同志である宮崎寅蔵(滔天)の家で、東京の小石川原町(現在の文京区白山付近)にあった。
- 大倉喜八郎邸: 1905年に中国同盟会が結成された場所で、当時、大倉喜八郎が赤坂葵町(現在の港区虎ノ門のオークラ東京付近)に所有していた邸宅の一部が貸し出されていた。
- 良政(りょうせい)の家: 1899年頃、神田三崎町(現在の千代田区)にあった王興(りょうせい)の住居。
■「中山樵」という名の由来
孫文は東京に滞在していた頃に、日比谷公園近くにあった明治天皇の母方の祖父とされる権大納言中山家の邸宅の表札を目にし、自らを「中山樵(きこり)」と名乗るようになった。
明治天皇の祖父にあたる権大納言中山忠能(ただやす)公の邸宅は京都御苑の北東、猿ヶ辻の北側にあり、明治天皇の生誕地として知られ、現在、京都御苑内には「中山邸跡」として「祐井」や、明治天皇の誕生時などに使われた「産屋」が残されている。
中山忠能公の墓所は東京の豊島岡墓地にあるとされ、明治16年頃には日比谷公園の周辺に中山家の東京の別邸があった。
当時、日比谷の練兵場は青山に移転し、1903年(明治36年)に本多清六の設計で日比谷公園が開園している。日比谷公園の脇には大神宮、電燈会社、鉄道会社、内務大臣邸、華族会館、帝国ホテルなどが隣接し、北の広場には楠公銅像があった。
東京に住んでいた頃、彼の秘書であった宋家の二女慶齢と三度目の結婚
宋慶齢はそれまで孫文の英語秘書を務めており、彼女の父である宋嘉樹(チャーリー宋)も孫文の支援者だった。
1915年10月25日に宋家の二女慶齢は東京で孫文と結婚し、その披露宴は梅屋庄吉邸で行われた。
■中国でも台湾でも尊敬されている「革命の父」「国父」
1935年から1948年まで中国で発行されていた法幣(不換紙幣)で肖像に採用され、現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。
台湾の主要政党である中国国民党(KMT)では現在も孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。
孫文は中国の広東省香山県翠亨村(現在の中山市翠亨村)生まれで、中華人民共和国(中国大陸)において、近代中国の革命家と「中国民主革命の先駆者」(中国民主革命的先行者)として非常に高く評価され、「革命の父」(革命之父 - Gémìng zhī fù)と呼ばれている。
同時に、中華民国(台湾)においては、「国父」(Guófù)という正式な尊称で呼ばれている。
■中華民国初代大統領の座を孫文から譲られた後で皇帝になろうとした袁世凱
袁世凱は1915年には自ら皇帝への即位を宣言し、国号を「中華帝国」と改めた(帝政運動)が、帝政は国内外から激しい反発を受け、わずか83日で撤回に追い込まれた。(第三革命)袁世凱は失意のうち、1916年6月に病死(56歳または57歳)。
袁世凱の死後、彼が率いた北洋軍閥は分裂し、各地で軍閥が割拠する時代へと突入。
■「革命未だ成らず」
孫文は夫人である宗慶齢と共に1916年に亡命先の日本から中国に帰国。中国国民党の前身である「中華革命党」を結成後、中国国民党を改組し、北京政府を倒すため、故郷である広州に「広東軍政府」を樹立。革命軍を組織して北京政府を打倒するための準備を進めた。
五・四運動
中華民国において、1919年5月4日に発生した反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動で北京から全国に広がった。五四愛国運動、五・四運動と表記記される
1924年には孫文は「大アジア主義」に関する講演を行うなど、欧米に対抗するためアジア諸民族の団結を呼びかけた。翌1925年に北京到着後に末期がんで死去。このとき「革命未だ成らず」という有名な言葉を残した。
■孫文が唱えた三民主義
中国革命の基本理論であり、国民党の綱領として採用された。
①民族主義: 清朝(満州族の王朝)を倒し、漢民族を中心とした統一国家を建設すること。後には、漢・満・蒙・回・蔵の諸民族を融合させた「中華民族」としての統一と独立を目指す「五族共和」の理念へと発展。
②民権主義: 民主的な共和制の実現。国民の権利を重視し、普通選挙による議会の開設などを目指した。
③民生主義: 土地所有権の平均(平均地権)や資本の節制を通じて、国民の生活を安定させること。
清朝打倒と中華民国建設という目標に向けて、武装蜂起の失敗や軍閥割拠の中でも諦めずに活動を続けた彼の精神を孫文の別名「中山樵」からとって「中山精神」などと呼ばれることがあるそうです。
