あのころ、マガジンハウスはまさしく黄金時代の最中にあった。

1990年のマガジンハウス。

 

社員数444人。

社員名簿の一部。ア行の先頭に、わたしの盃兄弟の青木明節の名前がある。

30年前の個人情報(故人情報もあります)。

いまの社員数はよくわかんないけど200人くらいではないかと思う。

いまのマガハはたぶん、つぶれないように必死で雑誌を作っているのではないか。

それはともかくとして。

………

あの頃、マガジンハウスは黄金時代を謳歌していた。

今日は、その黄金時代を支えた経営者たちの話。

勝手なことするなと、怒られるかも知れないけど、

これをやっておかないと、正確な歴史として、

マガジンハウスがあとに残らない。

①会長は創業編集者の清水達夫さん(故人)。この二年後に、病気療養で某病院に入院中、病院食のフランスパンをのどに詰まらせて、心臓発作を起こし亡くなられた。戦前、立教大学の予科出身で、最初、電通に勤め、そのあと大政翼賛会に籍を置いて、そこで、創業の片棒をかつぐ岩堀喜之助と知り合った。東京日本橋の出身で、オシャレな江戸っ子だった。

②社長。新宿区出身。立教大学の卒業で清水達夫さんの後輩、清水さんの秘蔵っ子的な存在だった。キナさん(木滑良久)はスーバー編集者の石川次郎と椎根和を手下に持つ、新雑誌の創刊責任者だった。戦後の大衆雑誌をつくり出した伝説的存在の編集者、石川次郎はこの人のフトコロ刀で、わたしは石川のフトコロ刀といえたかどうか、自信ない小判鮫的な子分だった。

③副社長。甘糟章さん(故人)。横浜出身。東大卒の我が社随一のインテリと言うことになっていた。キナさんが創刊したいろいろな雑誌を引き継いで、その雑誌を儲けの出る雑誌として安定的に発行していく役目を受け持っていた。雑誌創刊能力は淀川美代子などに言わせると「いまいちだったと思う」ということで、「雑誌創刊能力を持つ編集者が我が社の社長を務めるべきだ」という清水達夫の考え方で、キナさんが社長で甘糟さんが副社長というシフトができあがった。この仕事配分により、こんな小さな会社なのに編集者の色分けができて、社内には〝木滑人脈〟と〝甘糟人脈〟が出来上がった。わたしは編集者としては自分でいうのもなんだが、キナさんのお気に入り編集者の一人だったが、販売部在籍時代には営業担当として甘糟さんといっしょに『自由時間』の創刊を手がけていて、お互いに気心の知れた仲ではあった。ご本人はあまり権力志向のようなものはなく、良識ある知識人だったと思う。

④岡本のカンちゃん。総務担当の役員。1969年に、わたしのマガジンハウス(当時は平凡出版)への就職が内定したとき、この人がまだ早稲田の学生で大学がストライキでフラフラしていたオレに「会社に出てきて編集の仕事を手伝って下さい」と電話してきて、入社前から雑誌作りを手伝うことになった。入社後もわたしを大事にしてくれて、ときどき応接室に呼ばれて「シオザワくん、職場に不満はありませんか」とモニタリングしてくれた。たぶん、会社はわたしを相当大切に扱ってくれていたのだと思う。

岡本さんは人当たりのいい温厚な、穏やかな人だった。

⑤吉森さん。編集局全体の責任者、のちにキナさんの後を継いで社長になった。わたしが『ガリバー』の編集蝶をやったときもこの人が発行人だった。彼女は現場の編集者としては『クロワッサン』の創刊を手がけていて、同誌を軌道に乗せた実質的な功労者。わたしは、雑誌販売部時代、クロワッサンの営業担当もさせられて、同雑誌の300号記念号をきっかけにして、書店販売のネットワークを再構築してみせて、嫌でもこの人と仲良しになった。鋭い編集感覚の持ち主だったと思うが、社長就任とバブル景気のはじけがイッチして、運の悪い社長になってしまった。

⑥ボリさんこと、新堀安一さん。長く『週刊平凡』の編集蝶をつとめて、その後、営業局(販売セクション)に移動して、重役になった。もとは新聞記者。④の話のつづきだが、まだ、わたしは学生でマガジンハウスで編集の手伝いを始めたころ、この人の直属のアシスタントになって、連載小説の原稿取りとか、さし絵の手配とか、占いの原稿をもらいに行ったり、この人の使い走りから仕事を始めた。販売部で、ふたたび彼の部下になったのだが、その時も目をかけてくれて、いろいろと大事にしてくれた。問題は石川次郎と仲が悪かったこと。ボリさんは次郎さんのことを「あいつは勝手なことばかりやっている」と言っていた。

