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「Jリーグ」と「税リーグ」の間で

フリーライター
開幕節は各地で雪になった写真:YUTAKA/アフロスポーツ

百年構想リーグ開幕

 寒い開幕になった。

 よりによって最強寒波が襲来。多くの会場で震えながらのオープニングマッチになってしまった。

 想定外の積雪で試合がキャンセルになったところも出たから、ここぞとばかりに「秋春制」を非難する投稿がSNSでも再燃していた。

 もっとも多くの人がコメントで指摘しているように、新たなカレンダーでは12月後半から2月中旬までは「ウインターブレイク」。この時期には試合は行わないし、「想定外」が毎年起こるわけでもない。

 それに積雪地域の不利は、シーズン移行に関わらず、これまでもそうだった。気の毒だとは思うが、Jクラブは地域とともに存在するのだから受け入れるしかない。

 気候や風土もそれぞれなら、人口や経済環境もそれぞれ。それがホームタウンだ。条件は同じではない。

 それどころか世界的大企業に支えられるクラブと、親会社のないチームが戦うリーグでもある。不平等を嘆いても仕方ない。

 それぞれがそれぞれの条件や環境を、つまりホームタウンを背負って戦うからこそ、そこに郷土愛も矜持(プライド)も生まれる。

 そういえば以前、仙台を舞台にこんな原稿「仙台で考えるホームタウン」を書いたが、実は(プロ野球同様、Jリーグも)ホームタウンを移転することはできる。

 もっと温暖なエリアへ、もっと人口の多い町へ、もっと経営環境のいい地域へと移ることも規約上は可能なのだ(Jリーグ規約第24条(5)

 もちろんJリーグとともに誕生した「ホームタウン」と「サポーター」という言葉(1993年の新語流行語大賞です)がすっかり浸透したいまとなっては、現実的には難しいだろう。

 感情的な反発が必至で、むしろリスクの方が大きい。

 つまり、いまいる場所から動くことができない以上……。

 ホームタウンのすべてを受け入れ、ホームタウンとともに発展するしかないということだ。

 余談として付け加えれば、もっとライトな方法として「譲渡試合」という手もある。

 実際、Jリーグ草創期にはホームゲームを地方で開催した首都圏クラブもあった。さらに遡って日本リーグ時代にはそう珍しいことではなかった気がする。

 たとえばセカンドホームタウン的な町を設定し、そこでキャンプを行い、寒い時期の開幕もそこで迎える……なんてアイデアも(サポーターに受け入れられるなら)できないわけではないということだ。

参考:Jリーグ規約「主管権譲渡規定」

スタジアム問題と税リーグ

 Jリーグと同じタイミングで冬季五輪も開幕になった。

 開会式が行われていたのはジュゼッペ・メアッツァ・スタジアム(サンシーロ)。

 ご存知、ミラノの2チームのホームスタジアムである。

 テレビ画面に映し出された外観が、随分前にセリエAのゲームを見に訪れたときのままだったので、気になって検索してみたら現在の3階建て構造になったのは1987年。なんと40年近く前だった。

 ちなみに所有者はミラノ市。運営は両クラブが設立した会社で行われていて、新スタジアムの話も出ているのだが、建設地の錯綜、議会の反対で……と読み進めながら、つい唸ってしまった。

 この日、僕が訪れた(レモンガス)平塚競技場も同じ1987年の竣工で、やっぱり新スタジアム話が頓挫中だからだ(川淵三郎初代チェアマンの発言も話題になっていた)。

 おまけに対戦相手は、やはり大きなニュースになったブラウブリッツ秋田。

 言うまでもなく「スタジアム問題」はいまやJリーグの抱える最大のテーマだ。この両チームに限ったことではない。

 かつては地方の首長選挙で「地元Jクラブへの応援」を公約に入れ込む候補者も少なくなかった。好感度アップにつながったからだ。

 でも、「税リーグ」批判が姦(かしま)しい現在ではそうはいかないだろう。むしろ取り扱い注意のネタである。

 もちろん変わったのはJリーグではなく、「時代」の方だ。

 なぜならJリーグはその企画段階から公のお金、つまり税金を取り込む構造だったからだ。

 それまでの企業依存ではなく、市民・地元自治体も加えた「三位一体」で……とはそういうことで、当時はそのビジネスモデルの新しさが共感を集め、行政の参入を促すことにも成功していたのだ。

