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Vol.036|何のための読書か

『MONOLOGUE』は、備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を毎回3本まとめてお届けするマガジンです。それぞれの内容は独立している場合もあれば、連続性をもたせている場合もあります。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。

何のための読書か

「わざわざ本を読まなくても、AIにその本を要約させればいい」みたいな言説に触れるたびに、そしてそうした言説が一定の支持を集めていることを確認するたびに、何のための読書かを再考させられる。

単に効率的に情報を得ることが目的ならば、そりゃそのほうが話は手っ取り早い。そうした目的に照らすならば、内容のほとんどはノイズにすぎないのだから。ノイズを徹底して排除し、論旨だけを抽出せんとする要約という思考プロセスは、AIが得意とする領域であることもよくよく理解できる。

しかしながら、それってわざわざ人間がやるべきことなのだろうか。AIを使いこなしているようでいて、その実、AIに使われてはいやしないだろうか。自分にはハンマーを持てばすべてが釘に見えるかのごとく、AIによって逆に行動を規定されているように思えてならない。なんたる誤解。なんたる不自由。AIという強大なゲームチェンジャーを目の前にして、本来の目的を見失っている。

では、読書における本来の目的とは何か。思うにそれは「感性を育む」ことだ。エビングハウスを引き合いに出すまでもなく、どうせ時間が経てば読んだ内容の九割九分を忘れるというのにもかかわらず、読書をする意義はまさにここにある。育まれた感性が失われることはないし、たとえほとんどすべて内容を忘れてしまったとしても、感性へと深く突き刺さった一文だけは決して忘れない。脳での記憶はすぐに忘れても、感性での記憶は絶対に忘れない。

そして、そうした感性を揺さぶる一文は、往々にしてノイズの中にこそある。それゆえノイズを排除してしまうと、情報を得る効率性は上がるかもしれないが、感性を育む機会損失とのトレードオフになる。読書における本来の目的が「感性を育む」ことだとするのならば、これでは本末転倒である。

二十代前半の頃だっただろうか。『紳竜の研究』というDVDを買ったことがある。1980年代の漫才ブームを牽引したコンビの一つである『紳助・竜介』の足跡をたどったドキュメンタリーで、NSCでただ一度だけ開催された島田紳助による芸人論講義も収録されていた。

いかんせん十数年前のことなので、ほとんど講義の内容は覚えていない。売り払った覚えはないのだけれど、いつのまにやらDVDもどこかへいってしまった。

けれども、今でもはっきりと覚えていることがある。それは「心で記憶する」ということ。頭で覚えたことは忘れるけど、心で記憶したことは忘れへん。だから絶えず心で記憶する自分でいやなあかんのやと、そう熱弁していた紳助の姿は、今でもありありと思い出せる。なぜかはわからないけれど、この話そのものが当時の自分の心に深く突き刺さったから。まさに「心で記憶する」をメタ的に体現しているわけだ。

当時はなんとなくでしかこの話を理解できなかった。が、今は違う。いかに心で記憶し感性を育むか、その大切さがよくわかる。もはや感性がすべてといっても過言ではない。AIが台頭するこんな時代だからこそ、要約に頼らずにノイズを甘んじて受け入れ、じっくり本と向き合いながら感性を育むべきなのだ。

読書とは対話である

感性を育むための読書とは、とどのつまり対話である。ここでいうところの対話とは、著者との対話であり、ひいては自己との対話である。対話なくして感性は育まれない。

「年間1000冊は本を読んでます」みたいに多読をアピる人が、なぜあんなにもペラいのかというと、読書が対話になっていないからである。読書が対話になっているならば、そもそもそんなに数を読むことはできない。その冊数とアピりたがる態度からは、情報を得ることが目的となっていて、著者ひいては自己との対話がまったくといっていいほど為されていないことが透けて見える。それゆえろくに感性が育まれず、なんだか表面的にいろいろ知ってはいるものの、人間的には耐えがたいほどにペラッペラなやつと化している。単に物知り博士であるだけならば、それこそAIには逆立ちしてもかなわないわけで、競争優位性は皆無である。

ペイパルマフィアのドンことピーター・ティールは、競争するのは敗者のやることだという。敗者がこぞって競争している中で、勝者は独自性を発揮し、競争のない独占状態を築くのだと。競争に勝つためにはそもそも競争しないこと、皮肉にもこれこそがもっとも強力無比な競争戦略なのである。

こういうことを述べると、私には独自性なんてありませんと悲観する人が後を絶たないが、そんなことはありえない。なぜなら、あなたという存在そのものが独自性だから。原理的にこの世界にあなたという存在はたった一人しかいないという歴然たる事実、これを独自性と言わずしてなんと言うのかという話で。それゆえあなたがあなたでいるだけで、自動的にそれはもっとも強力な競争戦略をとっていることになる。

だからこそ、感性を磨くべきなのだ。感性を磨けば磨くほどに、それだけ独自性が際立つようになっていく。

感性を磨くと独自性が際立つとはどういうことかというと、これは草花の成長を思い浮かべればわかりやすい。草花は種子の時点で色も形も違っているが、成長して花を咲かせることでその違いはさらに際立つことになる。存在としての独自性とはすなわち種子としての独自性であり、成長にともなう独自性とは花としての独自性である。

若かりし頃、真理を追い求めてさまよっていた時期に、一冊の本との出合いがもたらされた。出合った当時の脳天を撃ち抜かれたかのようなあの衝撃は、今でも忘れられない。すべてが報われたような思いだった。追い求めていた答えのすべてがここに書かれていると感じた。まさにそれは自分にとっての統一理論と呼ぶべきもので、靄がかった不可思議な世界が強烈な光によって照らしだされ、理解可能な構造と化した瞬間であった。

