【老害たちのお祭】ジークアクスという無様な「現象」について
はい。
表記の通り、本稿は「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」(以下GQ)に関する否定的な評論です。
正直、このアニメについて記事を書くつもりはありませんでした。
というのも、
「どうせ制作陣は『もっと拒否反応や否定的意見が出ると思ってたんだけど、いやー意外とウケたなあ』とか白々しいこと考えてんだろうな」という霊感があったからです。
実際どうだか確かめる方法もありませんけども、腹の内は大して変わらないんじゃないですかね。
否定的に反応したところで「イヤイヤ、こっちは分かってやってますよ」というスタンスを取るつもりの方々が作った作品(とも呼べない何か)に怒ってみせるのも、退屈じゃないですか。
なのにわざわざ休日に時間を割いてこんな記事を書くことにしたのは、さすがに腹の中に汚いものが渦巻き過ぎてしまったからです。
渦巻き、溜まり、日常生活に支障をきたすほど(というと大げさですが)苦しくなったからです。
だからその汚いモノを出さんがために言葉にしました。
いわば排泄行為ですね。
「てめえ自分の排せつ物をネットに上げて全世界に配信してんのか」
と言われそうですが、僕の排せつ物を見せることで、
「ああ、なんか熱狂してたけどやっぱこのアニメ排泄物よね、クソよね」
と巷のおじさんたちに正気に戻っていただきたい目的もあるので、遠慮なくアップいたします。
排泄物をアップした僕とそれを観察したあなたで、この糞尿くさいアニメをちゃんと墓穴にぶち込もうじゃないですか。
祭りは終わりました。みんなカラーという狐に化かされてたんです。
そもそもお祭りなんてやってなかったんです。よく見てください、そこ肥溜めです。あなた肩まで糞尿に浸かってたんですよ。
さて。
この記事、僕としては初めて有料配信することにしました。
だって、絶対殴られるって決まってるんですよ?
ガンダムおじさん、通称「ガノタ」さんってめちゃくちゃお行儀悪いじゃないですか。
冒頭から糞尿だの排泄だの言ってる僕ですら、呆れてしまうくらいお行儀悪いことがSNSでしっかりバレてるじゃないですか。
こんな記事をアップすれば、ガノタさんたちが乗り込んできて訳のわからないことを喚き散らすのは目に見えてるじゃないですか。
殴られるのが分かってるんだから、せめて金くらい置いてけよと考えるのは至極当然じゃないですか。
金額だって大したもんじゃないですよ、1000円です。
僕みたいな素人の文章に払うには高いでしょうが、インターネットで安全に見ず知らずの人を殴る権利として考えたら安いもんです。
1000円も払えないやつが、のこのこ他人にお気持ち表明してんじゃねえって話です。まあ僕はGQにお気持ち表明しますが。
実際のところは、既にGQに関する記事を上げている方の記事を見て予想通り荒れていたのでコメント欄を封鎖しようと思ったものの、プレミアム登録が必要なことにアップ時点で気が付き思いついたものです。
わざわざこの記事のためにプレミアム登録するのもイヤだし、有料にしたら変な人も寄ってこないんじゃないか、という浅はかな考えからです。
半年ちかく経ってから公開したのも、時間が経てばおじさんたちもさすがに大人しくなってるだろ、と思ったからです。
大半を無料公開にしてあるので、お金を払わずとも大筋は読んでいただけます。殴りたきゃ1000円置いていってください。
※有料部分は数行もないので、続きを読む感覚で課金しないよう注意を
はい、じゃあGQの批評を始めたいと思います。
■はじめに
具体的な批判点に移る前に明確にしておきたいことがあります。
というのも、冒頭でも触れましたが、本作の制作陣は明確に「賛否両論」を覚悟して制作されている、という点です。
「最初から否定的な意見が出ることくらい想定してますよ」
「そのうえであえて好きなことやってますよ」
というスタンスなんです。
だからこそ旧作MS登場時に関連したBGMを流してウケを狙うなんてことも躊躇なくやるわけです。
もちろん実際にウケた点は評価されるべきですが。
しかし、じゃあ製作陣が完全に「作品」を作ることを放棄し、瑣末なネットウケだけを狙って作ったのかというと、絶対にそんなことはありません。
明確に「作品」を作るために「物語」を折り込もうとした形跡があります。
例えばマチュが出会う大人たち。アンキー、シイコ、キシリア、ララァ。
少女が大人の女性たちと出会い、自分と違う価値観に触れ、大人へと成長していく「構図」にはなっています。
そういう「物語を形成しようとした」のは間違いありません。
物語として形成しようとしていたのだから、物語として批評されるのは当然のことです。
真面目に評価される段になって「まあお祭りみたいなものなんですから」は通用しません。
これを踏まえ、あくまで真面目に正面から、GQを物語として批評していきたいと思います。
■チープな「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」のチープな批判
本格的な批評の前に、まず僕が「あ、これは的外れやなあ」と思った批判についてお話させてください。
GQはとにかく毀誉褒貶の多い作品です。
Xでも、大絶賛が洪水のように流れたと思ったら、蛇蝎のごとく非難する声が上がってくるという状況でした。
かくいう僕も後者でした。
映画視聴直後などはかなり憤っていました。
とはいえ話数が進むにつれて、なんだか真剣に批評するのもばからしい気分になったのですが。
しかしそんな僕でも「いやいやそれは違うんじゃない?」という指摘、批判も多く見受けられました。
まずはその的外れな批判をやっつけるところから始めていきましょう。
正しく批判するうえで最も邪魔なものは、的はずれな批判です。
主に目にした「的外れな批判」は、下記辺りでしょうか。
①「7話で民間人に被害が出ているはずなのに全く描写が無い」
②「9話で娼館が出てくるのが気持ち悪い、性的消費だ」
③「GQはなにひとつ新しいものを生み出してない、ただの同人誌だ」
いやー、どれもこれも本当に間違ってますね。
何考えてこんなこと口走るんでしょうね。
まず①。
民間人が犠牲になるという事件が起きる、というのはドラマとしても重要な要素です。
が、フィクションの中の戦争が必ずしも「悲惨さ」や「反戦」文脈で表現しなければいけないことはありません。
また「悲惨さを語る演出」は、その被害者たちを画面で描くことばかりでもありません。
7話の描写には違和感を抱くところは多々ありますが、悲惨さを描かずソフトにしているという指摘は的外れです。
この作品を評価するうえで意味があるものではありません。
この批判は、
「現代アニメは美少女ばかりで戦争の悲惨さが伝わらない!軽薄だ!!」
という、よくある雑文脈で絡めとる発想から来ているだけでしょう。
とはいえ、
「実際にウクライナとロシアが戦争を続ける時代に通用する内容だったか」
「2025年という時代感を踏まえてしっかり物語に昇華できていたか」
というところまで話を広げていくと、ある程度意味のある指摘になってくると思いますが。
次に②。
これは本当に意味のない批評といいますか。
いや、批評にもなっていないですね。
・娼館が出てきたから性的搾取
・娼婦が出てこないならOK
こんな評価いったい何の意味があるんでしょう?
鬼滅の刃で遊郭が出てきた時にもこういった指摘がありました。
フィクション作品に女性から性を搾取する目的の施設が出てきたところで、性的搾取を肯定したことにならないことくらい、普通に生きていればわかると思うんですが。
逆説的な理由から、
「昨今のアニメと比べてGQには性的搾取に繋がる描写が少ない」
みたいな賛辞も、何を考えて口走ってるんだろう?としか思えません。
この手のモノの見方をする方の「批評」には、まともに耳を貸す必要もないでしょうね。
フィクションを見る資格すらないといって良いと思います。害悪です。
最後に③。
これはちょっと難しいといいますか、話の順番を選ぶ必要があるんですね。
まず、結論から言ってGQは確かに「同人誌」です。
言い切ります。二次創作です。
けれどこの作品を批評するにあたって「二次創作だからダメだ!!」みたいな指摘は何の意味もないんですね。
そもそも、GQを試聴した方で、原作となった「機動戦士ガンダム」を全く知らないという方は、日本中、いや世界中探しても存在しないでしょう。
実際に原作アニメを見たことが無い人は多くいらっしゃるでしょうが、存在すら認知していないなんて人、いますかね?
