「地裁でひっそり」を知る時に初めに読む
(地裁でひっそりとは)帝国データバンクも報じない「地裁の全件ソート」から見える、「裏実務」の仕様書である。
(※写真は筆者の亡母です)
序、人類が「見なかった」ことにしている場所へ
要約
私は過去6年間余、雨の日も大嵐の日も東京地裁に赴き、開廷表にある事件を「全件ソート(選別)」し続けてきた。もちろん、そのすべてを機械的に記録しているわけではない。 膨大な数に上る「求償金請求」や「建物明渡請求」といった、市井の人々の生活上のトラブル(これらはある種、社会の代謝のようなものだ)は、一旦は私の脳内フィルタで即座に除外される。
ただし、そこに知る人ぞ知る企業名やZ世代の特異な人物名が含まれていれば、話は別だ。即座に脳内のデータベースと照合し、記録対象となる。
私がデータベース化しているのは、そうした膨大な「日常の堆積」の中から、ふと現れる「異物」である。 それはまだ公開されていない、私だけのアーカイブだ。 優秀な記者たちが「事件」を追って走り去った後の静かな裁判所で、私は砂金採りのように、泥の中に妖しく光る微細な「司法のバグ」や「人間心理の裂け目」を選別し、蓄積している。
このように、「地裁でひっそり」は東京地裁という威厳ある司法制度が生み出し、即座に忘却する「事実の断片」を、6年間にわたり毎日、全件ソートし、その大数をデータベース化するという、正気の沙汰とは思えない負荷を自らに課したアカウントである。
コロナ禍の最中、私は重症患者として国立国際医療研究センターの隔離病棟にいた。死の淵を覗き込んだものの、身体は妙なほどの生命力で回復し、わずか8日で退院する。だが、病み上がりの歩行もたどたどしい私が向かった先は、自宅のベッドではない。 東京地裁の、あの硬い傍聴席だった。
その常軌を逸した機転が、何かを呼び寄せたのだろうか。 翌年の秋、文藝春秋社「週刊文春」本誌編集部から声がかかる。以下は、成果のほんの一部。
「ルフィ」事件のエリート美女・寺島春奈の公判 (『詐欺総額1000万円…寺島春奈(29)を追い詰める“同僚女性”の証言』週刊文春)
https://bunshun.jp/articles/-/74263練馬区わいせつ校長の「鬼畜の仕業」 (『「中2の春に理科準備室で…」被害者A子さんが初公判で証言』週刊文春)
https://bunshun.jp/denshiban/articles/b10106
2021年秋以降、掲載は不定期だ。月に2本載ることもあれば、半年間の沈黙。 当然だ。私は彼らの記者ではない。どの法廷を見るかは、誰にも相談せず、私自身が決める。ゆえに、商業的なニーズとは合致しない。
だが、それでいい。私の活動領域は、報道がニュースの価値がないとして切り捨てざるを得ない、法廷の「残り8割」にある。 その膨大な残滓の中にこそ、社会の真実、あるいは致命的なバグ(欠陥)が潜んでいる。私はその仮説を検証し、記述するためだけに、法廷に座り続けている。
かつて放送局を辞し、ネットのポータルで『闇』を追っていた私が支払った代償は、あまりに高いものだった。取材対象者が闇サイトで雇った2人の女性放火魔。その報復によって、事務所は一夜にして真黒の炎に包まれ、物理的に半焼した。 灰になった瓦礫の前で、関係者に報告するその場所で悟ったのだ。安直な正義感で人を『善悪』で裁くことの危うさを。その日、私の主観は死ぬ。代わりに私が選んだのは、感情を排し、ただひたすらに事実を累積させるという、静かで、しかし狂気じみた記録の実践である。
第1、エリートたちが「見ない」のではなく「見られない」構造
誤解を避けるために明記しておくが、大手新聞やテレビの司法記者という職能は、極めて優秀である。 彼らはトップクラスの知性を持ち、巨大メディアという狭き門をくぐり抜け、さらにその中から選抜されて東京地裁という最前線に配置されたエリートたちだ。
彼らが「警察からのリーク」という導線に張り付くのは、決して怠慢からではない。 むしろ、リークこそが、社会的に影響力のある「報道の真実」を担保するための、最も強固な裏付け(担保)となるからだ。彼らはその確かな情報を足がかりに、独自の取材を行い、世の中に価値あるニュースを提供している。そのシステムは、社会の公器として正しい。
