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自己責任論について ~「普通の人には見えない壁」の話~
「相対的貧困」や「経済的に厳しい状況」にある人々に対し、「それは自己責任だ」「努力が足りない」といった言葉が投げかけられることがある。
たとえば次のように。
「塾に行けなかった? 甘えだよ。俺も塾なんて行ってないけど、自分で勉強して大学に行った。」 「どんなに貧しくても成功している人はいる。結局は本人の努力次第だ。」
これらの言葉は、一見すると合理的に聞こえるが、実際には大きな誤解を含んでいると思う。
なぜなら、「乗り越えられる壁」と「乗り越えることが困難な壁」が存在するからである。そして、後者の壁は「普通の家庭で育った人」には、そもそも見えていないことが多い。
この記事では、私の子ども時代の体験を交えながら、「自己責任論では説明しきれない壁」の存在について述べたい。

私の子供時代

私は、極貧とまでは言わないが、貧しい家庭に育った。両親はともに中卒で、今思えば、思考も歪んでいた。 どれだけ貧乏であったかを語るのに、分かりやすいエピソードがある。 小学校時代、私のクラスで「学年で1番貧乏な奴は?」というクイズがあった。正解は勿論私。なんとも小学生らしい残酷なクイズだ。
実際に我が家は、平屋のウサギ小屋のような家で、 ・自分の部屋が無い ・寝る部屋も無いので、仏壇の前に布団を敷いて寝る ・エアコンが無い という環境だった。
宿題は、3畳にも満たない縁側で机を出して行っていた。夏は汗でノートがベタベタになり、冬は指がかじかみ、まともに文字が書けなかった。
加えて、誕生日プレゼントをもらった記憶も、家でクリスマスケーキを食べた記憶も無い。家族旅行など超贅沢品だった。子供の頃の、家族での楽しいイベントの記憶がほとんど無い。
これらの環境的困難は、確かに逆境ではあったが、まだ「物理的な壁」である。この程度であれば、精神力や忍耐である程度は乗り越えることが可能だとも思っている。
しかし、問題はその先にある。「見えない壁」の存在である。

家庭内に立つ情報のアンテナ

最大の問題は、「家庭内で交わされる会話の質」にあった。
いわゆる「普通の家庭」では、日常的に次のような会話が交わされているのではなかろうか。
  • 時事ニュースや世界情勢に関する話題
  • 金銭感覚や仕事についての価値観
  • 勉強の意味や、なぜ学ぶのかといった根源的な問い
こうした会話を通して、子どもは「社会を見る視点」や「思考の土台」となるフレームを学んでいく。
だが、私の家庭ではこれらが決定的に欠けていた。 会話の大半は下世話なものであり、知的刺激は皆無だった。中卒の両親という事実は、単なる学歴の問題ではなく、「情報と価値観の貧困」として現れていた。
実際に、 「家庭内での会話や習慣、知的環境が、子どもの将来に強く影響する」 と唱える社会学者もいる。
つまり、塾に行けたかどうかという話ではない。そもそも情報にアクセスするアンテナが育たないのである。 これが、「見えない壁」「見えない格差」の正体だ。

外に出られない、という孤立

衣服の問題も、今にして思えば大きなハンディキャップだった。
私は私服をほとんど持っておらず、小学校では常に体操服で過ごしていた。小学生のうちはそれでもよかったが、思春期に入るとさすがに抵抗が出てくる。結果、私は外に出歩かなくなった。
外部との接点が減り、情報がさらに遮断された。そして、家庭内では前述のように「貧しい会話」しか交わされない。
つまり、内からも外からも遮断される。この状態で「情報に触れ、考え、学び、自力で未来を切り開け」と言うのは、あまりに酷である。

努力すれば成功できる、という幻想

もちろん、貧しい家庭で育っても成功した人はいる。だが、それは成功者バイアスによるところが大きいと思う。
たまたま成功した少数の例を見て、「誰にでもできる」と思い込むのは危険だ。
「貧困は甘えだ」「努力不足だ」と言ってしまえば、話は簡単だ。しかし、いわゆる普通の家庭で育った人には、表面的な貧困の壁は見えても、上述したような見えない壁は、認知できていないのではないか
その壁は、それにぶつかった人間にしか見えない。
「自己責任論」を振りかざす前に、「見えない壁」が存在するという視点を、ほんの少しでいいので持って欲しいと願う。
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