トリコロールカラーの「RX-78」を見ても
「何ですかこの派手なロボットは」
という反応をするタイプの人が見るアニメじゃないことは、皆さん理解されているはずです。
ようはみんな「二次創作みてーなもん」というのは飲み込んだうえで視聴なり観覧なりされてたんですよ。
そんな作品に対して「二次創作だ!」と指摘したところで無意味でしょう。
二次創作なんですよGQは。そのうえで二次創作としての価値を批評しないと意味がないんです。
上記のような「間違った批評」をされるタイプの方は、あまりフィクション作品についてとやかくご意見を申さない方がいいと思いますね。何かを評価するに足る見識や尺度を持ってらっしゃらないんじゃないでしょうか。
そもそも①②に関しては「アニメ作品への評価」とは別軸でモノを見ているので、そもそも真剣に相手しないでおくのが正解でしょう。
では本当に前置きが長くなってしまいましたが、GQ本編の批評に移りたいと思います。
■古臭いエンジンとファッショな自由主義
まず最初にお話ししたいのはGQが持っている「時代感」の古さです。
作品全体がとにかく古臭い。悪しき平成臭がすごい。
まず本作の主人公は、アマテ・ユズリハ(以下マチュ)、10代の女子です。
そして彼女が住むのはスペースコロニー「サイド6」。
原作では「ジオンと連邦のどちらとも取引をしている商人」程度のチョイ役だったペルガミノが大統領を務めるコロニーです。
街並みや人間の雰囲気は現代・令和の日本によく似ています。
スマホとアプリ、電光掲示板、制服の女子高生。
裕福な社会のすぐ傍にある貧困と難民。
よく似ているというか、ざっくり現代の流用ですね。
ガンダムシリーズをはじめ富野由悠季監督作品は、あまり現代と直接接続しません。
日本の学生が出てくるのもダンバインとザンボット3、ブレンパワードくらいでしょう。
ですが本作は未来のコロニーに令和の日本社会を取り込んでいます。
これ自体は特に良し悪しはありません。
この物語は我々現代の日本に生きる人たちと同じ「目線」にありますよ、
そう遠くない価値観の人たちの物語ですよ、
ということを伝えるための常とう手段。
一年戦争が終わってから迎えた「戦後」社会、という暗喩もありますかね。
しかし実際に物語が始まると、この世界観が足を引っ張るんですね。
というのも、マチュが全く「現代の女子高生」然としていないんですよ。
念押しでもう一度言いますが、GQのサイド6は現代日本です。
ところどころ違う点はありますが、違和感なく視聴者がアクセスできるようによく模倣されています。
ところが。
なぜか主人公のマチュは全く「現代人」じゃないんです。
アニメ開始冒頭、マチュは逆立ちしながらスペースコロニーの仕組みを語りつつ、
「私たちを地面に押しつけている この力は 本物の重力じゃない」
とつぶやきます。
情報過多気味の世界観説明からのナイーブな独白。
内面に潜り込んでいくような広角接写。
適度に知性を臭わせるセリフ回し。
うーんいかにもカラー、いかにも元ガイナという始まり。
この雰囲気にも特濃の「平成」を感じますが、まあこれは別に悪いもんじゃありません。
いつもの例のやつ、よく知ったあの味、というやつ。
僕は趣味じゃないけど、まあカラー作品はこういうもんでしょ。
ところがこのマチュが動き始めると、耐え難いレベルの激しい「平成臭」を放ち始めます。
GQ第1話のあらすじはこうです。
「同じように続く毎日。代り映えのしない画一的なクラスメート。やる気を持てない進路希望。すれ違う親子関係。そこで出会う謎の難民の少女。退屈な毎日が何か変わるかと少女の話に関わった先で、偶然目にした正体不明のモビルスーツ。その場の勢いで乗り込む主人公。とたんに広がる謎の美しい光景。退屈な日常を塗り替えてしまう、鮮やかな何かが広がる」
うーん。
ほんと自分で書いてて「古臭すぎるわ」と苦笑いが浮かんできました。
今どき、
「代り映えしない毎日に鬱屈としていた僕らが、うっかり大それたことをしでかしてしまう。いけないことだとはわかっているけど、退屈だった日常が極彩色に塗り替えられていく」
みたいな構図、通用するわけないでしょ。
宗田理じゃないんですよ?「僕らの七日間戦争」じゃないんですよ?
何時代に生きてると思ってるんですか。平成通り越して昭和ですよ。
加齢臭がすごいんですよ、お話の構図からして。
マチュの行動原理は一貫して
「普通じゃ嫌だ、不自由は嫌だ、特別な何かに飛び込んでいきたい」
というものです。
そして誰に対しても思ったことをはっきり言う性格。
これがもう圧倒的に令和感がない。
令和のガキはみんなお行儀良いんですよ。
生まれた時からインターネットがあって、陽の光よりも多くの冷笑とニヒリズムを浴びて育った子供達なんです。
「客観視」のパラメータが他の世代より飛び抜けて高いんですよ。
「自由!個性!かけがえのないアタシ!!うおおお!!!」
なんてムーブかましたら、鼻で笑われて頭から冷笑を浴びせられてずぶ濡れになって終わりの世代なんですよ。
今時の若者は行儀の悪さに敏感なんですが、そういう時代感を全く意識せず、おじさんたちの若い頃の「若者像」で作られているのがGQなんです。
「バラエティ番組のMCが手を焼くタイプのベテラン大物俳優」
みたいな感覚でお話を作ってるんですよ、信じられないことに。
しかもこの異様な「自由!個性!自我!」推しはマチュだけじゃないんです。
例えば4話で大した意味もなく殺されるシイコ。
彼女も同じような価値観の人間なんです。
彼女は一年戦争でシャアに自分のパートナー(おそらくニュータイプ)を殺されています。そして戦後、家庭に入って子供を産みました。
作中ではそんな自分の半生を、
「特別な存在ではなく、普通に結婚し普通に子供を作り普通の人間になる」
と振り返っています。
『特別』だから、『個性的』だから、ニュータイプに憧れた。
それが奪われ、自分を『特別』から『普通』に『貶めた』。
だからシャアが乗っている赤いガンダムを狙う。
それが彼女の行動原理なんですね。
マチュが持っている行動原理とよく似ています。
わかりますでしょうか。
『個性』と『自由』と『特別』がこの作品の絶対正義なんです。
驚くことに。
「作品全体はさすがに大げさなんじゃねえの」
と思われる方がいるかもしれませんが、全くそんなことはありません。
本当に登場するメインキャラクターの大半がこういう価値観を持っているんです。
キシリアはニャアンに、
「宇宙ならあなたはもっと自由になれる」
と諭し、ララァはマチュに、
「宇宙に行けば、私はきっと自由になれる」
と打ち明けています。
コモリは、
「本物のニュータイプならそんなことはしない」
と言い放ち、エグザベは、
「本物には理由が無いんだ」
と、まるで自分が偽物であるかのように含みを持たせた言いかたをする。
シャリア・ブルにいたってはマチュに、
「あなたは自由に思うようにやってください」
と許可を出しつつ、
「木星で全てを失い自殺しようとした瞬間、私は本当の意味で自由になれた」
などと吐露しています。
「私は自分が空っぽになってしまったことに気づきました」
とまで言う始末。
オメガサイコミュに触れた時のマチュとニャアンが口にしたセリフもこの価値観から出ています。
マチュ「世界の方が私に答えようとしてくれる」
ニャアン「私の思う通りに世界が答えてくれる」
挙げ句の果てには、最終回でシャリアが
「きっと、自由のために傷つく者こそが本物のニュータイプなのだから」
などとのたまう始末。
自由、自由、自由。
自分、自分、自分。
個性、個性、個性。
特別、特別、特別。
ほんと、頭がおかしくなりそうですよ。
かけがえのない自分という唯一の存在が最も特別で素晴らしく、何物にも縛られていない状態こそが在るべきかたち。
こういう価値観がこの作品全体を隠然と支配しているんです。
しかもこの価値観が正しいのか間違っているのか問われてすらいない。
無謬のまま、絶対正義と信じて主要キャラクターたちで共有されている。
間違っているかもしれないと議論の俎上に上げる者すらいない。
気色悪いですね。何らかの思想のプロパガンダ小説でも読まされているんでしょうか。自由の蟹工船、個性の小林多喜二ですよ。
そもそも「かけがえのない自分」というのがかなり平成臭と言いますか、カビが生えた価値観過ぎると言いますか、オジサンが考える若々しさの類なんですよ。今時の若者はそんなでかい自我を持ってないんですよ。
マチュの行動にしたって尾崎豊じみているんです。
「夜の校舎、窓ガラス、壊してまわった」的な、八十年代ヤンキー世代的な行動原理。
日本が裕福だったころに溢れていた社会に甘えきった若者の持ち物なんです。だから自我が際限なく肥大しているんです。
令和では笑われるサイズなんですよ、自我が。
これに令和の若者が感情移入するわけないでしょ?
