悟り。
大阪の夜。
一時期、大阪に住んでいたことがある。311地震の直後に東京から退避してそのまま四年も居着いてしまった。通天閣の近場に四年間も住んだ。いつか、あの騒々しい日々のことも書き留めたい。
そんな大阪の週末の夜。部屋で寝そべってハイヒール・モモコ姉さんのレギュラー番組を観ていると、友人から電話が鳴る。『今から京セラドームで中田ヤスタカのDJあるんやけど観ぃひん? 招待券あるんやけど』とのことだ。その友人は車で移動中らしく、15分くらいでマンションの前まで迎えに来た。私は適当なジャージに着替えて、サッと車に乗り込んだ。わりとすぐ京セラドームへ着いてしまう。さっきまで部屋でゴロゴロしていたのだから、妙にリラックスした状態でその場を楽しむこととなる。
京セラドームのそのイベントは、ロッキン・オン・ジャパン関連の後夜祭的なもので、色々なDJが出演していた。ドームの入り口を抜けてフロア(野球場)に着くと、ちょうど中田ヤスタカの一つ前のDJの終盤だった。客数も満杯過ぎず回遊が出来る様子だ。どうやら、知らぬ間に友人とは逸れてしまった。
ふとスピーカーを眺めて思った。あのくらい(高さ3メートルぐらい)のサイズの音響装置からこんなにでっかいボリュームで音が鳴っていて、まるでどこにも歪みがない。ザ・音が良い。音響ってすごい。こんな関係のお仕事もしてみたいもんだよな、なんて事を考えてみたりもした。せっかくのチャンスなので一番音が良いポイントというものを探ろうと、耳を頼りに会場内を少し真剣に歩いてみることにした。
そもそも、音というものには興味がある。音波だ。原発事故後から放射線にも興味を持つ。双方とも目には見えないが、そこに存在する。絵画やオブジェなどとは少々、いや随分と違うものだ。以前に自宅の部屋の音漏れを解決しようと色々と吸音材などを調べたことがある。その時から音の反射や吸収に興味を持ち、音響エンジニアさんに音について色々と訊ねたりした。絵を描く人生なのでメインは視覚な気分で生きて来たわけで、音についての微細な感覚については無自覚だったかもしれない。音があれば、必ずどこかに響く。思ったより物理的なものなんだ。
音楽家の小西康陽さんが「音楽家は形がないものを扱っている。ゆえに「放射能が漏れた」と言う報道を聞いたとて、さほどどたじろくことはない。一方、ヴィジュアルの仕事の人は目に見えないものを恐れる傾向にある」と言う発言をしていたそうだ。これは、音楽マニアの知人から聞いたお話だ。小西さんの旧友、グラフィックデザイナーの故・信藤三雄さんも、311後に沖縄へ退避したことを思い起こすのだった。今となっては、低線量被曝を恐れて四年も西に住んだ自分の「恐れすぎ」を省みもしている。
文字が出て来た。
両耳をパカーンと開いて京セラドーム内を歩く。耳の形は収音に適している。少し指で耳を立てたりしてより音を受け入れる。ゆらゆらとスピーカーとスピーカーの左右中央ど真ん中を探って行く。音に嫌な感じが全くない箇所と言うものを探してみると「ここだ」と言うポイントがある。頭骸骨の中央にスッとハマる感じで、位置が決まる。左右のスピーカーのちょうど真ん中だった。次は、前後の距離を探って行こう。前に歩けば音の体感が強くなる。後ろへ離れると弱くなる。ずっとラウドな音でDJを聴くのは辛かろうと思い、一番ちょうど良い位置はどこかと探ると会場後方のミキシングコンソール、卓の前だった(図1参照)。なるほど、卓が一番音が良いという話はよく聞く。最後に一歩前に出てみたり、下がってみたりしてさらに微調をする。
