たっちゃんの古代史とか

誰も知らない日本とユーラシア古代史研究。絵も本も書く。闇の組織に狙われてるアマ歴史研究者。在宅お仕事中。

魏志倭人伝には物部氏や吉備津彦が登場してたかもしれない件

前回の難升米=少彦男心命(すくなひこおごころのみこと)だった話に続きまして、今回は魏志倭人伝にみつけたっぽい、物部氏吉備津彦について想像した。

 

 

魏志倭人伝の官吏と人物のリスト

 

魏志倭人伝見ると、人物名や官吏名が数多く登場してます。

それをリスト化するとこうなる。

倭の女王 卑弥呼、壱与

大夫(だゆう、まえつきみ、大臣) 難升米(なんしょうまい)、都市牛利(としぎゅうり)、伊声耆(いせいき)、掖邪狗(えきやく)、載斯(さいし)、烏越(うえつ)

 

地方自治体の官吏

対馬国 大官:卑狗(ひく)、副官:卑奴母離(ひなもり)

一大国 官:卑狗、副官:卑奴母離

伊都国 官:爾支(にき)、副官:泄謨觚(せもこ)、柄渠觚(へくこ)

奴国 官:兕馬觚(しまこ)、副官:卑奴母離

不弥国 官:多模(たま)、副官:卑奴母離

投馬国 官:彌彌(みみ)、副官:彌彌那利(みみなり)

邪馬壱国(邪馬台国) 官:伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)

 

対立国

狗奴国 男王:卑弥弓呼(ひみきゅうこ)、官:狗古智卑狗(くこちひく)

 

魏の人物

皇帝 明帝(曹叡 そうえい)、斉王(曹芳 そうほう)

魏の官吏 帯方太守劉夏(りゅうか)、帯方太守弓遵(きゅうじゅん)、建中校尉梯儁(ていしゅん)、帯方太守王頎(おうき)、塞曹掾史張政(ちょうせい)

 

参考

魏志倭人伝 - Wikipedia

石原道博編訳「新訂 魏志倭人伝

 

こんなにいました。34名です。この中に大夫は6名しかいませんね。では物部氏吉備津彦がいるのかどうか確かめよう。

 

 

都市牛利(としぎゅうり)

大夫の都市牛利は景初2年6月(238年)に難升米と共に魏の皇帝に謁見し、贈り物を届けて率善校尉となったらしく、重要人物でした。

ところが日本書紀には存在しないとか言われてました。

しかしそんな都市牛利は、もしかすると日本書紀にでてくる、物部十市根(もののべのとおちね)かもしれんです。

物部十市根は饒速日命(にぎはやひのみこと)の7世孫で、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)の子で、垂仁天皇時代には五大夫の1人だそうですね。別名は建胆心大禰命(たけいこころおおねのみこと)。

都市牛利と物部十市根。これを比較するとこうなる。

都市牛利 To-shi-Go-Ri としごり

十市根  To-Shi-Gon としごん

胆心   Tan-Shin

都市(とし)と、十市(とし)で一致してますね。建胆心大禰命の胆心も子音が一致。

牛は伝統的に「ご」と読まれる。根のコンを濁らせるとゴンで、「としごん」だから都市牛ぽくなる。

牛の字については、物部氏の「物」の字が「牛」の部首を持ってることと関連付けているみたいです。

まぁ全国の物部氏ファンからすると、「都市牛利が物部十市根だってよ」ということで、喜びの声があがるかもしれんです。

 

 

伊聲耆(いせいき)

正始4年(243年)に魏の使者として贈り物を届けたのが、大夫の伊聲耆でした。

誰かと思って日本書紀見てると、吉備津彦命(きびつひこのみこと)に当てはまってる感じがしました。

吉備津彦は別名を彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、比古伊佐勢理毘古命)というらしいです。

孝霊天皇の子で、昔から鬼退治をした桃太郎だと伝承されてました。

伊聲耆  I-Sei-Ki いせいき

五十狭芹 I-Sa-Kin いさきん

伊佐   I-Sa   いさ

こんなふうに音が合ってるでしょう。ちなみに「五十」の2文字で「い」と読みます。

音訓を入り混じらせてあるので、倭人が伊声耆と命名した可能性があるんではないかと。

難升米や都市牛利もそうでしたが、本名を魏に知られるのを避ける目的だったのかもしれんです。

「耆」は60歳や老人という意味があるみたいです。伊聲耆こと吉備津彦は、この時にけっこうオヤジな感じだったかもしれんですね。すると吉備津彦の生まれ年は、183年前後になります。

しかも五十が50、耆は60で、数字で合わせてる感じがしました。

 

 

掖邪狗(えきやく)

正始4年(243年)に、大夫伊聲耆と共に魏へ渡ったのが掖邪狗でした。

この人物、じつは袁邪本王(おざほのみこ)かもしれません。

袁邪本王は彦坐王(ひこにいますのみこ)の子で、開化天皇の孫にあたるとか。

掖邪狗  邪 えきやく

袁邪本王 邪 えんやほんおう

掖邪狗と袁邪本王は、「邪」の字で一致しているのは分かりやすいとこです。

その上「掖」は手偏なのに対して、「袁」は「服を両手に持って体に着る様子」が字源らしいので、手で合わせてるみたいです。

また「掖」は宮廷の意味があり、「王」は宮廷にいる人ですので、そのへんも意味が合わせられている感じがする。

 

 

・・・

載斯(さいし)、烏越(うえつ)はよくわかりませんでした。しかしたぶんほかと同様に、3世紀の崇神朝の人であると思われますね。

名前は魏志倭人伝の編者の陳寿が間違えた表記したというか、女王界隈が介入してあえて名前を分かりづらく改変してる可能性が、あるような気がしましたね。

 

 

ぽちされたすかり

 

 

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