ほんと、ちょっと考えればわかりそうなものですけどね。
ここまで説明してもまだ、
「いいや、マチュは令和の女子高生をキャラクター化できているぞ!」
とか言いだす人、いるんでしょうね。
「マチュとシュウジとクランバトルの関係は、パパ活女子とホストと風俗の関係だろ!見事に令和の日本社会を風刺している!!」
とか。
もうね、その主張が一番オッサンなんです。耳の裏からノネナール臭が漂ってることに気が付いてください。
例えば僕が学生だった頃も、似たようなワードはありました。援助交際、オヤジ狩り、キレる世代にひきこもり。どれも週刊誌とワイドショーを賑わせた言葉です。
じゃあ実際にこのワードに自分たちが適合していたかというと、そんなわきゃないんですよ。
僕は一度も「おやじ狩り」なんてやってないです、万引きすらやってない。
むしろ「お前らあれだろ、キレる世代だろ」とか言ってくる親戚のオッサンのことを死ぬほど馬鹿にした目で見ていた側です。
あの頃の自分の周囲を見渡すと、「オヤジ狩り」をやっていると噂されているクラスメートは学年に一人だけいました。引きこもりになった友達も一人だけ。
僕は中高一貫の男子校だったので体験としては持っていませんが、共学だったなら、援助交際に手を染めていると噂されるクラスメートの一人や二人、学年単位でいたとしても不思議じゃありません。
とはいえ、僕たちの世代として描写するには数が少なすぎました。
当時、「北の国から」で出会い系サイトの話が出てきた回がありました。
田中邦衛(役名知らないです、すいません)が自分の孫に「お前、会ったこともないのに恋なんてできるのか」
みたいな形で語り掛けるシーンを見たのを覚えています。
これに「田中邦衛の孫」が朴訥に答えていくんですが、(その孫が「僕ら世代」の代表だったのでしょうが)、この「孫」がまあオジサンから見た若者と言いますか、共感できなかったんです、当時の同じ若者として。
若者はこういう時、敏感に察知するんですよ。
あ、この若者キャラはオッサン用だな。
俺たちの方を向いてないな。
若者のフリをしているけど中身オッサンだな。
金八先生でも似たようなエピソードがあった覚えがあります。
(モチーフは出会い系じゃなかったような)
GQは、言ってみれば「北の国から」「金八先生」ガンダムなんですよ。
オジサンのための現代、オジサンのための若者、オジサンのためのドラマ。
なのにXでは
「マチュに感情移入できないとか、心が老人なんだよ」
などとポストする老人が続出する始末。
ジイさんボケたこと言うなよ。ボディシートあげるから首の後ろ拭けって。臭過ぎて目にきてんのよこっちは。ババアもいるのか、ババアも拭けよ。
そもそも主題歌に米津さんやら星街すいせいさんやら呼んでくる時点で「若者に媚びるオッサン」ムーブなわけじゃないですか。
制作陣側は自覚はしてると思いますよ、オッサン向けだって。
で、そんなアニメ、
「最近の子は共感できないかもだけど、オジサンは好きなんだよねー」
という温度で見るならともかく、
「現代を鋭く切り取った、令和を代表する最新アニメ」
みたいに取り扱うのは無理があると言いますか。
恥ずかしくないんですかね。
もちろん僕だってオッサンですよ。だから言ってるんです。
今のカルチャーでどれだけオッサン世代が支配的か意識したことあります?アニメも漫画もゲームもオッサンたちのテリトリーなんですよ。
若者は「ご相伴させていただいている」感覚なんですよ。
鬼滅の刃ですら呪術廻戦ですら彼らのモノになってないんですよ。
我々中年が奪ったんです。「少年」ジャンプだっていうのにね。
だから若者文化はヒップホップとショート動画に流れていったんです。
オッサンオバサンの手を逃れ、別の場所へと移っていった。
そのうえでさらに「時代の代表」面まで奪おうというんですか?
さすがに厚かましいと思った方がいいですよ、マジで。
せめてGQが古臭い、カビが生えた連中のためのものだということくらい自覚してください。
ただ、ここまで話しておいてなんですが、最悪なのは
「GQのダメさ加減を語るうえで古臭さなど些事でしかない」
ということなんですよ。
もっととんでもない問題を持っているんです、GQは。
■壊れていく物語とファックしたがらない若者たち
この作品の問題点と言いますか、作品としての「ままならなさ」と言いますか、「不成立」感と言いますか、どうかしてる点について語るなら、やはり「ぶっ壊れた作劇」に触れないわけにはいきません。
シンプルにね、ストーリーがクソなんですね。
まじめに考えて作ったの?というレベルなんです。
どの話を見てもとにかく粗が多い。すぐにツッコミどころが出てくる。
ちょっと触るだけでほこりが出てくるんですよ。
例えば第2話。映画のBiginningパートの冒頭に当たる箇所。シャアがガンダムに乗り込んで吐くセリフ。
「見せてもらおうか、連邦軍の新兵器の性能とやらを」
ご存じの通り、原作2話でガンダムと初めて対峙したシャアが言ったセリフと全く同じなんですが。
ん?
「連邦軍の新兵器の性能とやらを」?
んん?
「性能『とやら』を」?
とやら、は、どっから出てきたんですか?
これ元々、デニムから
「ザクを簡単に倒すとんでもないモビルスーツがいる」
と報告を受けていたから、その情報に対して
「性能『とやら』を見せてもらおうか」
と言っているわけですよね。
なんで自分が乗り込んだ兵器にそんなあいまいな言いかたなるんですかね。
わかりますよ?
「シャアがガンダムに乗り込んであの名台詞を!?くぅ~!!」
でしょ?わかってますって。
けどなんていうんですか、もうちょっとつじつまを合わせる努力をしましょうよ。
その後の、「コロニーに穴が開いてしまう」と接近戦に持ち込むのも、よくわかんないと言いますか。
元々は、ジーン機を破壊したときに核融合炉を爆発させてしまったから、デニム機を撃破するときには気を付けようという流れですが、「敵性コロニーに忍び込んだシャア」が何で急にこんなこと気を付けるんですか?