そうこうしていると、大きな会場の袖から中田氏が出てくる。金髪、イケメンであった。中田氏はターンテーブルとターンテーブルの中央に立った。私とぴったり垂直に並ぶような形だ。DJは始まった。一番良い場所に陣取った。飲めないビールを少しだけ飲みたい気がするが、周りに売り場がない。しかし、のっけからpurfumeのヒット曲を畳みかけて来るのでそれどころではない。どうやらこの日は、中田氏自身が今までに作った音源のみでプレイすると言う選曲のようだ。自曲のリミックス曲なども織り混ぜている。ポップで甘美でクラビーでどの曲も素晴らしい。数分で軽く打ちのめされてしまう。率直に中田氏は天才だなと思った。急に、しかも無料で見させて頂いてるわけなのがだが、故に私はすごく澄んだハートで、ずいぶん無条件にその場を楽しんでいた。
そうだ、急だから全てを忘れている。私の中田ヤスタカ音楽世界への意識と言うものだ。思い返せば、前身のCAPSULEの頃から気になっていた/普段からpurfumeとキャンディーズを脳内で身勝手に比較考察している/ボーカルに大胆にAuto tune(ロボ声)をかけたこと。「アイドル」=「虚像」の意味において「声」をついに完全加工状態したことはドエラい「SF」な事変だ/中田ヤスタカと小室哲哉、小西康陽と言う存在と比較学的に見て行くことは一層楽しい/perfumeがジューシーフルーツのテクノポップ歌謡の名曲『ジェニーはご機嫌ななめ』(近田春夫プロデュース)をカバーした歴史的意味/世界観全体を包む電気的でもなく、電子的でもなく、アプリ的(遊戯)感覚/ゲームの世界からの影響/『GAME』と言うタイトルのアルバムがある/オタク文化とクラブ文化融合の地、秋葉原MOGRAを思い起こす/氏の音楽を考えることは同時に歌謡・アイドル史とテクノ史を無制限に考えることになる/purfumeのロボ声/ピカチュウの鳴き声/フォーク・クルセイダーズ『帰って来たヨッパライ』のボーカル/ユーミンのボーカル/志村けんの声/イリア(ジューシーフルーツ)のボーカル/B.B.クイーンズ『踊るポンポコリン』190万枚のヒット/日本における「高音」のウケの良さ/音に込められた情報要素の濃さ/中田氏はプログラミングもミックスもマスタリングも自身でこなす/PET SHOP BOYSやVINCE CLARKE などの英国・正統エレクトロ・ポップが好きだと中田氏の音はたまらないものがある/かの『ポリリズム』は安易な理由でUNDERWORLDを引用したわけではないだろう(大ネタ使いの意味だろう)/均整の取れた黄金比のテクノミュージック/音にJ-POPの「まろやかさ」がある/都市とローカルのBGMとして機能/どこまでも快適な音響設計/ドレッシーさ/私は姉の影響が大きいのだが、幼少期の70年代にキャンディーズをしっかりと観ている。ゆえに、三人組女性アイドルには一塩の想いがある/近未来的なホログラフが昭和のテレビのキャンディーズを映し出し、それが次第に電子的なノイズによりpurfumeに変化するような脳内ヴィジョン/90年代のアイドル冬の時代を経て/次から次へと、きゃりーぱみゅぱみゅのヒット曲が爆音で流れる/ハロプロの「動」に対して「静」であったのだろう/大好きな『にんじゃりばんばん』に感動する/遠い太古の祖先たちも太鼓に合わせ踊ることを自然に求めていたのだろう/ならば、人はリズムに合わせて踊った方が良いはずだ。
と言うようなことを、自然にずーっとぐるぐると頭の中で考えていた。ダンスミュージックを聴いている時、実は人々は我を忘れて音楽に熱中しているわけではない。ぐるんぐるんと物事を考えているのだ。
そして、その時、奇跡が見えたのだ。こと細く解説しようと思う。笑わないでこの先を読んでみて欲しい。
中田氏の頭上から“文字”が出てきたのだ。なんと、その文字はこちらにどんどん向かって来るのだった。最初は氏の背後にあるプロジェクターに投影されたCGかと思って見ていたら、その文字はどんどんこちらへ迫って来るのだ。文字の色は白だ。乱視のせいでブレて読めない。まあまあのスピードで近くに寄って来た瞬間、その内容が一瞬読めた。
