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赤尾好夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あかお よしお
赤尾 好夫
生誕 (1907-03-31) 1907年3月31日
日本の旗 日本山梨県東八代郡英村
死没 (1985-09-11) 1985年9月11日(78歳没)
死因 急性心不全
墓地 多磨霊園
出身校 東京外国語学校イタリア語
職業 実業家
配偶者 赤尾鈴子
子供 赤尾一夫(長男)
赤尾文夫(次男)
長女
赤尾良平・ゆう
受賞 文部大臣賞(1959年)
山梨県政功績特別功績賞(1981年)
栄誉 紺綬褒章(1966年)
藍綬褒章(1967年)
勲二等旭日重光章(1977年)
銀大勲章付大聖グレゴリオ市民二等騎士章(1980年)
勲一等瑞宝章従三位(1985年)
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赤尾 好夫(あかお よしお、1907年(明治40年)3月31日1985年(昭和60年)9月11日)は、日本出版人放送人である。旺文社社長、日本教育テレビ(現・テレビ朝日)社長、文化放送会長などを務めた。

来歴・人物

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赤尾良平・ゆうの三男として、山梨県東八代郡英村(現・笛吹市石和町)に生まれる。良平は肥料商を営む進取に富んだ人であり、母は文学を愛する教養人であったが、やや病弱で好夫が13歳のときに他界した[1]

山梨県立日川中学校(現・山梨県立日川高等学校)を経て、東京外国語学校(現・東京外国語大学イタリア語科を卒業[1]

1931年10月、折からの不況で就職を諦めた好夫は、父親から資金を得て「歐文社通信添削会(現・旺文社)」を目白文化村の民家で創業した[2][3][4]。学校を出たばかりの好夫に、出版の心得はない。だが、地方在住の中学生向けの通信添削といった受験対策事業を手始めに、徐々に『英語基本単語集(赤尾の豆単)』など英語参考書の出版も手掛け、これが大当たりした[2]

1942年、歐文社の歐の字が敵国につながるとして、社名を「旺文社」に変更[4]1944年9月、旺文社を株式会社組織にして社長に就任する[5]

終戦後、旺文社は講談社主婦の友家の光協会等とともに戦犯出版社として名を挙げられた[5]1947年11月、39歳で好夫はG項(超国家主義者)該当で公職追放に遭い、出版界を追われる[6]。これによって、一家は都下の調布町(現・調布市)に蟄居するが、戦時下における旺文社の急成長によって、すでに好夫は資産家の地位を築いており、一般的な窮乏生活とは無縁であった[7]。旺文社労組で好夫と対立した音楽評論家志鳥栄八郎は「赤尾社長は、だいたいが右翼で、そちらのパージになったこともある人だけに、赤いものは、赤旗はもちろんのこと、赤い腰巻きまで嫌がった」と語っている[8]

放送界に進出

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1952年3月、「財団法人日本文化放送協会」が開局した。好夫は文部官僚に頼まれ、旺文社は開局時から『大学受験ラジオ講座』を番組提供し[9]、ラジオ講座のテキストを創刊した。 ところが、日本文化放送協会は経営不振で解散に追い込まれてしまう。このため、1956年2月、社長に水野成夫、会長に渋沢敬三を迎えて、株式会社に改組した「文化放送」が設立されることになった[10]。この際、好夫も取締役として経営に参画した[11]。以降、財界の全面支援を受けたことで文化放送の経営はようやく回復軌道にのるが[2]1968年、水野が病に倒れて再起不能となると[12]、好夫は文化放送で実権把握を目指すようになり[12]1979年6月、代表取締役会長に就いた[13]