わかってますって。けどなんていうんですか。
まあ、こんな小さな点をさらっていかなくてもいっぱいあるんですよ。
・なぜか元連邦の兵士(シイコ)に詳しいアンキー(伏線じゃない)
・戦勝国のエースパイロットなのになぜか敗戦国のシイコより扱いが悪い 黒い三連星の二人(伏線じゃない)
・とつぜんニャアンがつぶやく「このモビルスーツ、キシリア様に似てる」(伏線じゃない)
まだまだありますよ。叩けば叩くだけ出てくる。
「どうしてか本当にわからんのか?簡単に想像つくだろ?」
みたいな擁護はやめてください。あなたの妄想なんて聞くつもりないんです。お話の中にあなたが言う「理由」が内包されてないことに対しての指摘なんです。こんな退屈なこと言わせないでください。
でもまあ、こんな小さな「粗」をあげつらったところであまり意味もないんです。それじゃいつまでたってもGQのクソさ加減の理解にたどり着かないんです。
ノイズではあるんですが、ノイズでしかないんです。大した問題じゃない。
いや大した問題なんだけど、もっとでかい問題がある。
いちばんの問題は、
「マチュ×シュウジ×ニャアンの三角関係が主軸に置かれているはずなのに、これが全く機能していない」
という点なんですよ。
GQのお話の「土台」は、マチュたち三人の三角関係を主軸に出来上がっています。
少なくとも前半、シュウジがゼクノヴァ消失する6話あたりまでは、少年少女の「恋」が真ん中に置かれてお話が展開している。これは間違いない。
物語の視点はこの3人の関係に向けられている。
なのに「恋」がしっかりと描かれていないんです。
なんとなくマチュがシュウジのことを好きになり、いつの間にかニャアンもそのあとを追いかけていて、なぜかいつのまにか「地球に行きたい」がヌルっと三人の目的意識になっていて。
何やらつかみどころのない、葛藤もさしてなければ幻想も幻滅もない、恋。
そんな恋ありますかね。
「マチュくらいの子はシュウジみたいな若者に自然と惹かれるもんなんだよ、それをごちゃごちゃ語るとか無粋だろ」
とか仰る人が出てきそうですね。
誰も「なんで好きになったか説明してほしい」なんて言ってねえんすよ。
別にいいですよ、どこでどう恋に落ちようが、誰に落ちようが。
その様を、落ちる様を、落ちていく様を描写しろ、見せろ、浴びせろ!
と言ってるんです。
戦闘シーンで考えてみてください。
空調に擬態していてサイコガンダムが市街地に出てくるシーンの直後。
カットが変わって、
「キシリア様を襲ったMAはエグザベ少尉のギャンが撃破しました」
とコモリ少尉が伝えるだけで終わったとしたら。
ふざけんじゃねえぞって話になるでしょ?
それを少年少女の「恋」でやっとるんです、三角関係がど真ん中に置かれたアニメで。
ふざけんな!見せろ!お前の恋を!!ってなるでしょうが。
そもそもマチュはあれだけシュウジに固執しておきながら、ゼクノヴァ後に全くシュウジのことを思い出す様子が無い。
十代の少女の前から好きな男が消えたらもっとグダグダやるだろうが!
みっともないくらいあがくだろうが!それを描けよ!!
という話なんです。
少年少女を題材にしたアニメが必ず濃厚に「恋愛」を描く必要があるとは言いませんよ。
でも自分から真ん中に置いておいてそれを描かないと言うのはあまりに不誠実じゃないですか。
物語を描くつもりがないんだったら、最初から物語めいた体裁なんてとらなければいいんですよ。
「GQの脚本は圧縮技法で作られた」という擁護にも腹が立ちます。
存在しないものは圧縮できないんです。
飛ばすにしても置かなければいけないものというのはあるでしょうに。
以前、富野由悠季監督が、細田守監督の「時をかける少女」を見て、
「主人公たちがセックスがしたいと呼び合ってるようにしか見えない」
と評している記事を読んだことがありまして。
僕はその言葉の鋭利さに慄きつつも、
「いやでも確かに実際そうなんだよな」
と納得もしました。
実際、セックスしたいだけなんですよ。
中高生の恋愛なんぞそんなもんでしょ、むしろその方が健全でしょ。
セックスもしたがらない中高生なんて、そっちの方がずっと気色悪い。
監督がおっしゃった意図とは反対の受け止め方ですが、本気で若者を描こうと思ったらセックスしたがって当然なんですよ。
それを踏まえてGQの「恋」をみると、まあ熱がないんですよね。
嫉妬めいた感情はある。ドキドキするシーンはある。
しかし熱はない。衝動はあるくせに恋慕はない。
相手の体温を求める様子がない。人殺しすら容認するくせに。
要はね、
「マチュは真剣にシュウジとファックするつもりないでしょ?」
という話なんですよ。
嘘なんですよ、恋そのものが。イミテーションなんです。模造品。
なんでマチュに感情移入できない人間が続出したかって、そりゃ恋が偽物だからですよ。
そんな見せかけの恋を真ん中に配置してんじゃねえよと。
「主人公を女子高生にしたから、やっぱ恋だよな、じゃあとりあえず三角関係にするか、で結局女子同士で百合になったら性癖全部盛りでお得じゃん」
みたいな手癖で「10代の恋」を置いてんじゃねえよと。
ようは僕が言いたいのは
「チンポを見せろよ鶴巻和哉!!」
ということなんですよ。
本気の恋を描かず、雑な露悪をまぶして何かを描いたつもりになってんじゃねえよ、というお話なんですよ。
考えてみてください。シイコがゲルググに乗って現れた時。
マッシュたちがリックドムに乗って現れた時。
市街戦を繰り広げるサイコガンダム、
ハンブラビに乗って現れるゲーツ・キャパ、
白いギャンのニュータイプ部隊、
大活躍のブラウ・ブロ(キケロガ)。
こういう「映える」シーンで、
「んー、でもマチュたちが主人公じゃなかったらもっと楽しめたのになー」
と思いませんでしたか?
「あのよくわかんない三角関係がもうちょっとしっかりドラマになってたら、戦闘シーンにも気持ちが乗るんだけどなー」
GQを楽しんでいた側の人でも、そう感じた方はいたんじゃないですか?「マチュたち自体全カットで、ヤザンやらブランやら男臭いキャラばっか出して戦勝国の政治劇と先輩刻の悲哀を描いてくれたらそれで十分だが」
って思った人、けっこういたんじゃないですかね。
そんなんじゃ今の子が見てくれないって?
初めからたいして見てねえよこんなアニメ、今の若い子は。笑わせんな。
破綻した脚本にイミテーションの恋。
そりゃドラマになるわけがないんですよ。
しかしマチュから「性欲」の匂いが感じられないのも理由があるんです。
ちゃんと話を追っていけば見えてくるんです。まあその話はあとでします。
先に、
「お話がそんなにクソならなんでウケたんだよ、お前が捻くれてるから話の面白さを理解できなかっただけだろ」
みたいな反論に、しっかり答えておきたいと思います。
というのも、実際のところGQは「ストーリーなんてクソでも楽しめる」ようにできてるんですよ。
ストーリー以外に、「劇」以外に幾つもエンタメ要素が散りばめてあるから、あんなゴミみたいなストーリーでもみんな楽しんじゃうんですよ。
この「劇以外の楽しいところ」をちゃんと把握しないと、なんでGQが「こんなこと」になっているかちゃんと理解できないんです。
■ダサい「ノルウェイの森」とクネクネ大学生おじさんと天才春樹
さて、ではみんなGQを「どこ」で楽しんでいたのかのでしょうか。
まず何より忘れてはいけない重要な点が、
「カラーは日本屈指(何ならトップ)の映像クリエイター集団である」
ということです。
画面の構図、演出、配色、MSのデザイン・リファイン、主題歌の挿入の仕方まで、どれも洗練されているんです。
映像だけでもいても非常に高品質なPVになっているんです。
これが人の心を動かさないわけがない。
「お前らどうせ話がクソでも、可愛い女の子が出てロボットが飛んでりゃ楽しんじゃうんだろ、やだやだ」
なんて思ってはいけません。
だって確かに映像としては優れているんだもの。
ララァのセリフを引用するようですが、美しいものに心を動かされるのは人間として当然のことでしょう。
それだけの「映像力」を持っている集団なんです、カラーは。
だから脚本的にはクソでも画になる作りができてしまうんです、カラーは。
漫画にもこういう作品はあります。
物語展開はチープなんだけど、漫画としての画面構成力が異常に高くて、「成立」までもっていってしまう作品。
実例を挙げると荒れそうなので控えておきますが、GQはこういう「漫画力」とよく似た「映像力」に溢れているわけです。
