鴨と呼ばれた一族|天皇家に並ぶ「カモ」とは何者か?




京都を流れる鴨川と賀茂川。そして、その流域には「下鴨神社」と「上賀茂神社」が鎮座し、山城国最古の神社とされ強大な力を持っていました。

また、奈良にも「鴨都波かもつば神社」や「高鴨神社」があり、その歴史は日本最古の神社とされています。

この京都と奈良のカモに関わっているのは「賀茂氏」という一族。日本各地に見られる地名や神社のカモも、この賀茂氏が関わっています。


日本において「カモ」とはいったい何なのか?

今回は京都や奈良のカモの繋がりや、その発祥など…カモを名乗る一族についてまとめました。







1.京都のカモとは?




おそらくカモの中でも一番有名なのは、京都のカモだと思います。 京都盆地を縦に流れる鴨川は、その上流に鎮座する上賀茂かみがも神社下鴨しもがも神社に由来しています。

なぜそこにカモの神社があるのかというと、賀茂氏がそこに住み着いたからです。

かつての京都盆地というのは、まだ未開拓の荒れ地でした。京都が大々的に開拓されたのは、平安遷都が行われるタイミングのため、その際には出雲氏や賀茂氏も開拓に駆り出されています。

そんな荒れ果てた京都盆地で、3世紀中頃には北部で出雲氏が開拓した出雲郷がありました。その隣に賀茂氏は越して来たのです。

なぜわざわざ出雲氏の隣に住み着いたのでしょうか?おそらくは出雲氏と賀茂氏が同族だったからだと考えられます。

では賀茂氏はどこからやって来たのでしょうか? 賀茂氏のルーツをたどるには、彼らの建てた神社の祭神や伝承を読み解くことで見えてきます。



a.下鴨神社の祭神・賀茂御祖とは?




下鴨神社は正式名を賀茂御祖かものみおや神社」といいます。

つまり賀茂を生んだ祖先という意味です。それが誰なのかは主祭神を見れば分かります。下鴨神社に祀られている神様は西殿に賀茂建角身命かもたけつぬみと東殿に玉依姫たまよりひめ命」です。

両者の関係は、賀茂建角身命が父親で、玉依姫命が娘と言われています。賀茂建角身命は古都の京都を開き、京都の守護神として祀られています。

出雲のとび家によると、建津乃身たてつのみ(建角身、大賀茂津身)という2世紀を生きた登美とみの当主がいました。登美家は賀茂家とも呼ばれていましたが、正式に賀茂家と呼ばれたのは彼が山城国へ移ってからです。

富家伝承からも賀茂建角身命が賀茂の御祖というのは間違いなさそうです。



b.下鴨神社の創建はいつ?




下鴨神社の創建は定かではありませんが、下鴨神社の由緒と富家伝承を元に考えてみます。

『日本書紀』では、「神武天皇2年(BC658)に、賀茂建角身命を奉斎していた「葛野主殿県主部かずののとのもりのあがたぬしべ」という鴨氏と同族の名前があります。

崇神すじん天皇七年(BC90)には、社の瑞垣が造営(『鴨社造営記』)されたとあります。

かっこ内の年代は当てにならないので、第10代・崇神天皇の御代を富家伝承で補正すると、物部もののべとよ王国の連合軍がヤマトに攻めてきた、3世紀後半になります。

また、この時にヤマト王国10代目の大王おおきみは連合軍から逃げて、丹波(出雲大神宮いずもおおかみのみや)に移っています。そのため、このタイミングでヤマト(奈良)方面からの大きな人の移動があったことが分かります。

ということは下鴨神社の創建は3世紀後半以降?



c.上賀茂神社




続いて下鴨神社から少し上流に行った「上賀茂かみがも神社」について 上賀茂神社は正式名を賀茂別雷かもわけいかずち神社」といいます。その名の通り、主祭神には賀茂別雷神かもわけいかずちのかみが祀られています。

賀茂別雷神は、下鴨神社の祭神だった玉依姫命たまよりひめの息子です。

山城国風土記やましろのくにふどき逸文いつぶんに「玉依姫命は川上から流れてきた丹塗矢にぬりのやを拾って床に置き、朝起きると子を妊んでいた」という話があり、その子供が賀茂別雷神というわけです。

こちらの神社の創建ははっきりしていて、第40代・天武天皇6年(677年)です。



d.賀茂皇大神宮|伊勢神宮に並び天皇家の祖神を祀る




下鴨神社と上賀茂神社は合わせて「賀茂大社」と呼びます。

平安遷都以降は桓武かんむ天皇の度重なる参拝から皇室との繋がりが強くなり、皇城鎮護の神として賀茂皇大神宮かものすめおおかみのみや、さらには賀茂御祖皇大神宮かものみおやすめおおかみのみやと称せられました。

賀茂大社の神様は賀茂皇大神かものすめおおかみと称せられ、現在でも下鴨神社の神札に残っています。 807年には正一位を賜り、国内随一の地位が与えられ、斎王さいおう制度が置かれました。 これはただならぬことです。

皇大神宮こうたいじんぐうとは、今では伊勢神宮(内宮)のことを意味します。「すめらぎ」は天皇を意味するため、「皇大神宮」は天皇の大神を祀る宮となります。それが伊勢神宮以外でも使われていたということは、天皇家の祖先を祀ってるのと同じことです。

また神社に未婚の皇女を奉仕させる斎王さいおう制度」も、伊勢神宮と賀茂大社の二社以外では行われていませんでした。

このことから、京都のカモがどれほどの力を持った家か理解できると思います。しかし、賀茂大社に使われていた皇大神宮の文字は、明治政府の強い要請によって取り払われました。逆に言えば近年まで賀茂大社は皇大神宮という位置づけだったのです。

いったい京都のカモとは何者なのでしょうか?