1957年11月、旺文社などの出版グループ、東映などの映画グループ、日本短波放送日本経済新聞社)などが出資して[14]、「日本教育テレビ(NET)」(現・テレビ朝日)が創設され、好夫は初代社長に就任した[15]。しかし、教育局の制約から経営は思わしくなく、NETは、"東京ローカル局"に長く甘んじることになり[16]、開局から2年を待たず、経営不振の中で好夫は会長に退き、社長には東映の大川博が就任した[16]。社長の座に就いた大川は、好夫に覚られないように、密かにを株を買い集め、経営の主導権を握ろうと水面下で動いた[17]。だが、経営権奪取の企ては、好夫に阻まれ、大川はNETから放逐された[18]。好夫は1964年再び社長として復帰。そして翌年会長。以後社名が全国朝日放送と変わり、好夫は会長、名誉会長を歴任した[19]。またフジテレビを創設する際、文化放送はニッポン放送ともにに出資し、社屋の建設地は、好夫が河田町にある知人の土地(戦前は陸軍省偕行社別館)を紹介、売買交渉にあたった[20]

英語教育

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戦後、間もなく、文部省はいくつかの社会通信教育をスタートさせた[21]日本英語教育協会もその一つであった。だが経営状態は芳しくなく、好夫が経営を引き受けることになった[21]。当初は赤字続きであったが、やがて軌道に乗り始めた。協会引き受けに当たって文部省から「将来英語検定制度を発足させる」件につき、了承を得ていた好夫は1963年日本英語検定協会を発足させた[21]。これらの英語教育を通じて「英語は耳から学ぶ」べきことを痛感した好夫は、1975年、日本ラーニング・ラボラトリー教育センター(略称LLセンター)を設立し、全国に教室が設けられた[21]

その他特記事項

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射撃においては全日本選手権で優勝し、1954年の世界選手権(ベネゼエラ)に出場。スキート、トラップ両種目で銀メダルを獲得した[22]。また長きにわたり社団法人全日本狩猟倶楽部の会長も務めている。

長男・一夫が1979年11月、財団法人センチュリー文化財団を設立[23]。資産として、日本英語教育協会から現金7億円、旺文社から好夫が収集した書画など2000点あまり、そして好夫から「赤尾の豆単」著作権、併せて7億3300万円が寄付された。言語に係わる文化への理解を深める、が設立目的であった[23]

家族

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1947年1月、城所鈴子と結婚[5]

長男・一夫 1947年11月生[5]。2006年10月没 。

次男・文夫 1951年2月生[22]。 2025年4月没[24]

長女

主な著書

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追憶録

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  • 赤尾好夫追憶録刊行委員会 編纂『追憶赤尾好夫』旺文社、1987年9月。 

関連項目

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脚注

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  1. ^ a b 追憶赤尾好夫 1987, p. 9.
  2. ^ a b c 中川 2019, p. 30.
  3. ^ 上田 et al. 2009, p. 9.
  4. ^ a b 追憶赤尾好夫 1987, p. 23.
  5. ^ a b c d 追憶赤尾好夫 1987, p. 162.
  6. ^ 中川 2019, p. 38 - 39.
  7. ^ 中川 2019, p. 39.
  8. ^ 志鳥 2003, p. 184.
  9. ^ 中川 2019, p. 27.
  10. ^ 中川 2019, p. 29 - 30.
  11. ^ 追憶赤尾好夫 1987, p. 164.
  12. ^ a b 中川 2019, p. 149.
  13. ^ 追憶赤尾好夫 1987, p. 166.
  14. ^ 中川 2019, p. 46.
  15. ^ 追憶赤尾好夫 1987, p. 25.
  16. ^ a b 中川 2019, p. 47.
  17. ^ 中川 2019, p. 58.
  18. ^ 中川 2019, p. 78.
  19. ^ 追憶赤尾好夫 1987, p. 27.
  20. ^ 中川 2019, p. 42.
  21. ^ a b c d 追憶赤尾好夫 1987, p. 24.
  22. ^ a b 追憶赤尾好夫 1987, p. 163.
  23. ^ a b 中川 2019, p. 151.
  24. ^ 赤尾文夫さん死去”. 朝日新聞デジタル (2025年4月11日). 2025年10月24日閲覧。
  25. ^ 『文藝春秋』2007年9月号

参考文献

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外部リンク

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