それからというもの、何度も何度も繰り返し同じ本を読み続けた。より正確には、その本はシリーズものとして十数冊出版されているので、数年にわたって何周も何周も読み続けた。先人が記した解説書とも照らし合わせながら、何を伝えようとしているのかを問い続けた。精読に次ぐ精読、重読に次ぐ重読。そうした対話の日々があったからこそ、今の揺るがぬ自分がいる。

平均的な水準に比べれば、人よりは本を読んでいるほうだとは思う。とはいえ、そもそも現代人はあまりに本を読まなさすぎるし、月に何冊読むのか、年に何冊読むのかなんて数えたこともないけれど、いずれにせよたかがしれている。冒頭の数十ページだけ読んで積読した本も大量にあるし、読破したという意味ではもっと少なくなるだろう。これも正確に数えたことはないものの、蔵書だってせいぜい500冊程度のものだ。電子書籍かつ漫画を含めていいのならば、おそらくその十倍はあるだろうけれど、紙媒体かつ漫画を除けばせいぜいそんなもの。定期的に本棚の断捨離を繰り返しているとはいえ、世の自称多読人からすれば、鼻で笑われるレベルであろう。

けれども、そんなことはどうだっていいのである。たしかに自分の感性を育んだのは、今の揺るがぬ自分を形作ったのは、そうした蔵書の数々ではなく、一冊の本と人生をかけて向き合い続けたあの対話の日々なのだから。

原体験を探るということ

何に耐えがたい痛みを感じたのか、そしてそれは何によって救われたのか。このような原体験を探ることは、感性を磨き独自性を発揮する上で、大きなヒントとなる。

自分の場合、それは「存在論的不安」であった。とにかく何もかもがわからない。この世界がいったいどうなっているのか。自己とはいったい何なのか。何のために生きて死ぬのか。なぜこんなにもわからないことだらけの世界の中を、みんな平然と生きていくことができるのかがまったく理解できなかった。

最初に存在論的不安に目覚めたのは、小学校低学年のころだったと記憶している。両親といっしょに寝ている部屋で夜中にふと目が覚め、しばらく寝ぼけていた後にふと母親の寝顔に目をやった瞬間に、何の前触れもなく「それ」は襲ってきた。

「怖い。この世界が怖い。自分がいなくなっても、何の変哲もなく回り続けるこの世界が怖い。今こうして自分が怖がっていることすらも、世界にとっては無意味。母親と自分、その親子という関係も世界にとっては無意味。今過ごしているこの部屋という空間も無意味。なんだ……なんなんだこの世界は……あ”ぁあ”あ”ぁあ”あ”あぁぁ!!!!」

当時はまったく言葉にならなかったが、あえて言葉にするならそういう感覚。声にならないのに、全力で叫んだ。当時はこの不安の正体がよくわかっていなかったが、今振り返ってみるとあれは明らかに存在論的不安の目覚めであった。

実はこの存在論的不安は、誰もが抱えているもの。それをはっきりと自覚できるかどうかに個人差はあれど、誰もが例外なく抱えている。

知る人ぞ知る宇多田ヒカルの説法がある。インスタでファンの質問に答えていた宇多田ヒカルが「誰かと別れると立ち直るのにどうしてこんなに痛みが伴うの?」という質問に対して、以下のように答えたものだ。

「誰かを失うと痛みが伴うときもあるけれど、その痛みは初めからあったものなのかもしれない。たぶんその人間関係が鎮痛剤の役割を果たしていたようなものだったのだと思う。既にあなたの内側にある痛みから気をそらしてくれていたもの。支えになるような人を失うと、また痛みで苦しんだりする。どんなに依存しないように気をつけていたとしても、そういう関係性は薬物みたいなものになり得る。痛みが既にあるのなら」

宇多田ヒカルの説法

さすがは一時代を築いた宇多田ヒカルで、やはり非凡な感性と言わざるをえない。自分が知るかぎり、誰一人としてこの説法から存在論的不安に敷衍させていないが、これはまさに存在論的不安の性質をよく表しているように思う。

存在論的不安は、はじめからそこにある。絶えずわれわれを襲っている。そのことに気付いてしまうと、生きることを諦めてしまうほどに辛く苦しい。だからこそ、人は存在論的不安から目を背けている。その目を背けるための手段の一つが人間関係で、誰かに依存することで存在論的不安から目を背けている。そして、その関係性が離別や死別によって引き裂かれた時、人は存在論的不安と直面する。

痛みとその救済にこそ託された使命が隠されているのならば、自分は先に述べた統一理論を広めなければならない。存在論的不安を真正面から受け止め乗り越えていく上で、この統一理論は欠かせないものであったから。

それは決して多くの人が欲するようなものではないだろうけれど、ごく少数の生に真摯な人たちは、今この瞬間も真理への渇きで苦しんでいるはずなのだ。自分がたどりついたこの統一理論がその人たちにとっても統一理論になるかはわからない。真理という山をどういうルートで登るかは人による。それでもなお選択肢の一つとして、可能性の一つとして提示しなければならない。それは自分にしかできないことだから。そこから先はどこまでいっても当人の問題である。

暇を見つけては、そういう思いで本マガジンと並行して執筆を進めてはいるものの、はたして発表はいつのことになるやら。書籍のほうも今や絶版になってしまっているので、同人的にわかりやすく構成した全集も作りたい。書きたいこと、書かねばならないことは無数にある。

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