こんにちは
最近城巡りができなく近場の城になります。
小谷城、いままで散々小谷城の前を通過して北陸攻めをしましたが、こういう時にいいかな?と思い行ってきました。
築城 1523年 浅井亮政
廃城 1575年
城郭 梯郭式山城
天守閣 2重の天守あった
浅井氏は近江北部守護の京極氏の配下の国人に過ぎなかったが、1523年に当主京極高清と子の京極高延と京極高吉の御家騒動が起こり弱体化して浅井亮政が下克上を起こし支配した。
浅井亮政は京極高延を支持しまず京極高清、高吉親子を追い出し、京極高延を傀儡として支配したが、京極高延は嫌気さし対立した京極高清、高吉親子と和解し近江南部守護の六角定頼に頼り抵抗して小競り合いが続くも結局は敗れ。
浅井氏の勢力が強くなり越前の朝倉氏も脅威を感じ1525年朝倉宗滴が小谷城番所前に金吾丸の出城を作り牽制したが、5ヶ月後に浅井朝倉と同盟を結ぶ。
1534年に六角高清、高延親子は小谷城に饗応して和解し小谷城へ住む。
1541年に浅井亮政が亡くなり子浅井久政が跡を継ぐとあまり力が無かったのか?六角定頼に攻められ配下になってしまいます。
浅井久政の子浅井長政に六角氏の家臣の娘と政略結婚させられ、六角氏への服従外交は家臣に信頼がなくなってしまいます。
1552年に六角定頼が死に子六角義賢が継いで
1560年に浅井長政に反旗を翻され田良野の戦いにて六角軍を破り独立してしまう。その頃に織田信長と同盟。
しかし、織田氏と朝倉氏の対立によりお互い同盟を組んでいて織田信長と「朝倉氏と不戦の誓い」を破り朝倉氏の城を攻め始めた。浅井氏は苦渋の末織田氏と同盟を破棄。織田信長が越前金ヶ崎城を攻略中に裏切った。織田信長は命ガラガラに京へ逃げ切り
1570年に小谷城から5km離れた姉川の戦いにて、織田徳川連合軍は浅井朝倉連合軍と戦い破る。
その後信長包囲網なとで抵抗したが、1971年に浅井氏と懇意していた比叡山を焼き討ち。
1973年についに織田信長が3万の兵にて湖北を攻めて小谷城を囲まれた。浅井氏も朝倉氏に援軍を頼み2万の兵が来たが、助けるのは不可能と判断し撤退した時に追尾され先に越前の朝倉氏を滅ぼしその折り返しにて小谷城も攻められついに落城。浅井久政、長政親子は自害し滅びた。
小谷城もこの時に廃城。
たった50年のお城だがなかなか素晴らしい山城である。
まずは
小谷城資料館へ
応手門にあたる
奥の山が大獄で小谷城で一番高い所
右側の山が本丸。
100城スタンプはここで
小谷城で登ったのは下の図の部分。
駐車はここで
主郭への入り口で城への通行を監視する場所
特に石垣もないが一応そこそこの削平地である
金吾丸
番所の反対側に階段を登ると
金吾丸跡
かつて朝倉宗滴がここに5ヶ月も陣を張り対峙して結果浅井朝倉同盟が成立した。
また番所に戻り
奥の道へ
50mほど坂を登ると
おそらく通行止めの方が昔の正しいルート
浅井のノボリ発見
振り向くとおお^ - ^
さてまた登るぞ。
御茶屋
御茶屋
主郭の先端部の曲輪で小さな御殿と庭があったと思われる。
石が散乱しているのが庭跡
屋敷跡
小さな土塁
おそらく屋敷との境界線
以上
小谷城①は終わり
次は小谷城②へ