実際、私と彼らの関係は断絶しているわけではない。 かつてのメディア仲間を介して、私の元へ挨拶に訪れる司法記者もいる。あるエリート記者は、法廷の廊下で私に対面し、「報道から零れ落ちた事件を探しています」と、在野の遊軍の私に対して頭を下げた。その謙虚さと、真実への渇望に対し、私は純粋な敬意(リスペクト)を抱いている。
しかし、断言しよう。 彼らがいかに優秀であろうと、彼らには構造的に「できない」ことがある。 逆に、組織を持たない遊軍の私にしか「できない」ことがある。
彼らは「事件(News)」を追わなければならない。上司への報告、締め切り、紙面の枠そして流行や「上からの指令」など「社会的な特ダネ」という呪縛の中にいる。だからこそ、警察が情報を出さない「無名の事件」や、記事になりにくい「複雑怪奇なディテール」には、物理的にリソースを割くことができないのだ。
対して、私はどうだ。 私は「ニュース」を追っていない。他人の関心も追っていない。私が追っているのは「ファクト(事実)のソート」である。
毎朝、裁判所の正面玄関で危険物を発見するスキャンを通過すると同時に、私の「選別」は始まる。 開廷表に羅列される事件は膨大だ。その一行一行を、私は6年間にわたり構築した脳内とローカルのデータベースと照合し、瞬時に振り分けていく。 「求償金」、「建物明渡」……。 リストの大半を埋めるこれら一般市民の生活上のトラブルは、私の網膜を通過した瞬間に「ノイズ」として一時処理され、記憶から消去される。いちいち立ち止まっていては、圧倒的な情報量の海に溺れ、核心にたどり着けないからだ。
しかし、この高速の「廃棄」のプロセスの中で、私の指がピタリと止まる瞬間がある。 ノイズの山の中に、ふと混ざり込む「異物」を見つけた時だ。
それは例えば、SNSを賑わす人物の名前、過去の被告事件、Z世代特有の響きを持つ女性の氏名であったり、あるいは、同色の事件名の羅列の中で、そこだけ重力が歪んでいるかのような「違和感を放つ文字列」であったりする。 なぜその企業が? なぜその人物が?私の脳内センサーが反応したその瞬間、私はその「異物」を拾い上げ、即座に手持ちの機器でローカル検索し、傍聴席へと静かに走る。
私がデータベース化しているのは、こうして膨大なノイズを合理的に捨て続けた果てに残った、ごくわずかな「結晶」である。司法記者等の照会にたまに利用するが、まだ公開されていない、私だけのローカルアーカイブだ。 優秀な記者たちが「事件」を追って走り去った後の静寂の中で、私はただ一人、泥の中に今は滑稽に光る微細な「時代の予兆」を選別し、蓄積する。
例えば、訴因変更の記載がないにもかかわらず、なぜか罪名が加筆されている開廷表及びその起訴状の謎。あるいは、初公判がないまま突如として公開法廷が指定される不可解なスケジュール。一審で実刑判決が出た事件が、高裁でひっそりと破棄される瞬間の、裁判官の微細な表情の変化。
これらは、法律、医学、メディア論、人間心理が複雑に絡み合った「一次情報の接続と断絶の集合」であり、毎日記録することで、その一次情報の部分情報がおぼろげながら姿を現す。そのうえで傍聴に臨む。老獪な傍聴マニアや、特ダネ狙いで裁判所で声をかけまくる気持ちの強い記者にはいささか解読不可能な暗号である。
私はこれら主要な情報を記録し、大半をデータベース化している。
私の競合は、大手週刊誌ではない。あえて言うなら、企業の信用情報を網羅する「帝国データバンク」である。私は、個人の危機管理や司法のバグに関する「帝国データバンク」を、たった一人で構築しているのだ。
第2、オフィス半焼の炎が焼き尽くしたもの、残ったもの
なぜ、私はこれほどまでに「事実の累積」に固執するのか。
キャリア中期の頃の話である。かつて私は、ただのデータの収集と分析に留まらず、メディアの人間として、社会の「闇」を追及していた。徹底的にやったのだ。ある闇サイトの運営者を追い詰め、その人格を否定するような正義を振りかざしたこともある。