 時代を俯瞰すれば、プロリーグ構想が動き始めた1980年代後半、日本サッカーはマイナーだったが、日本経済は好況に沸き立っていた。企業の業績も堅調で、自治体の財源も豊かだった。

 90年代前半もまだバブルの余韻が残っていたから、「あなたの町にもJリーグはある」というキャッチフレーズに地方都市を誘引する力があったのだ。

企業スポーツと市民クラブ

 企業も同じだ。

 ちょうど「メセナ(現在のCSR)」という概念が流行していた時期。カネ余りを背景に、文化やスポーツへの貢献を企業がアピールしていた時代だ。

 地域貢献室などという部署が突然社内に設けられたのもこの頃だった。

 ブームによって高騰した選手人件費を賄っていたのは紛れもなく(クラブではなく)親会社だった。

 だから当然、バブル崩壊後、親会社の経営が悪化すると、多くのクラブが存続危機に陥った。

「企業スポーツからの脱却」と喧伝されてはいたが、実態は程遠かったのである。

「フリューゲルスの悲劇」が起きたのは創設からわずか6年後。

 しかし危機に瀕していたのはフリューゲルスだけではなかった。実際には「消滅したのがフリューゲルスだけで幸運だった」と言わざるを得ないほどの、そのまま「ドミノ倒し」が起きても不思議ではない状況だった。

「平塚」から「湘南」に変わったベルマーレもその一つだ。

 フリューゲルス同様、ゼネコン不況で経営再建を余儀なくされた親会社が撤退。新たな親会社を探すが見つからず、辛うじて「市民クラブ」としてチームを存続した。

 そこからJ2で10シーズン。その10年はJリーグそのものが存続を賭けて「縮小均衡」(経営諮問委員会とクラブライセンス制度)に励んだ時期とも重なる。

 そして、ようやくJ1昇格を果たした後には「エレベータークラブ」という不安定な立場が待っていた。

 結局、選んだ道は新たな「親会社」、つまり企業回帰だったのだが……。

 やはりこのオフ、週刊誌まで賑わせることになった。

 興味深いのは親会社への不信感を露わにする地元メディアが「ベルマーレは市民クラブ」と主張していたことだ。

 それは、もがき続けた末に市民クラブの限界を悟り、親会社を求めたという僕の認識とはかなり違うものだった。

 そもそも「市民クラブ」とは何なのだろう?

「Jリーグ」を考え直したい

 試合にも簡単に触れておこう。

 前半は「ハーフコート」だった。押し込んでいたのは雪国クラブ、押し込まれていたのは昨季J1クラブである。

 チームの完成度の差は歴然。迷いなく相手ボールに襲い掛かり、そのまま迷いなくゴールに迫るブラウブリッツの迫力が、ベルマーレを圧倒していた。もしもJ1だったら1失点では済まなかっただろう。