2.奈良のカモ




京都のカモのルーツは『山城国風土記』逸文によると、「神武天皇を先導した八咫烏やたがらすこと賀茂建角身命かもたけつぬみは、葛城かつらぎを通って山城国へ至った」とあります。


2a.上下鴨社|全国のカモの総本宮




奈良盆地南西部には鴨都波かもつば神社」高鴨たかかも神社」という、全国のカモの総本宮があり、かつ日本最古の神社の一つと言われています。それぞれ下鴨社、上鴨社とも呼ばれています。 高鴨神社曰く、その起源は紀元前2世紀頃とされ、京都のカモも葛城かつらぎが発祥だとあります。これは旧出雲王家の富家伝承も同じ内容です。

「鴨都波神社」の祭神は事代主命ことしろぬしで、当社曰く葛城は事代主の本源地とあります。

「高鴨神社」の祭神は、阿遅志貴高日子根命あじしきたかひこね、事代主命、阿治須岐速雄命あじすきはやお下照姫したてるひめ命、天稚彦あめのわかひこ命です。

阿遅志貴高日子根命は「迦毛之大御神かものおおみかみ」と呼ばれ、鴨一族が守護神として祀ったとあります。

そして、この二社に祀られている神様は、全て出雲の神様です。賀茂の総本宮が全て出雲の神様ということは、賀茂の祖先は出雲ということになります。



2b.カモの正体は神と呼ばれた王家




葛城の賀茂氏の祖先は出雲…そうなれば当然、旧出雲王家のとび家にはその歴史が伝わっています。

鴨都波かもつば神社」の祭神である事代主命ことしろぬしは、東王家・富家の当主で出雲王国の八代目副王でした。

その后だった活玉依姫いくたまよりひめが息子の奇日方くしひかたを連れて摂津三島(三島鴨神社)に里帰りしました。三島鴨神社の祭神を見ると事代主命が祀られており、神社の神紋には出雲特有の六角形の龍鱗枠が使われています。

摂津三島で成長した奇日方はヤマトに進出し、祖先を祀って建てたのが鴨都波神社です。事代主は死後に贈られた名前で、生前の名は八重波都身やえなみつみのため、それが社名の由来となっています。

富家の奇日方は、ヤマトでもとび家を重んじて登美とび家」と名乗りました。後に呼び方は「とみ」に変わります。

一方で「高鴨神社」の祭神であるアジスキタカ彦は西王家の郷戸ごうとの当主でした。その息子の多岐都彦たぎつひこが富家の奇日方を頼って移住してきたため、彼が父・アジスキタカ彦と、叔母の下照姫したてるひめ、その婿の天稚彦あめのわかひこを祀った神社です。

こちらは高鴨たかかも家」と呼ばれました。

登美家も高鴨家も出雲王家出身のため、周りからは神(カミ)を意味する「カモと呼ばれました。それが「カモ」発祥の地される由縁です。



2c.カモの大移動|奈良から京へ




では京都のカモが奈良のカモから出た者なら、なぜ山城国(京)へ移動したのでしょうか?

その理由は戦争です。

富家の伝承によると、2世紀中頃に九州から物部もののべという武力に長けた勢力がヤマトを襲いました。富家ではこの襲撃を「第一次物部東征」と読んでいます。

その圧倒的な武力に恐れ、ヤマトの民は散り散りに各地へ逃れました。この時に、登美家の人達もヤマトを離れ、南山城(京都南部)へと逃げています。

この時の登美家当主が建津乃身たてつのみで、京都の下鴨神社で賀茂の御祖みおやとして祀られている神様です。

この時にはまだ京都盆地にまでは入っておらず、南山城で長いこと定住しました。現在木津川市には「岡田鴨神社」という賀茂建角身命を祀る神社があります。


『山城国風土記』逸文にも、賀茂氏が葛城から岡田鴨を経由して下鴨神社に鎮まったとあります。

富家の伝承はここまでですが、おそらく下鴨神社に移ったのは、1章bで書いた崇神すじん天皇の御代の3世紀中頃以降と考えられるため、その当時に物部勢力が2度目の襲撃「第二次物部東征」を仕掛けてきたので、そのタイミングでさらに北へ逃れたのかと思われます。



