《若年性アルツハイマーの母親を20年以上介護》フリーアナ・岩佐まりが20歳で決めた介護の道 住所が途中で途切れた封筒に切なさ、「介護なんてでけへんぞ」と言った父親の涙
フリーアナウンサーの岩佐まりさん(42歳)は、若年性アルツハイマーの母親を20年以上介護している。55歳で診断された母親の涙と、父親の「介護はできない」という言葉を前に「私が介護をする」と決意。長期にわたる介護の原動力や、母親への思いを語る。【全3回の第1回】 【写真】オムツをする2歳の子供を抱っこしながら、母親の介護をする岩佐まりさん。ベッドに母親を移す姿なども
若年性アルツハイマー型の軽度認知障害と診断された母は泣き崩れた
――母親が若年性アルツハイマーと診断されるまでのいきさつを教えてください。 岩佐さん:母は55歳くらいの頃から、物忘れが目立ってきたんです。いろんな病院に連れて行って物忘れの原因を探り、3年かけてようやく若年性アルツハイマー型の軽度認知障害(MCI)だと判明しました。先生に、将来的にアルツハイマーを発症する可能性が高いとも言われました。 その言葉が持つ意味の重さを、20歳になったばかりの私はすぐには理解できませんでした。けれども、病院から出た母が人目もはばからず嗚咽して泣き崩れたのを見て、やっと状況を飲み込めました。母はまだ50代で、これから旅行や趣味を楽しめたはずなのに、これから記憶を失って動けなくなっていくかもしれない。かわいそうで悲しくて悔しくて、私も涙が止まらなくなりました。 母と泣きながら手をつないで帰り、父に報告すると「俺は介護なんてでけへんぞ」と言われました。父は「男は仕事、女は家事」という頑固な性格なので、戸惑いと怒りでそんな言葉が出たのだと思います。 母がシュンとしてしまったので、私は腹が立って「介護が必要になったら私が介護をするから、お父さんは何もしなくてもいいからね!」とケンカ腰(苦笑)。ただ、それは売り言葉に買い言葉ではなくて、母に何か起きたら私が支えるという決意が、自然に固まっていたんです。 ――それから、MCIの母が心配で東京と大阪を往復する生活が始まるんですね。 岩佐さん:高校を卒業してから、私は舞台女優を目指して上京していたんです。それは“女優になりたかった”という母の影響でした。当時、事務所に所属してタレントとして活動していましたが、芸能の仕事だけでは食べることができず、アルバイトを掛け持ちしていました。 そんな生活のなか、母から毎日のようにSOSの電話がかかってくるんです。父は母の病気を受け入れられなくて、「しっかりしろ」と母を責めることが多かったんですね。母はどんどん自信を失って、夫婦の距離も広がってしまった。両親が心配なので、東京と大阪を新幹線で行ったり来たりして。新幹線代がかかって大変でした。 アルバイトをしてお金を貯めていましたが、帰りに母が新幹線代を私の手に握らせてくれたことがあって。自分のことで手いっぱいなはずなのに、母は私を心配して、芸能活動を応援してくれた。認知症で物忘れは増えても、娘を愛する母の気持ちは変わらないのだと伝わってきました。 だから、私はこの病気が本当に憎かった。こんなに優しい母が、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだって。
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