⑦池チャン。広告局担当だったと思う、池田英香さん。この人も編集者から業務に移動して、広告局で実績を積んで役員になった人。編集者としては、1975年に創刊された新雑誌だった『スタア』の副編集長が最後の役職。わたしもこのとき、『スタア』に配属されていて、この人の原稿チェックを受けて仕事していた。「シオザワくんは原稿書き上手だよ。青木雨彦さんなんかより面白い原稿をかく」と言ってほめてくれた。青木雨彦さんというのは当時、文名の高かったエッセイスト。いま思うとおだててそう言っていたのだろうが、ほめすぎである。この人も温厚な人、いまも健在である。

⑧平緒さん。故人。この人の存在がよくわからないが、じつは、社内の陰の実力者で、清水会長もこの人の意見を無視できなかったという謎の人物。この人の正体はマガジンハウスが発行する用紙の手配を受け持つ平凡商事という子会社があったのだが、そこの社長だった。昭和二十年代に、創業者の片割れだった岩堀喜之助が社業拡張のために連れてきた人物で、一説には陸軍中野学校の出身という噂があった。陸軍中野学校というのは戦前のスバイ養成所である。平緒さんはあまり人徳もなくけっこう皆に嫌われていたが、清水さんもこの人に頭が上がらないところがあった。話が長くなるが、清水と創業した岩堀喜之助も新聞記者時代を経て軍の関係者(宣撫官)として中国で活動していた時期がある人だった。雑誌の『平凡』も創刊雑誌ではなく『陸軍画報』という下中弥三郎の平凡社がやっていた雑誌のリニューアルだったのである。この話の細かなところはマガジンハウスというか平凡出版誕生の最大の秘密で、おそらく、旧日本軍に関係していて、その事情と、岩堀喜之助と戦前から面識があったに相違ない平緒さんがその秘密を知っていて、そのことと清水さんに対して強い発言力を持っていたこととは深いところで関係していたのではないか。歴史の闇のなかのことである。

⑨の川尻さんというのは税理とか会計の専門家だったと思う。監査役だし面識はない。

………

いま、ここでわたしはだれも書かなかった、おそらくほっておけば誰にも知られず、闇のなかに消えてしまうようなことを書いているのだが、じつはこの社員名簿が作られる何ヶ月か(一、二年前?)前だったと思うが、常務だった蝦名芳弘という編集者がいた(故人になっている)のだが、この人がデタラメな精算をして私腹を肥やしたということで(おそらくホント=椎根和の証言)そのことが発覚して、会社をやめさせられている(椎根さん曰く、ヨーロッパへの招待で出張したのを自分で飛行機代を出したというような精算をして、何十万円かちょろまかそうとしたのがばれた、ということらしい。このあと蝦名さんはTBSブリタニカに移籍して『Pen』と『Figaro』を創刊している)。わたしが聞いている話では蝦名さんは平緒さんの一番のお気に入りで、将来は社長に、とまで噂されていた人だった。ところが、清水さんとしては自分の後継者は創刊能力に優れたキナさんと考えていた、という構図がある。この段取りから推理すると、清水さんは、まず、蝦名さんを免職にしたあと、平緒さんの発言力を封じる荒療治をして、キナさんを社長にしたということなのかも知れない。これはあくまでも推理である。

最初、キナさんと甘糟さんは副社長だったのだが、これは甘糟さんから聞いた話なのだが、副社長になるとき、清水さんに呼ばれて「これからは組合の味方になるのはやめて、キナさんを助けてやってくれ」と言われたのだという。甘糟さんの周囲には木滑・石川に対して依怙贔屓がすぎる清水さんに対する不満分子のような人たちも集まっていたのである。おそらく、清水達夫さんの構想の中には、キナさんと次郎さんを中心にした大繁栄する雑誌の王国の構想があったのだと思う。

多少、生臭い話も書いたが、

マガジンハウスはこういう有能な経営陣の元、

今も伝説に語り伝えられるような

〝黄金の日々〟を過ごしたのだった。

………

今日は当時の経営陣、重役たちの話でした。

 

Fin.

 

 

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