総監督にこそクレジットしていませんが、庵野秀明が関わっているのに、映像力が低いはずがないんですよ。
作品に描かれていないことを、考察と称して幻視する人たちがSNSに大挙したのも、この映像力によるところが大なんですね。
美しい映像なのだから、何か深い意味やアーティスティックなメッセージ性を孕んでいるのだろうと、「過読み取り」してしまう。
「俺の胸をこんなにときめかせる映像に深い意味がないはずがない」
と考えてしまう。
まあ無理からんことです。
これはいわば、初恋におぼれている中学生の少年が好きな相手のちょっとしたしぐさに、深い意味があるんじゃないかとひとりで悶々と妄想を広げることに近い行為です。
こういう「過読み取り」は往々にして間違っているもので、初恋相手の少女が想像と違い、とんでもない性悪の売女だったりということも、往々にしてあります。
当然男女を逆にしても当てはまります。
むしろ女性のほうが片思いの相手に対して過剰な読み取りをしてしまう傾向が強いでしょう。(それ自体が恋愛というエンタメのメインコンテンツなわけですから仕方がないことです)
GQは「過読み取り」しても答えてくれるだけの「画力」があった。
だから勘違いし続けることができた。
この「勘違いさせられる力」自体が、作品の価値といえるかもしれません。
例えとして出すなら、「ノルウェイの森」が一番わかりやすいと思います。あの作品は、あらすじにすると
「死んじまった親友の彼女に片思いするセックス三昧の大学生が、彼女ができたからセックス我慢して、片思い相手にオナニー手伝てもらってたりしてたら、相手がとつぜん自殺して彼女のところに戻っていく」
という、しょうもない大学生がクネクネ悩んでるだけの内容なんですが、書いているのが村上春樹なもんだから、文章に魅了されてあっという間に読めてしまうんですね。
だから読んだ後、「で、これ何が言いたかったの?」と首をひねる人が一定数いるのも仕方ないんです。
だって「そもそも言いたいことなんてない」作品なんですから。
村上春樹という天才をナメてはいけません。
「一人で雨に打たれていたら、けんかして気まずい状態の彼女が傘を持ってやってきた」
だけのことを、村上春樹が格調高く描写したら村上作品になるんですよ。
いやマジで。
セックス三昧のクソ女子大生を男に変換しただけのクソ主人公でも、春樹が書けば「作品」になるんです。
だから読んだ後であらすじを思い返してみて「え?しょーもなくない?」なんて言っても意味がないんです。
しょーもないですよ、当り前じゃないですか。あらすじを楽しむものじゃないんだから。
むしろ春樹ファンなんて、
「人間なんて元来むなしい存在なんだから、それを等身大で描けばむなしくなるのも当然なわけで、一般読者が理解できないのはむしろ、作品がしっかりと人間のむなしさを描けているから」
くらいのことは平気で言いますよ。クソやかましいですね。
GQも同じなんです。お客さんが「食って」るのはストーリーじゃなくて、「画」なんです。
ストーリーがしょうもなくても成り立つんですよ、だってそれを「食う」ものじゃないから。
しょうもない内容を「むしろそれが~」と擁護するおじさんがにょきにょき生えてくるのもよく似てます。
「ノルウェイの森は、中年になった主人公が青年時代を回想するシーンから始まるのだけれど、物語の終わりで中年時代に戻らないのは、ツルゲーネフの初恋に着想を得たんだろうね。春樹は古典をよく読みこんでいる」
みたいなことを宣う鬱陶しいおじさんが現れるあたりも、やっぱりよく似ています。
だからGQのあらすじを批判することには、ある意味「的外れ」が付きまとうところもあります。
ありますが、GQおじさんは絵に魅了されているのに「あらすじに意味がある」と思って考察を繰り広げつづけてたわけで、やはり批判されて仕方がないんです。
こういう理由から、あらすじを追ってドラマを期待した人は、
「なんでこんなつまんないものを喜んで見るやつらがいるんだ……」
と思う一方で、画を楽しんでた人は
「うひょー最高!!」
となってたわけです。
少なくとも、GQという作品じたいに話題になるだけの十分な力があったのも嘘ではないんです。
作品としての実力がないものが、ファンのごり押しでムーブメントになったわけでもない。
でもストーリーは明確にクソしょうもない。
これは両立するんですよ。別に不思議なことでもないんです。
「そんなこと言ってもあんな胸糞悪いメスガキを主人公に据えてよくまともに観れたな」
と考える方がいるかもしれません。特にお若い方には多いかもしれません。
しかしこれも特に不思議なことではありません。
GQは、おじさんだけには見やすく設計されているんです。
そういうカラクリがちゃんと内包されているんです。
■おじさんたちばかりが騙された理由
GQは、放送中に何度もXのトレンドに入り、ポスト数も毎回50万を超えるなど、大きな流行を作りだしました。
一方で、5、6話あたりからサジェストに「つまらない」が表示されるようになり、一定層にそっぽを向かれたことが明確化しました。
GQファンダムが自分たちの好きなシーンのスクリーンショットやイラスト化で盛り上がる中、批判的な方々は疑問点や批判点を具体的に言語化していた印象です。
批判的な多くのポストでは、マチュというキャラクター人格について、
「倫理観が異常すぎる」
「何を考えて行動るかわからない」
と、批判的な意見が多くポストされていました。
前述の通り、マチュはとても「古臭い」価値観で作られたキャラクターです。「平成」を少女化したとするならああいう形になります。
結構な数の人間が眉をひそめる類のキャラクター性だった。
なのにGQおじさんたちは全く不快感を覚えずに視聴していた。
この認識の違いはどこにあるのでしょう?
それは「視点」の違いです。
GQに不快感を覚えた一定視聴者層は(他の作品を読むときと同じように)マチュ自身に感情移入をしようとしました。
感情移入には理解と共感が必要です。だから彼女を理解しようとしました。
しかしマチュは理解も共感も拒む(というかそのためのプロセスが用意されていない)キャラクターでした。
理解できない結果、
「なんなんだよこの女、頭おかしいな」
「口も悪いし不快だな」
となったわけです。
僕個人としては、マチュの言動で不快になったところはなかったんですが、
(そもそもキャラクターに対する好悪だけで作品を論じること自体まったく理解できないんですが)
しっかりマチュへの共感に導いていく導線がなかった点は「粗雑な脚本だな」という印象でした。
一方でGQおじさんたちはマチュを受け入れていました。
おじさんたちはそもそも感情移入などしていませんでした。
マチュのことを理解しようなどと思ってもいません。
感情移入せずにお話を楽しめるのか?と疑問がわくところですが、それができるんですね。
なぜなら「視点」が違うから。マチュ以外に感情移入していたから。
それは誰かというと「シャリア・ブル」です。
シャリアは第一話の登場当初から俯瞰した立ち位置で物事を見ていました。
彼だけが知る「何か」に立脚して思考し行動していました。
通常の作品ならば、
「謎めいた言動をする、物語のバックボーンを理解しているサブキャラ」
になるんですが、GQにおいてはそうならないんです。
だって「ガンダム」だから。
先んじて情報が入っているから。
なんなら映画を見に行ってBiginingパートも見ているから。
シャリアがどういう経緯を経ているかも知っているから。
GQは、おじさんたちが「謎めいた言動をするサブキャラ」的立ち位置から俯瞰して鑑賞できる作品なわけです。
だからおじさんにしてみれば、マチュの言動がさっぱり理解できなくても何も問題がないわけです。
むしろ距離があった方が、自分のメタファーであるシャリアと共通していて、より見やすいまである。
マチュは「破天荒」であった方がいいんです。
そのほうが、
「破天荒な今どきの女子高生を優しい目で見守るイケメンおじさん」
と同じ場所に立てるわけですから。
マチュが「古臭い『今どき』少女」なのも当然なんです。
おじさんが想像している「少女」じゃないといけないわけですから。
ここで「令和」のリアリズムを持ち出してきても、おじさんの陰茎は勃たないんですよ。わかりやすく平成版の「破天荒少女」で強めに責めてもらわないと困るわけです。
「にしたってあんなガキ今どきいねーだろ、目を覚ませよGQおじさん」