『全ては良きことのためにある』
と、書いてあった。感動してしまったというか、ビックリした。で、それは、私の体をビュンとすり抜け背後へとスワッと消えてしまった。風のような感覚だった。酒も薬物もしていないと言うのにこんな体験をしてしまったのだ。もちろん後にも先にも、こんなふうに明確に文字が飛んできたような経験はない。あったら病院を予約しなくてならない。放心状態なのだが、意識はハッキリしている。あの文字は、オバケやオカルト体験の類ではない。ぜんぜん怖くないのだから。フォントの種類はゴシックMB101のようだった。私はグラフィック・デザイナーのお仕事も経験が長いので、すぐわかった。しかしそれにしても、キックの音が本当に素晴らし過ぎる。高揚して踊り続けた。不思議と全然疲れなかった。
中田氏のDJが終わった。後半はCUPSULEの相方、こじまとしこさんがゲストで登場し、DJ+歌の構成になる。それがもう歌謡ショーのようで大サービスのボーナス・タイムだった。しかし、中田氏の頭上から出てきたメッセージのせいで、全てが天界で行われている出来事のようにキラキラな状態で見えていた。放心状態で会場の扉を開けて広い廊下へ出ると、向こうから逸れた友人がやって来る。つい興奮して『あのさ、全ては良きことのためにあるんだよ』と話してしまった。友人はキョトンとしていた。そりゃそうだろうと思う。少し落ち着いてから改めて、そういうメッセージと言うか文字のブロックが飛んで来て、確かに見えたのだと詳しく説明をしたのだが、「なんだそりゃ」と言う様子だった。
その後、自分だけが地球人を代表して宇宙人にでも会ってしまったかのような、フワッとした不思議な感覚が数時間ほど続いた。もちろん、なぜものが見えるのか? は、少し知っている。光学のスペクトラムとか眼球の網膜や視神経についても少しは考えてみたのだ。
帰り道。車の窓から眺める、夜の淀川のゆらめき。呟く言葉は、『全ては良きことのためにある』。
悟りの正体。
あゝ素晴らしきかな、テクノ、ハウス、ヒップヒップをはじめとする電子的ダンス音楽の文明。今では全世界で自然に受け入れられ桁外れに愛されている。そもそもは、プログレやダブ、シンセサイザーやシーケンサー、スクラッチ、サンプラーなどの発明。SF、ロック、ディスコ、DJ文化などとの様々な偶発的/必然的交配により現在の状態へと編み上がり、今もなおその先鋭では変化が起きている。電気増幅で大音量を発生させながら創造の大船は進む。私の幼少期に大きな音で何かを聴くタイミングと言えば、お祭りか朝礼かラジオ体操か、右翼の宣伝カーくらいだったように思う。今の小さな子供たちは、こうした「現在の音」をどのように感じているのだろう。そうしたことも改めて冷静に考えてみる。
私ごとでなんですけれど、近年はこうしたテクノやDJカルチャーを題材にした絵画を制作している。下の絵はアンビエント・イヴェントの一夜を描いたもの。二人のメンバーは電子楽器やエフェクターを操作し演奏している(図2)。背景は2022年に京都で行われた「BRIAN ENO AMBIENT KYOTO」の会場(旧銀行の建造物)内部をイメージしている。
小田島等 『Ambient Night (No.1)』(2024年)