その結果、何が起きたか。
報復として2人の放火魔を差し向けられ、事務所は半焼した。物理的な業務基盤と、過去の資料のすべてが灰になった。
この経験は、私から「安易な正義感」や「主観的な評論」への欲望を完全に奪い去った。
他人の人生を、安全圏から「善」や「悪」で裁くことの危うさを、私は炎の熱さとして知っている。だからこそ、今の「地裁でひっそり」には、私情や懲罰感情は存在しない。
私が記述するのは、徹底した「構造」である。
弁護士がどのような戦略で「否認」という嘘、あるいは真実を構築しようとしたか。検察官の論理がどこで破綻し、あるいは機能したか。その「プロセス」を記述する。
ここで、多くの人が誤解している司法の「バグ」について、事実を提示しよう。 法廷で検察官は公訴事実を述べ、淡々と証拠を提出する。しかし、日本の刑訴法(298条等)において、検察官には、捜査機関が収集した手持ちの証拠を「すべて」裁判所に提出する義務はない。彼らは、有罪の立証に必要な証拠だけを選別して提出できる権限(裁量)を持っている。
被告人が無罪を叫び、弁護士が怒号を響かせて「手持ち証拠の開示」を求めても、検察官が「関連性がない」と述べれば、その証拠は法廷のテーブルに乗せる判断を裁判官は行わない(教科書的でいうところの、刑訴訟316条の15等における開示請求の攻防)。
そのブラックボックスの中で、同じ罪名であっても、ある者は2回の審理で終わる。ある者は20回以上の公判を強いる。またある者は「罪証隠滅の恐れ(刑訴訟60条第2項)という法解釈とマジックワードによって、判決確定前にもかかわらず5年以上もの身体拘束(勾留)を受ける。
この「法の条文」と現場での運用(解釈)の間に横たわる巨大な隙間(無法地帯)こそが、日本における権力の正体であり、私がハックすべき「バグ」である。 私は、提出されなかった証拠、語られなかった真実、そして法廷の空気が歪んだ瞬間を、司法が事件を処理し終える前に記録する。
なぜ、私はこれほどまでに、徒労とも思える「事実の累積」と「記録」にかみつくのか。 ただのジャーナリズムの真似事や義憤か? いや、違う。 ちょっと待ってほしい。私の中に、ある「方法論」があるのである。
第3、書斎とドラム缶のバッハ――私の「方法論」の起源とする
なぜ、私はこれほどまでに「累積」に固執するか。起源は、私の恩師である。文化庁芸術祭大賞を複数回受賞した台本作家、故・岡本一彦氏との大手放送局時代の日々に遡る。
彼との出会いは、私がうら若き放送局員だった頃、正面玄関のロビーでのことだ。 文化庁の助成を得て日本にある文化や音楽を紹介する番組制作の現場で、当時60代後半の大御所だった彼は、若者の私に対し、深々と頭を下げて挨拶をする。「一緒に音楽でも見に行きませんか?」 その日から、私の「修業」が始まった。
岡本さんの書斎として利用していた集合住宅の部屋のドアを開けた時の光景はなかなか印象深い。玄関のドアの隙間から、まずは30冊から60冊の本が一列に積み上がり、靴を脱ぐ隙間がない。その列が部屋の奥まで延々と、延々と続くのである。本には重力がある。直角には積みあがらず、歪曲やくねりを繰り返しながら天井を目指すその異様は、まるで本でできた「龍」が部屋を占めているようだった。作者は岡本さんである。自らが通り、地震で倒れるたびに積本の長蛇の列を創作する、彼はアーティストだった。炎天下の夏にドアの外に賞味期限から1年が過ぎた黒と褐色に光る夏ミカンジュースがおいてある。「まだ飲めます」と岡本さんは口を開けた。
夏には冷房もなく、冬には暖房もないその部屋で、彼は薄いくたくたの白いマスク一枚をダウンコートのように羽織り、「大丈夫、温かいです」と嘯きながら、朝まで原稿に向かっていた。
彼がなぜ、そこまでして「物を大切にする」ことだけではなく、「書く」ことにも執着したのか。 彼は広島の尋常小学校の子ども時代に被爆を体験した世代である。爆心地から15キロの地点で、兄と共に空爆から身を隠した巨大なドラム缶の中で、彼は西洋音楽(バッハ)を聴いていたという。いわゆる暴力の只中で、物理的な死が隣にいるなかで聴いた音楽。その体験が、戦後の彼を、舞踊や民謡の採譜、オペラの創作へと駆り立てたのだ。