と思うう人もいるかもしれません。
これがしかし、いるんですね。
子供がおとなしくなった令和でも、子供から雑に扱われる相手が。
それは「父親」です。
父親だけは、この令和の日本において、使い古しの雑巾よりもさらに低い扱いを受けています。
その日の気分で娘が乱暴に振り回しても、ニコニコすべてを受け入れる。
それが現代で思春期の娘を持つ父親のデフォルト対応でしょう。
GQおじさんたちは、
「若い生意気な女を広い度量で受け入れるイケオジ」
ぶって勃起するか、
「うちの娘もこんな感じで俺のこと雑に扱ってたなあ懐かしい」
とニヤニヤするか、どちらか(あるいは両方)で視聴していたわけです。
だから古臭く魅力もなく感情移入もしづらいマチュを受け入れて楽しめていたわけです。
もちろん、バキバキ童貞ことぐんぴぃ氏のように、
「生意気な少女かわええ~振り回されてえ~んほお~」
スタンスでかわいがっていた方もいたでしょうが(それも悪いことではありませんが)、少数派だったんじゃないでしょうか。
多くのおじさんは「JKに勃起しつつも手は出さないイケオジ」や「雑に扱われる父親」スタンスで見ていたわけです。
そうすると、マチュの恋がイミテーションなことも理解ができます。
パパにしてみれば、娘のガチ恋など見たくないんですよ。
イケオジにしてみても、
「手は出しませんよ」「私じゃなくて同世代と恋した方がいいですよ」
スタンスをとっているものの腹の底ではJKに勃起しているわけで、アンニュイ中性イケメンにガチ恋する様なんて見たくないわけです。
「いや俺はシュウジに感情移入して観てたけどw」
という方もいるかもしれませんが、これも少数派でしょう。
どういう見方をするかは自由なので否定しないけど、そういう造りにはなってないと思うよコレ。
イミテーションで、パパやおじが許せる範囲で収まってなければいけなかったわけです。マチュの恋は。
恋が真ん中に置かれた脚本なのに、イミテーションじゃないとコア視聴者層にそっぽを向かれる構図だったわけです。
ここまで説明すればわかってもらえると思います、いかにこのアニメが「おじさん専用」だったのか。
おじさん以外は受け入れづらい構造になっていたんですから、全般的に精神が古臭いのは当然なんです。
ところが最悪なことにGQおじさんたちは、自分たちが上記視点で視聴していたという「自認」を持っていなかったんです。
少なくない数のおじさんが
「マチュのことを理解できないなんて、お前が歳を食ったからじゃないか」などと、とち狂った恥ずかしいことを言っていました。
自分たちが徹頭徹尾用意周到おじさん向けに作られているコンテンツを、頭からじゃぶじゃぶ浴びているということにも全く気が付かず、
「現代の若い感性を受け入れる俺、錆びてなくてかっこいい」
と思っていたわけです。
これが巷に溢れたGQおじさんたちの正体です。
めちゃくちゃ恥ずかしいですね。
アニメをはじめエンタメ全般をどう楽しむかなんてとてもプライベートなことで、誰にも咎められるものではないんですが、
間違った自認でSNSに薄っぺらな感想を吐き散らかし、反論する相手を「時代についていけてない連中w」と笑い、その実誰よりもキツい加齢臭のおじさんたちが馬鹿にされるのは当然でしょう。
ただ僕が何より許せない、本当にこの作品に対して憤っていることは別にあります。
「GQおじさんたち鬱陶しいなあ、馬鹿にしてやりたいなあ」
だけで、こんな長文書くほど怒りが沸き上がったわけじゃありません。
そもそも、ファンが無様なエンタメなんていくらでもあります。それはそれで「ネタ」として消費されるのが現代でしょう。腹を立てるようなことでもありません。
けれどGQにはほかの作品にはない(傾向としてあってもここまで「濃い」ものはない)要素があったんです。それがどうしても許しがたかった。
その要素を語る前に、少々余談をさせてください。
僕個人の「ガンダム」に関するお話です。
GQと無関係ではありませんが、「GQ批判」とは無関係なお話です。
■聖なる海とシャア・アズナブル
というのも、これからお話しする点は、僕がGQを批判する直接的な理由ではないといいますか、
批判点ではあるものの、出すまでもない角度のお話です。
それは、「シャアの死を受け入れられなかったララァが、多次元宇宙を構成して彼が死なない世界線を生み出そうとしている」という、
最終話付近で明確となったこの物語の骨子の部分について、シンプルに「同意できない」と感じている点です。
ありていに言ってしまうと「ララァはそんなことしない」と感じているため、お話そのものに解釈違いを覚え、「同意できない」んです。
この話をするには、まずシャア自身のキャラクターについてお話しなければいけません。
回りくどいようですが、このキャラクターの話をせずに「ララァは死んだシャアのために宇宙を生み出したりしない」ということを説明できないんです。
そしてさらに回りくどいのですが、まずはシャアとガルマの関係からお話させてください。
さて。
放送終了後から数日立った頃、Xにて、
「シャアは勢いでガルマ殺しちゃったけど、後悔しているのかな」
というポストを目にしました。
そのポストはそこそこバズり、考察も盛んに投稿されていました。
「ガルマはたしかに空気読めずにシャアをあおること言ってたよな」
「相当不満たまってたから殺したんだろうけど、後悔もしてるんだろうな」
半世紀近く前のアニメなのに考察が盛り上がるというのは素晴らしいことですが、正直考えてもいない「読み方」だったため、驚きました。
シャアが勢いでガルマを殺した?
いやいや。
シャアは明確に「ザビ家を皆殺しにしようとしていた」でしょう。
そもそも、シャアがザビ家に復讐を誓っていること自体、明白なはずです。映画版でセイラと再会した際に「父の敵を討つ」と明言しています。
テレビ版だと「復讐よりも大事なことができた」と言っていますが、これも「復讐という大目的を背負っている」という前提での言葉です。
ソロモンで討ち死にしなければドズルも殺していたでしょうし、キシリアに暗殺されなければギレンも殺していたでしょう。デギンに関しては言わずもがなです。
シャアはザビ家を滅ぼすという宿命を、自らその身に宿した。
その手始めとなる最初の相手が古くから親交のある同世代の男だった。
宿命のために友人を討つか、それとも友情から宿命を捨てるのか。
これがガルマ特攻の直前までシャアが背負っていた「ドラマ」です。
そして、シャアは宿命を選んだ。
もちろんガルマに対して気に食わない部分もあったでしょう。
見下していた部分も大いにあったはずです。
謀殺の際は復讐心を満たしたところもあった。
「君の父上がいけないのだよ」
と大笑したときは、確かに喜びを感じていたでしょう。
けれど目標を達成して数日後には、友人を殺したことに静かなが押し寄せていた。
だからバーのテレビで国葬を見ながら、孤独に酒をのみつつ
「坊やだからさ」とつぶやいたわけです。
これは、ガルマがただのボンボンだったというだけの意味ではなく、
「俺は宿命を選んだ『大人の男』で、お前は戦場でも若者をやめられなかった坊やだったんだよ。だからお前は死に、俺は目標を達成した、俺は間違っていない(と思いたい)」
という意味でしょう。
まあ、これは僕の「読み」も多く含まれているので断言まではしませんが、さほど飛躍したものとも思いません。
バーで孤独に酒をあおるシーンそのものが、シャアにはジオン側とは別にプライベートな思惑があるということを暗喩しているのは間違いありません。
小説版では反対に、謀殺の意図はなかったが結果として死なせてしまった展開になっていて、これも、
「宿命よりも友情を選んだ」
あるいは、
「まだ甘さが残っていたシャアを宿命が飲み込んでいった」
と捉えるのが妥当ではないでしょうか。
アニメ版でガルマを殺した理由が「その場の勢い」のはずがないんです。
「その場の勢いで癪に障る知合い謀殺しちゃったー、まーいーか、あいつどうせザビ家の人間だし。降格されちゃったけどなんとかなるやろ!」
みたいな話のわけがないんですよ。
というか、「ザビ家への復讐心」をシャアの行動原理の一つとして置かずに見たとしたら、シャアがキシリアを殺したのもセリフ通り本当に、
「あの世でガルマが寂しそうにしてるだろうし、こいつも気に食わんからついでに殺したれ」
と思ってバズーカをぶっ放したとでも捉えてらっしゃるんでしょうか?