 シーズンが始まったばかりだというのに、ブーイングを浴びせなければならなかったサポーターに同情するような内容だった。

 だから試合後の会見で、今季新たに就任した監督が「寒い中、駆けつけてくれたのに、申し訳ありませんでした」と頭を下げたのは当然。

 でも同時に、チーム作りはまだこれからなのだろうという気もした。

 なんせこの大会は昇格も降格もないのだ。「埋め草みたいな大会」と称していたサポーターがいたが、言葉はともかく、ニュアンスには同意する。

 シーズン移行のために「空白」となる期間を活用して行う「リエゾン(つなぎ)」的な大会である。

 本番は8月から、という考え方もありだと思う(実際、投資=補強を先送りしているチームもある)。

 だから個人的には、この期間を「Jリーグ」を立ち止まって考え直すタイミングにしたいと思っている。

 創設から30年以上が過ぎ、社会も価値観も大きく変わった。

 当然、世論も変わり、「税リーグ」というフレーズに反映されているようにJリーグへの視線も変わった。

 ビジネス環境にいたっては目に見えて劇的に変わり、しかも加速度的にいまも変わり続けている。

 後発のBリーグがさらなるアップデート(というか早くも第二創業)に取り組んでいるのを見れば、Jリーグも変わらなければならないのは明らかである。

 視野を世界に広げれば、その必要性はさらに強まる。

 信じられない人もいるかもしれないが、創設時Jリーグの経営規模はプレミアリーグとほぼ同じだったのだ。それが30年で10倍近い差をつけられてしまった。

 サポーターが「うちのクラブはお金がないから選手を抜かれる」とボヤいているが、「うちのクラブは」ではなく「Jリーグは」という立ち位置なのである。

 つまりJリーグ自体が「育成リーグ」化しつつあることを認識すべき段階なのだ。

 少なくとも、マーケットがグローバルなサッカーは国内だけで完結するビジネスではないことは理解しておく必要がある。

 そして、もちろん「市民クラブ」についても、この機会に改めて考え直したい。

34年前……

「百年構想リーグ」はリエゾン的な大会と書いて、過去にも同じようなトーナメントがあったことを思い出したので、最後に。

 日本リーグからJリーグへの移行期。つまり「最後の日本リーグ」が終わり、「新たなプロリーグ」が始まるまでの空白期間に開催された「ナビスコカップ」である。

 1993年Jリーグ開幕の前年秋、これがJリーグにとって最初の興行だった。

 ちなみに最後の日本リーグは、開幕が1991年9月で、最終節が1992年3月。そう、日本リーグは「秋春制」だったのである。

 もちろん当時と現在では状況がまったく違う。チーム数も、地域分布も比べようもない。

 それに日本リーグは関東より北にチームがなかったので、雪の心配をする必要があまりなかった。

 何よりプロリーグではないので集客にこだわる必要がなかったし、選手の海外移籍を気にする必要もなかった。

 それでも、日本もかつては「秋春制」でやっていたことは知っておいてもいいだろう。

 そういえば、サッカーは「ウインタースポーツ」と呼ばれていたのだ。

 改めて、その第1回のナビスコカップ。

 優勝したのはヴェルディ川崎だった。もちろん現在の東京ヴェルディだ。

 ホームタウンは移転できるのである。

 当時のヴェルディは代表選手がずらりと並ぶスターチームだった。

 でも、その日本代表はまだワールドカップに出たことがなかった。翌年が「ドーハの悲劇」、そこからさらに4年後にようやく「ジョホールバルの歓喜」である。

 しかも、このJリーグ初興行、当初はそれほど観客も入ってなかった。

 大宮サッカー場でのレッズの開幕戦、前売り券はわずか1000枚しか売れていなかった。「ヤバいから招待券を蒔くか」という話も出たが、「いや、みっともなくても、まずは自分たちの実力を知ろう」と我慢したあたりがJ最大クラブへの道の始まりなのだが、それはまた別の話。

 スタンドが満員になり、ゴール裏で観客が歌い始めるのは、大会期間中に行われたアジアカップ(広島)で日本代表が優勝してからだ。

 そして、その日本代表を優勝に導き、このナビスコカップでも得点王とMVPとなり、そしてJリーグ人気を牽引していくのが――言うまでもないだろう。

 百年構想リーグ開幕戦でも福島ユナイテッドのスタメンとしてピッチに立ち、34年後もやっぱりスタンドを沸かせたカズである。

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ありがとうございます。
フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、週刊誌にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツを中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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