3.記紀神話の嘘|天神系の八咫烏




一般的に賀茂氏の系統は、神武天皇を先導した皇室関係の「天神系」と、葛城在地の地祇ちぎ系」に分かれ、両者の系譜は別物と言われています。いわゆる国津神くにつかみ天津神あまつかみという違いです。

しかし、富家の歴史や『山城国風土記』逸文、高鴨神社の由緒などから、この系統の分類は無いと分かります。

天神系のカモは、天照大神あまてらすが初代天皇・神武じんむ天皇を先導するよう派遣した八咫烏やたがらす(賀茂建角身命)を祖としています。

しかし、富家伝承ではこの八咫烏の役をしたのは、ヤマトを裏切った登美家分家の太田家当主である太田タネ彦でした。後に彼は登美家と名乗り、現在の大神神社祭祀者である三輪氏に続きます。

賀茂建角身命が八咫烏でないどころか、賀茂氏には天神系も地祇系も存在しません。これは記紀神話が作り上げた嘘の一つです。

なんのために?と言えば… 私の考えではおそらく、京都に逃れたカモ本流の一族は、出雲王家とヤマト王家の血を引く一族のため、天皇家以外にそのような存在があってはならないように、天皇家と同じ天神系の一族に無理矢理変えたと考えられます。

そこに祀られる神様が天神系の「八咫烏」であれば、天皇家が祖神としても祀る皇大神宮でもおかしくないということでしょうか?



4.まとめ|カモの歴史(出雲~京都)




カモの移動した流れをまとめると…

カモの起源の大元は出雲にあり、出雲東王家・とび家の当主である事代主ことしろぬしが一番の祖先となります。

ある事件で事代主が亡くなった後、母・活玉依姫いくたまよりひめは息子の奇日方くしひかたと共に実家の摂津三島せっつみしま(大阪府高槻市)に里帰りしました。そこには現在「三島鴨神社」という出雲の王族である三島家の神社があります。

成長した奇日方はヤマトに進出し、葛城かつらぎを拠点にヤマトに王国を築きました。彼が拠点にした葛城には鴨都波かもつば神社」や、西王家・郷戸ごうと家の高鴨たかかも神社」が祖先の出雲を祀って建てられました。

ヤマトでは東出雲王家の富家は登美とび家を、西王家の郷戸家は高鴨家を名乗り、両家は神(カミ)を意味する「カモ」とも呼ばれます。

しかし、2世紀中頃に起きた第一次物部東征により、登美家の建津乃身たてつのみは南山城の木津川辺りに逃れ、そこに定住して後に賀茂建角身命かもたけつぬみを祀る「岡田鴨神社」が建てられました。

そして、おそらく3世紀中頃に第二次物部東征のタイミングで、南山城にいた賀茂氏が京都盆地の鴨川デルタの辺りに逃れ、そこに賀茂建角身命を祀る「賀茂御祖神社(下鴨神社)」を建てました。

後の677年の天武朝の時代には、下鴨神社より少し北に賀茂別雷神かもわけいかずちのかみを祀る「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」が建てられました。


これがカモの大きな流れとなります。

その他の地域で見られるカモは、ヤマトのカモ族が地方へ移った際のもので、カモ本家の流れは出雲から大阪、奈良、京都になります。

この流れを知れば、なぜ京都のカモが皇大神宮を名乗り、斎王制度まであったかの意味が分かります。

単に神武天皇を案内した八咫烏を祀っているから?いや、皇大神宮(伊勢神宮)に並ぶ「賀茂皇大神宮」は、出雲王家の子孫にして、初代ヤマト政権の王家の子孫でもあった、その本家末裔だからだと考えられます。



5.参考文献




【参考図書】

・2013/大加茂真也/『八咫烏の「超」日本史』/株式会社ヒカルランド
2019年/富士林雅樹/『出雲王国とヤマト政権』/大元出版
2019年/勝友彦/『魏志和国の都』/大元出版
・2021年/高田崇史/『京の怨霊 元出雲』/講談社


【参考サイト】

「下鴨神社ホームページ」
「上賀茂神社ホームページ」
「高鴨神社ホームページ」
「鴨都波神社ホームページ」

(当サイト)
「上賀茂と下鴨|賀茂氏の祖先は出雲にあった」
「京都の出雲郷とは|出雲路の歴史「出雲は鬼門・怨霊除け」」
「葛城の賀茂氏|賀茂一族発祥の地、正体は出雲族だった」
「葛城氏と賀茂氏の関係|鴨と葛城はなぜ入れ替わった?」
「奈良と出雲の関係|なぜ大神神社に出雲の神様が祀られているのか?」
「熊野本宮大社と八咫烏|熊野大神の正体って本当はだれ?」
「八咫烏の正体|裏切りで大和へ導いた意外な正体とは?【出雲王家伝承】」


関連記事

コメント

寝間着禰子
下鴨社の本殿前の言社の祭神は名前が全て違うが結局は  大国主ですね。

Re:

寝間着禰子さん、コメントありがとうございます。

おっしゃる通り、言社の神々は大国主の変名です。同社境内に出雲井於神社もあるように、鴨と出雲の関わりが表れていますよね。
非公開コメント