いやいや、いやいやいやいや。
さすがにこの辺りは小学生の頃の僕でも理解していた部分です。
どうしてそんな読み違えを起こしているのか不思議です。
なぜこの「読み違い」の話をしたかというと、シャアというキャラクター人格を読むにあたって、ガルマとシャアの関係から読んでいくのが最も「確か」だからです。
というのも、シャアというキャラクターには日常がありません。
普通に、平穏無事に何事もなく日々を過ごしている様子がない。
常に何らかの野望や宿命という「大それた何か」を背負っていて、それを降ろすことがない。
一時、シャアという名前を捨てていた時期ですら、連邦政府組織の反主流派に身を置き、政争にかかわり続け、結果的にシャアという「役割」をまた担うことになった。
これほど「日常」がない人間というのは、フィクションであっても珍しいでしょう。
そんな人間にまだ日常があった、役割としての「シャア・アズナブル」を始める前だった頃から唯一関わりを持っているキャラクターがガルマです。
実の兄妹のセイラですら思春期には離れ離れとなっていて、兄と再会したのは役割がほぼ完成した後のこと。
士官学校から関係があったガルマだけが、濃厚に「シャア・アズナブル」を始める前の彼と人間関係があった。つまり、数少ない彼の「日常」に触れた存在であったわけです。
まあ、創作的な観点で言えば(シリーズ含め)最序盤で「シャアの親友」として登場し、それまで強力な敵役としての側面が強かったシャアの内側を描写する役割を与えられたキャラなわけで、キャラクター描写の原風景的なピースである、とも言えます。
シャアというキャラクターの、人間性の部分の「第一印象」を担ったキャラ、といってもよいかもしれません。
そしてガルマとの関係から浮かび上がってきたシャアの特徴が、
「常に大それた何かを背負っている、秘密を持った日常のない男」
「尊大な自意識で周囲を見下していて、その尊大さを満たせるだけの実力を持ち、見下している相手にも関係を見いだせる品を持った男」
の2つでしょう。
上記を要約し、「宿命」と「尊大さ」に支配された、「己」がない人間としましょうか。
これらは相互に関係しています。
宿命を抱えているから尊大にもなるし、能力があるからこそ自分の中に洞があることから目を離せず、そこに宿命を流し込む。
消えていくのは宿命の向こう側にある己じしん。
ある部分では「うしおととら」に登場する秋葉流にも通じる部分があるのかもしれません。
どんなことも平均以上にこなせてしまうから、周囲が愚かにしか見えない。そんな自分に嫌悪しつつ、むなしさを埋めるだけの何かを探し求める流。
シャアと流で違う点は、「宿命」や「役割」という流し込めるモノがあったことでしょう。
「ニュータイプ」概念ひとつとっても、シャアとアムロでは真逆です。
「自分は特別なものじゃない、みんながこうなれる」
というアムロ(多少の謙遜と自己嫌悪も含む)と、
「自分だけが人類の革新に手が届いている特別な存在だ」
と尊大に語るシャア。
この辺りにも二人の人間性の違いがにじみ出ています。
「そうやって貴様は、永遠に他人を見下すことしかしないんだ」
とアムロがなじるのも、このような人間性を見抜いての言葉でしょう。
「永遠に」とは、なかなか恐ろしい言葉ですが。
シャアには尊大さとそれに見合う実力があった。
そして虚しさを忘れさせるだけの宿命もあった。
だからガルマのことも周囲のことも馬鹿にして、
誰にも知られていない「野望」や「宿命」という物語に埋没できた。
自分を本当の意味で超えることができる人間がいなかったわけです。彼の周囲には。
宿命も重要なファクターではありましたが、彼個人に作用するものではなく、空虚さは確かに存在していた。
そこに現れたのが、ララァです。
彼女は明確にシャアを超えた存在でした。
自分よりも高い素養と感性を持ち、役割としての「シャア・アズナブル」が持つ「人類への嘆き」すら理解し、受け止められる女性だった。
初めて自分に対して超然と存在できる相手。それがララァだったわけです。自分の能力も宿命も、尊大な自意識も俯瞰して受け止めてくれる唯一の女性だったわけです。
「逆襲のシャア」での、
「ララァは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」
というセリフはあまりにも有名ですが、これはいわゆるオタク用語の「バブみ」というより、「シャアという役割を休んでいられるほどの存在」という意味だったわけです。
(これもバブみの一種かもしれませんが……まあここでそれを論じるのは控えておきましょう)
「大佐、どいてください、邪魔です」というララァのセリフも、ネタとして扱われがちですが(実際それだけの面白さはあるんですが)、ララァとシャアの間柄を端的に表した言葉でもあるわけです。
尊大なシャアが、唯一自分よりも上に置いている女性。それがララァでした。
ハマーンもナナイも(小説版まで含めるとしててメスタ・メスアも)、彼の上には立てなかった。ララァしかできなかった。
だから彼女だけが唯一「母になれる存在」だった。
また、ララァはシャアに「ニュータイプ論」を信じさせる=目的がザビ家の復讐だけではなくなるきっかけになる存在でもありました。
自分の一生を支配する「宿命」を変えさせるほどの存在でもあった。
「宿命」側の、「役割」側のシャアにとっても重要な存在。
ララァにしてみても、当然シャアは大事な相手だったでしょう。
スピンオフ小説の「密会」の内容を採用せずとも、彼と彼女の間には特殊な「関係」があったのは間違いない。
ただしそれは所謂、可憐な意味での「恋」ではなかったでしょう。
シャアがララァに役割を求めたように、ララァもシャアに役割を求めた。
ララァにしてみれば、自分が持たない力で、自分では立てないステージに連れて行ってくれる存在だった。
ある部分では自分が下で、ある部分では自分が上。
恋人としてみると同時に、庇護するべき存在として捉えていたでしょう。
「逆襲のシャア」で出た、(幻視されたものではありますが)ララァの
「彼は純粋よ」
というセリフも、恋心よりは「庇護意識」のほうが強い言葉です。
立派な歳の大人の男に対して「純粋」と評価するのは、多少の危なっかしさを含んだ印象があります。
シャアとララァは、多少いびつではあったかもしれませんが、共依存的であったかもしれませんが、必要な関係を構築していました。
それは間違いなかったでしょう。
しかし若者同士の間で交わすような「恋」ではなかった。
ララァにとっての悲劇とは、シャアと関係を築いた後でアムロと知り合ったことです。
ララァから見てシャアは「恋人関係を築いている相手」であると同時に「庇護すべき対象」でもありました。自分より下となることがある相手でした。
上下が逆転することもあり、関係としては成立していたが、
「対等な目線で恋をする相手」ではなかった。
ララァと完全に対等な世界観を持ち合わせ、自分に触れてきたのは唯一、アムロだけだったわけです。
ララァと同じ視点の高さで、一緒のものを見ることができる唯一の存在。
そんな相手に、シャアと関係を築いた後に出会ってしまった。
「光る宇宙」での、
「あなたの来るのが遅すぎたのよ」
「なぜ今になって現れたの」
というセリフは、このララァの悲恋をまざまざと形にしています。
「守るものがないのに戦うのは不自然」という言葉も、
「人間は個人で存在しているわけではない」
⇒
「気持ちとは別に立場を持って存在している」
ということを表している部分でもあります。
「光る宇宙」という回が恐ろしく優れているのは、
「敵味方に分かれた想い人」というロボアニメの鉄板と、
「思い人にはすでに帰る場所(家庭)がある」というメロドラマの鉄板、
それを同時に展開し、感情のぶつかり合いのメタファーをMSの戦闘として演出している点です。
・不倫相手と間男の邂逅と痴話げんか
・戦争で引き裂かれた恋人同士
・立場を超えて理解しあえる人間の可能性
・ロボットアニメのアクション演出
という要素を、同時並行でやってのけているわけです。
してみると、アムロとララァの関係が表しているメタファーは、
「不幸にも戦場で知り合い、敵味方に分かれ殺しあった恋人たち」
であると同時に、
「若者同士でぶつかり合うようにして散った恋」
でもあるわけです。
ぶつかり合って、分かり合って、砕け散った恋。
それがアムロとララァなわけです。
一方でシャアは
「今の私にはガンダムは倒せん、私を導いてくれララァ」
と、「宿命」の物語と自分の恋心を混ぜ合わせている。
向き合い方が全く違います。
だから、アムロが「ごめんよララァ」と別れを切り出せる一方で、シャアは何年もたった後でも、
「ララァは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」
などとのたまうわけです。
で。
ここまで説明すればお分かりになると思います。
アムロとシャアとララァを並べてみて、「死」を受け入れられずに何度も違う世界線を作り上げるのは誰だと思います?
