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左翼が嫌われる理由 がトレンド入りしています。 左翼という言葉の定義がやや雑なきらいもありますが、ここでは、「政権与党の政策に反対する立場の人・政党」を意味するとします。これは民主政の健全化に必要です。与党が常に善ではなく、かつ専横を防ぐ必要があるからです。 しかし、政治状況が不安定にして政権与党の政策にもそれなりの反発があるなかでここまで「左翼」が嫌われている、という状況は、なんだか不整合にも思えます。 そもそも、前記定義をひっくり返すみたいで恐縮ですが、このカオス化した世の中にあっては、右左で分けられるほど単純ではないです。現に「左翼」とされていた陣営が言論規制につながることを叫んだりしているわけで、右翼と左翼のムーブメントが区別しづらくなっています。 そのなかで、上記定義における左翼を私がイヤになった理由という切り口で書きます。 ①やたらに戦争につなげたがる。 もちろん、戦争は忌避されるべきことです。 しかし、例えば、「裁判員制度は戦争につながる」という主張をする陣営もあります。いやさすがにそれは遠くない・・・?と思います。 これは一例ですが、そういう「遠すぎる」話をすると、荒唐無稽に見えてしまいます。 陣営がどういう意図でそういう「遠すぎる」主張をやたらにされすぎると、さすがに辟易します。 ②ポリコレ・DEIに対する嫌悪 生活者にとってはスタグフレーションにも似た苦しい状況にあって政権与党の政策に対する反論として生活者が「左翼」に期待していたのは、経済政策に対する異議でした。 しかしながら、「左翼」は、そういうことを真摯に勉強することを怠り、安易に「信者」を獲得できるポリコレ・DEIにばかり傾注し、生活者に向けた政策をないがしろにしてきたと評価します。実際に、経済政策について、政権与党というより実働している官僚が評価するような経済政策を一つも「左翼」は打ち出せていません。 他方、ポリコレ・DEIは、大事なのでしょうが、生活者目線ではなく、困窮しつつある生活者にとっては「高等遊民の知的遊戯」にしか見えない、というのが実情でしょう。 ③「価値観」レベルでの押し付け 「左翼」のなかには、たとえば、テレビ広告や漫画作品といった「反論してこない者に対する罵倒的攻撃」をもっぱら行う界隈があります。 この界隈のムーブメントはマスコミにも取り上げられやすく、目立ちます。 しかし、その言説は、得てして荒唐無稽です。 それにとどまらず、より重大なのは、 「自分たちの価値観の押し付け」 「自分たちの価値観と違う者に対する罵倒・排除」 です。 たとえば、「マルちゃんうどんCM事件」では、アニメーションでうどんを啜る成人女性の所作が「性的である」と激しい批判を加えた界隈がありました。ところが、この批判が荒唐無稽であったことからかえって世論が反発し、広告主であった食品会社も当該批判を無視しました。 また「草津フラワーデモ事件」も著名です。デモまでやって町長を罵倒しました。 この界隈が「左翼のすべて」ではないですが、この界隈が普段政権与党の政策になんでも反対する言動をしているのが目立っています。 ④権利の過剰行使 車椅子を利用する運動家が、JRに事前連絡を行わず、A駅乗車の際にB駅下車をA駅係員に伝えたところ、A駅係員は、B駅が無人駅なので改札口とホーム間には階段しかないことから、係員は有人駅かつバリアフリー化されているC駅からタクシー等での移動を推奨したところ、当該運動家は次に障害者差別解消法を根拠に合理的配慮を求め、駅員数名を集めて電動椅子を運ぶよう求めた。しかし、JRは急に人員を確保できないとしているが、この交渉中に、運動家は新聞社数社に取材を要請したものです。結局、運動家は、駅係員と1時間ほど交渉の末、C駅に向かったが、C駅では駅長を含め数名が一行を急遽出迎え、B駅まで同行し、階段降下時に、電動車椅子をその数名で手持ち運搬して対応した、というものです。 この件については、B駅が利用者数3000人以下で交通バリアフリー法の対象外ということもあり、そこまで求めるのかという印象を世間に抱かしめた面があることは否めないところです。 こうした物理的な問題は、確かにあって、段階的に解消されていくべき問題かもしれません。しかし、物理的な限界というのはあって、それを過剰主張しすぎると「だったらもう対応しないわ」「(極論すると)駅を廃止しますわ」ということにもなりかねず、他のハンディキャップある人にとってもマイナスになりかねないという影響を考慮する必要があると私は思います。 権利の過剰行使の例として私はしばしば「喫茶店に置かれている砂糖」を引き合いに出します。あれはサービス品ですが、10杯も20杯も入れる人が出てきたら、サービスは物理的に崩壊し、「砂糖を置きません」ということになるでしょう。 権利というのは、行使するべきものではありますが、一定の謙抑性が求められることもあると思います(もちろん、謙抑性などいっていられないこともある。その人の生命身体や代替不能な名誉、経済的利益がかかっている場合など)。しかし、上記事例で私がひっかかりを覚えたのは、「代替不能」ではなく、JRは代替策を提案しているのです。また、生命身体等がかかっている局面ではありません。だから謙抑的であれというつもりもないのですが、そういう評価になることも宜なるかなとは思いました。 概ねこんなところです。 この辺は理屈ではないところもあります。とはいえ、民主政は理屈だけでは支持を得られないです。他方で、おもねてばかりでもいけないわけで、その塩梅は難しいと思います。