何年かして東京に戻った頃、人体や精神世界などに詳しい整体師に『全ては良きことのためにある』の体験談をしっかりと話してみた。彼曰く、『きっと、大きなスピーカーの強い音波が脳の松果体(図2)に当たっていたのではないか』と言うのだ。その松果体について色々と調べたが、これが面白い器官であった。頭部の脳の奥(中心)にある構造体であり、「光」を感知する"メラトニン"という脳内物質を分泌し、睡眠と覚醒のリズムを整える機能を司る器官だ。多くの生物は光を道標に生存を確保している。人類は映像という光の幻影を駆使している。光と自然/脳/社会の関係は強いものだろう。スピリチュアル的な文脈で、松果体は「第三の目」と呼ばれている。松果体が活性化すると直感が冴え高次のイメージとつながり、現実が加速的に変化するといった経験があるとさえ言われている。整体師の言う強めの音波が松果体を刺激したであろうと言うこの説。個人の体感としても十分有り得ると感じている。耳の形状の収音機能に集中し音を聴いたことにも大きな要因があったと思う。「音に酔う」と言うが、それは単純に音波が脳を刺激しているという状態なのかもしれない。バリ島の伝統舞踏・ケチャダンスや、仏教の読経、イスラム教のコーランなど幾多の伝統内部にある音の効果についても知識を深めたい。しかし、そうした音波の刺激がなぜ、私の視覚の中に具体的な文字を発生させたのだろう。この辺りが大きな謎である。実証面とオカルト面の二分で理解して行きたいところだ。
松果体
広い防音スタジオに巨大なスピーカーを設え、椅子に座り、ただフルボリュームで低音のレコードを聴く。ビートで松果体を刺激してヴィジョンを視て悟りを開く。「サロン・ド・第三の目」。そんなビジネスもありかもしれない。出資者を募ろう。なんの話だろうか。
とある美大の教授にも、この『全ては良きことのためにある』の話をしてみた。その教授は『それは、リーディングハイに近いものではないか?』と言うのだ。本を読むことで脳がイってしまうと言うアレのことだ。リーディングハイとは「読む」リズムの快感と「知る」知的興奮が、脳内の神経伝達物質“ドーパミン”(喜びや悲しみ、集中力をもたらす)の分泌を促し、ピーク・エクスペリエンスへと達する状態だ。理解の吸収のペースが高速回転し、スイッチが入ったかのように超聡明な脳内状態になり、体が浮かんだような感覚になる。そして、そうなっている時間は文章を読んでいると言うより、幼少期に初めて自転車に乗れた時のようなフロウ(浮かんだ)した状態に近しいものだろろう。
近年だが、リーディングハイも一度だけ経験したことがある。河出書房の吉住さんと言う編集者から『第一ポップ時代』という本当に素晴らしいポップアートの批評本を送って頂く。ポップアートは日本国内でも人気であるが、こうした厚めの批評の翻訳本が出ることは最近だと珍しいことなのだ。誰もいない午前中のモスバーガーの二階で窓から燦々と日差しを浴び、この本を読む。ポップアートに関して30年以上は文献などを読み込んでいるので、固有名詞もだいたい理解できる。読み出すと新鮮な角度からの評があり、翻訳の調子も軽妙でスラスラと読める。適度な難解さも刺激となり気持ちがいい。その時、何かが頭の中で鳴る。同時に、どんどんテキストに引き寄せられる。スルスルと半自動的にテキストへの理解が進み、体が浮かんだような感覚になった。脳味噌と本が一体になってしまったかのような感覚と言えば良いだろうか。そのまま快感の中をすり抜けノンストップで後書きまで読んだ。巻末最後の数行を読み切ったフィニッシュの快感たるや、ものスゴかった。何か強大な勇気や希望のようなものを会得し、感動のまま本をそっと閉じる。その後の数時間、ジーンとした脳の揺れが続く。
この、モスバーガーでのリーディングハイ・体験。京セラドームでの『全ては良きことのためにある』文字の出現。双方とも何気ない没入とリラックス、情報遮断があった。そして、それを楽しむための私の対象(歌謡曲、アイドル、テクノ、ポップアート)への知識と愛情。こちらも十分だった。そして次に重要なのは「献本」と「招待」だ。この「無料」の要素。これが、私の場合の覚醒の大きなポイントに繋がっていたように思う。