ララァよりもシャアですよね?どう考えても。
THE YELLOW MONKYに「聖なる海とサンシャイン」という、夏の終わりに叶わなかった恋へ思いをはせる若者の歌があります。
その歌詞を引用するなら、
「あの日に刺さった棘が抜けなくて、
銀の砂浜でこの胸に引き金を引かなければ、
長い夢の終わりにたどり着けない」
のは、アムロでもなくララァでもなく、シャアでしょう。
そんな可憐かつ濃厚な執着を持っているのは間違いなく彼のはず。
「夢の中だけで会える、どこかの世界で愛し合ったはずの相手」
みたいなGQの構図は、正直シャアとララァには似つかわしくない。
平成風に消毒されすぎて、元の色を失っているんですよ。
むき出しの人間同士のぶつかり合いをメタファーに、ロボットアニメで映像化したのがガンダムなわけです。
だからそもそも、物語の大筋自体が僕にとって全くの解釈違いなんです。
ただ、
「違う解釈で作られた物語だから気に食わない」
「『だから』嫌い」
というわけでもないんです。
こんな解釈論を持ち出さなくても、そもそも問題がある作品なんですね。
そしてそれが、僕にとっての一番の批判点です。
■いつからこれが「作品」だと思いこんでたんですか?
さて。
余談はこの辺にしてGQ批判に戻りたいと思います。
「GQには力があったが、それはファンが思う形とは違っていた」
「歪な評価は高い経済効果を上げた一方で、批判と嘲笑も呼んだ」
これが僕がGQに下した評価です。
しかし僕が最も腹を立てたのは、上記点ではありません。
一番腹が立ったのは、作品の評価も内容も、明らかに「SNS映え」に偏っていたことです。
前述の通り、本作は一見した印象の良さや、画の力がある作品でした。
また、何かが起こりそうな「引き」を演出するのに長けてもいました。
さらに不完全で説明不足な内容から、憶測を巡らせる「余白」が多くありました。
このため、SNSでは放送直後から盛んに感想やポストが掲載されていました。(猿渡先生の漫画の無断掲載も発生していました)
放送当時から(ファンの間でも)ささやかれていたことですが、GQは作品自体の評価よりも、このSNS上での盛り上がりにエンタメの「本体」がある作品でした。
テレビで放送内容を見て、直後に感想や考察をSNSに乗せて、自分の感想の反応を楽しんだり、他人の感想に共感したり膝を叩いたり。
そういう「作品外」の楽しみが濃厚だったのがGQでした。
これは熱心なファンでも気がついていたところがあるようで、
「放送が終わってから一人でGQ見ても同じようには楽しめないだろうな」
と呟いている人たちも一定数存在していました。
GQとSNSは切っても切り離せない間柄でした。
いや、GQはSNSで盛り上がる点まで含めて「完成」と呼べる内容だった、といったほうがいいかもしれません。
僕はこれを、異常なことだとは思いません。
楽しくて当たり前じゃないですか。
ガンダムという同じIPを好きな者同士が、ほんの数分前まで視聴していた「熱」のまま感想をぶつけ合う。それも日本全国(最大で五十万人)が。
視聴している間だって、頭の中で考えていたでしょう。
なんてポストしてやろうか。どこをどう表現してやろうか。このMSは実はこういう意味があるんじゃないか。いや、あえてこんな見方をするやつもいるかもな。
楽しいに決まってますよ。普段は不平の一つも垂れずに社会人として歯車の一つになっている僕達おじさんが、言葉一つで人気最新作アニメの「一部」になれるんですから。
でもそれは、言ってみれば「禁忌」の楽しみなんですよ。
フィクションを見るというのは、とてもプライベートなことなんです。
存在しない自分以外の誰かに思いを馳せる時間なんです。
自分がまとっている自分を、僅かな間休んでいられるものなんです。
一方で派手さにかける楽しみでもあります。
自分から気持ちを寄せていく「努力」も伴うものです。
文明の利器を使って同好の士と盛り上がる行為のほうが、安易で楽しいに決まっているんです。
しかしそれは、ネット上のオタク、いわば(すでに古臭さのある言葉ですが)「陰キャ」たちが否定した「陽キャの雑さ」に通じるものがあるとは思いませんか
みんなで手を繋いで好きなこと言いあえれば、安心できるし楽しい。
けれどそれでは埋め合わせられない「モノ」がある。
だからフィクションに手を伸ばしたんじゃないですか?
けれど結果的に中年オタクたちが手にしたのは、ネットを使った虚構の(あるいは簡素な)横のつながりで、しっとりと物語に思いを馳せることではなかったんです。
これが憤らずにいられるでしょうか。
僕を含めオタクはみんな人間です。
人間だから、一番確実に喜べるのは、一番楽しいのは、他者との交流です。
それが何の苦痛を伴わずに果たせるのであれば、人気エンタメになるのは当然です。
しかしそれは、裏返せばとても「社会的」なことです。
物語というものは本来、社会の外側にあるものを形にし、芸術やエンタメとして消化するための手法であったはず。
現実では犯罪や道徳違反なことでも、フィクションの中で許されるのは、虚構であるからというだけでなく、現実では果たせないものをメタファーの中で果たす役割を担っているから、でもあるはずです。
(故に現実の倫理観でフィクションを批判する人間を、僕は軽蔑します)
なのにGQは、過度にSNSと手をつなぎ、作品の向こうに同じものを見る他視聴者を幻視させながら楽しむ作品になっていました。
でなければ楽しめない作品になっていました。
こんなに物語のあり様に背を向けた作品を、僕は他に知りません。
作る側が意図しないかたちで評価された?
そんな事はありません。
明確に「こうすればバズるはず」という意図を持って作られた作品です。
なぜなら、「SNSウケ」は「二次創作ウケ」とよく似ているからです。
突っ込んだり妄想を巡らせたりする「余白」がある作品ほど、「二次創作ウケ」するんです。
完成度の高い素晴らしい作品では、二次創作を作りづらいんです。
すでに完璧だから、入り込む余地がないんですね。
ちょうど放映当時に話題になっていましたが、
「機動戦士ガンダムは女性にもウケていたが、当時の女性が盛んに二次創作を作っていたのは銀河旋風ブライガーだった」
というのも、ガンダムよりブライガーのほうが物語の完成度が遥かに低く、妄想する余地が多くあったためです。
ガイナックスやカラーが二次創作の世界から出てきたことは言うまでもありません。そしてGQも二次創作です。
だからこそ、二次創作と同じ手法で、あえて余白をふんだんに用意し、話題にしやすい要素も点在させ、SNSでのバズりを呼ぶのは、さほど難しいことじゃないんです。
何しろ使っている道具も「機動戦士ガンダム」という、半世紀に渡って人気の作品なんですから、バズの威力もデカくなるというものです。
言ってみればGQは、バズを呼び込むためのプロモビデオだったわけです。
それ以上でもそれ以下でもない。
PVとしてはそれなりの出来だったと言えるかもしれません。既存顧客にしか訴えない作りだったので広告力はほぼありませんが。
そして同時に、PVであるにも関わらず視聴者に「作品である」という「嘘」を握らせる大悪も犯してもいました。
現代に発表された作品であれば、SNSでの反応を想定して制作するのは当然です。
しかしそれが「主体」となるような出来であったのならば、やはりそれは「駄作」と呼ぶべきでしょう。
本稿の冒頭に、制作者のスタンスじたいが批判する気も失せるものだったというお話をしました。
彼らにしてみれば、自分たちが作っているものの正体には(制作途中からかもしれませんが)気がついていたことでしょう。
当初は作品を作る想定で始めたんでしょうが、実際に着地したものは作品とも呼べないものだったわけです。
この失敗を「あえて」感で糊塗しようというのも、流石に見苦しいとしか言えません。
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