孫文の「中山」という別名(中国語読みで「ズンシャン」)は中国でも広く知られるようになり、現在では「孫中山(そんちゅうざん)」という呼称が一般的なのだそうで、孫文生まれ故郷の広東省香山県翠亨村が現在中山市翠亨村となっているのも孫文の別名「孫中山」から来ているらしい。
生まれ故郷ばかりでなく、中国国内の多くの地名や学校名に「中山」が使われているのは、孫文の功績を称えるため、とある。
孫文が中国に導入した「五四青年服」「中山装」
1919年5月4日、北京で起こった反帝国主義運動を、五四運動と言い、孫文は日本の学生服を真似て「五四青年装」という制服を導入した。
孫文の死後、「五四青年装」は「中山服」と呼ばれ、現在の中国の人民服は五四運動のときに革命運動家らが着用した「五四青年装」が由来で、その頃に着ていたものであることからこう呼ばれるようになった。
「五四青年装」は、孫文が取り入れた「中山装」を改良したものであり、要するに、現在も中国人共産党の幹部らが喜んで着用している「人民服」とは日本の帝国大学の学生服のパクリであるのだ。
■中二病のような中国共産党の幹部
中山装は、「中山服」とも呼ばれ、孫文が日本にいた際に東京で目にした東京帝国大学の詰襟の学生服を参考にして、「五四青年装」として作らせたものだったが、1925年に孫文が亡くなった後は、孫文を記念して、「中山装」「中山服」と命名された。
この様な写真をわざわざ撮影し、宣伝用に用い、精神勝利してくる中国という国の単細胞ぶり、幼稚さ・・
現在では、一部の共産党幹部や富裕層のみが着用する、「幹部」であることの象徴が「人民服」なのだそうです。
金井正彰アジア大洋州局長を迎えた中国側の劉勁松アジア局長という方は、わざわざポケットに手をいれている姿の写真を撮らせるなど、外交儀礼に反した中二病の学生さながらの精神勝利、大威張りの体でこの「中山服」を着用なさっておられたわけです。
中国の人民服「中山服」の起源は、孫文が「五四青年装」として中国の革命青年の制服にしたもので、孫文が日本の帝大の詰襟の学生服を真似たもので、更に言えば帝国大の学生服は帝国陸軍の軍服を参考にしたものだった。
「五四の精神を宿したこの衣服は、一世代の若者たちが地に足のついた形で祖国を築く責任を証明し、「愛国・進歩・民主主義・科学」の精神が祖国建設の実践に受け継がれています。 もはや単なる抵抗の象徴ではなく、努力と再生の象徴でもあり、着るたびに本来の意図と使命の実践にこだわるものです」などと誇らしげに上の写真つきで紹介されている。
五四青年装为何如此受欢迎?背后隐藏的精神秘密!|庄重|民族|中山装_网易订阅
中国の高速鉄道も日本の川崎重工製新幹線を丸ごとパクったものだし、方向性電磁綱板も新日鉄の技術盗用、半導体製造の機械も日本製、中国が使用している現代後の多く「共和国」「政府」「議会」「戦争」「発展」「産業」「半導体」など近現代に日本人が作った日本語の借用。
おまけ
1897年(明治30年)頃、孫文は横浜から東京に移り住み、麹町区平河町や牛込区早稲田鶴巻町などに滞在していた。孫文の子孫には、日本の著述家である孫文の孫、宮川東一(1928年 - 2020年)さんという方がおられました。孫文と、日本人の大月薫の間に生まれた娘・冨美子さんを母とした。孫文は横浜で大月薫と出会い、結婚して、2人の間には冨美子さんが生まれた。富美子さんの子で孫文の孫にあたる宮川東一さんは、著書『孫文の孫と娘』(商業界)を出版している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9C%88%E8%96%AB
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コメントを頂きありがとうございます。
父は二十三年目、母が亡くなってからも、もう十年が経ちます。好いですね和服を着てみたく成りましたよ(笑)。父に見守られて母に暖められて育った。この歳に成ると父に母に感謝の情が絶えす湧き出て来ます。曽祖父母、祖父母、父母に教えられたように、私の子供達にも孫達にも同じ気持ちで居たいですね、今は二人だけですから。来年は後期高齢者です。希望はボケが始まる前に、essayのような軽い本を出したいですね。いつも内容の濃いお答えを頂き感謝です。ああそう、父の大昔の写真にはマント姿が写って居ますよ。水戸の偕楽園で祖父と一緒にね。ではまた・・・。
井頭山人(魯鈍斎)
2025-12-08 16:42:00
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