去年の秋に交通系の人気YouTuber・スーツ氏(28)が、自身のチャンネルにおいて「悟りを開いた」と宣言し、SNS上で話題を呼んだのを皆さんはご存じだろうか? 彼は取材旅行中のスイスの列車内で、急に天啓のような何かに打たれ、この宇宙の真理について開眼したのだそうだ。その出来事に反応をして本稿を書いている。氏は関連する動画の中で数億円の資産を株で儲けたことを明かしており、それも悟りの要因であると動画の中で話している部分がある。全体を通じこの金銭の充足からの影響はあまり深く語られていないのだが、個人的には気になるところだ。かのヒッチコックは、幸福とは「未来に心配のない、澄み切った心の状態を呼ぶ」と宣う。
私はテクノが好きで、90年代からジェフ・ミルズのライブセットをわりと観ている。行くとだいたい、機材を操るミルズ本人や指先を見たいがため、最前列で喰らい付いて凝視をしていた。その状況を冷静に考えると音楽なんて全く聴いていないし、楽しんでもいない。もっと言えば、私は何も聴いていなかったのかもしれない。音楽オタクの確認作業であり、チケット代の元を取ろうみたいな感覚が気持ちのどこかにずっとあったわけだ。全く解放のない状態でジェフ・ミルズの音楽を聴いていた。経済という見えないフィルターの厚み。持つにせよ持たないにせよ金の心配から解除された時、人は雑念からも解放されるのかもしれない。
(1992)
『全ては良きことのためにある』
しかし、『全ては良きことのためにある』と言うメッセージは一体、私に何を訴えるのだろう。そんな真っ当な「悟りの境地」のようなことを言われても普通に恥ずかしい。もちろん、この世には悪徳というものもあり、何もこの世の全てが良きことのためにあるわけではないだろうと思う。デメリットや影、毒により駆動する現実もあろうと思う。特にこの時代、純真な善性を説くことは難しいことだと思う。しかし、それもこれも小さな支流が大河を形成するように次第に合いまり、巨大な時のフィルターを経て、良きことへと浄化されて行くのだろう。ある意味での無化かもしれない。もちろん、中田氏と言う優秀な音楽家へのイメージがこの言葉になっていることは確かだ。しかし、そうした一個人への印象のみならず、むしろ大局を照らす暖かいサイケデリアのようなものをこの言葉には感じる。ちょうど、土から生えた小さな新芽が陽光へと伸びるような、無条件(©︎岡本太郎)だろう。そんな様子を想うのだった。
願わくばもう一度、あの輝く恍惚体験を味わいたい。しかし、なかなか似たようなシチュエーションにならない。ああしたものは意図的にセッティングして巻き起こそうとしても無理だろう。まぁ、二回もそのような体験をした訳で、むしろラッキーだったのかもしれない。そして、これらを「脳がこう言う状況だったから」と、現実の理路整然や下手な分析に紐づけし過ぎるのも早合点かもしれない。奇跡の抽象性をそのまま受け取ることも大事である。純然とただ私が、音楽やテキストのヴァイヴスを敏感に感じ取ったまでかも知れない。あるいは、この世界と呼べる眼前の現実は、物質や概念を超えた透明な何かを有し、そこには神的と呼べる法則の介在があるかもしれない。あるいは、映画『インターステラー』(2014)のように、別の次元との相関関係が常にあるなんてことすらもあるように思う。それは誰にもわからない。
あの帰りの夜、車窓から眺めた淀川のゆらめきを三度思い出しては、『全ては良きことのためにある』と、心の中で呟くのだった。
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
✴︎ 全て無料で読める記事ですが、木戸銭を頂けると執筆のモチベーションへと繋がります。なにとぞ、よろしくお願いします🙇♂️
ここから先は
¥ 150
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?


購入者のコメント