私は放送局時代の5年間、文化庁芸術祭の審査員であった彼と共に芸術祭が支援する公演――クラシック、現代音楽、舞踊、演劇、伝統芸能、大衆芸能(日本古来の手品まで)――に同行した。そこで私たちが課していた「ルール」がある。 会場のスタッフ数、客席数、そして「実際の観覧人数」をカウントし、記録することだ。
岡本さんは、実際の観客数と乖離した「水増し報告」に基づき、助成金が不正に配分されている事実に疑義を持っていた。私たちは自らの足を使い、音を聞き、そして「数字」を積み上げることで、読売新聞社会面での告発記事へと繋げた。
第3、抗えない「亡霊」
なぜ、私はこれほどまでに、人から見れば徒労程度の「累積」と「記録」に固執するのか。
「まじめな人が損する社会は駄目なのです」 「頑張っている人、まじめな人に日の目を当てるのがメディアの役割です」
芦花公園駅から徒歩3分、どこにでもある和食レストラン風のファミレス『夢庵』(閉業)のいつもの席で、あるいは日本舞踊の稽古場の手狭な待合席で、私は岡本さんからこうした「体験談」を何度か聞いた。 彼は文化庁芸術祭の審査員であり、業界の「大御所」であったが、その視座は常に「平均的な日本人」の側にあった。彼が語る言葉は、彼個人の思想というよりは、戦後の焼け野原から日本を支えてきた、当時の70代の日本人が平均的に共有していた「良心」そのものであったように思う。この平均的な考えというのは、メディアの側にいる者には大切なのである。
私自身は、彼らと同じ時代を生き、同じ体験をしたわけではない。 しかし、情報を伝え、価値を示す「メディア」という業に身を置くならば、この「まじめな人が報われるべきだ」という前提の価値観には、私のうわっつらでは反対する意見もある。しかし、抗うことはしない。 それは、晩年の彼が社会や政府への批判を展開し、自らの無力を嘆きながらも最後まで手放さなかった、メディア人としての最後の砦でもあったからだ。
岡本さんが遺したこの二つの言葉は、今も私にとっての「亡霊」のように、背後から私の挙動を周到に監視し続けている。私が東京地裁で膨大なデータの海を前にするとき、この情緒的な亡霊が現れる。「その判決は、まじめな人を守っているか?」「その記録は、頑張っている人の声を拾っているか?」と。私がやっていることは、岡本さんの「継承」などというものでは一切ない。 この逃れられない「監視」に耐えうるだけの、圧倒的な事実(ファクト)を積み上げるための、私なりの防衛戦なのだ。
そのために私が選んだ武器は、岡本さんのような「情熱」ではなく、他人を脅かす程度の「数理」である。
第4、数と9.11――解析
データの扱いは、必ずしも精神論だけではない。処理するための基本的なテクがある。
学生時代、私は経済計量のゼミに所属し、抽象数学を基礎の基礎に用いて、武力紛争下における女性や子供に対する暴力のリスクに関心をもった。「事象Aと事象Bの間にある構造的な射(矢印)」を数字で記述するこの訓練は、おそらく現在の私の考えの軸となっている。
2000年初頭、ニューヨークで同時多発テロ(9.11)が起きた。その半年後現地のNYへ飛び、アラブ・アジア系寺院でのボランティアに従事する人々をみた。今だ避難生活を強いられる異国民の困難な状況をあくまでも自らの無力を現わすためだけにフィールドワークとして安い機材で記録した。私は「法」で事案を裁くよりも、「映像」や「記録」を通じて、社会につながりうる道に関心を持ち、放送局に入局した。
記事は、この「数」と「現場」そして「現場でこそ得られる新情報」が掛け合わされた、3倍返しの出力結果である。 だからこそ、私の記事には「他では読めない」出力が宿る。
第3、「仕様書」がだす価値
例えば、別添の「桜蔭学園の時効取得」に関する直近の記事を見ていただきたい。
ここで私が示しているのは、ただの勝訴のニュースではない。「昭和54年」という過去の時効が、最新のタワマン計画(総合設計制度)という現代の錬金術を、いかにして物理的・数学的に破綻させたかという「ロジックの逆襲」である。また本件企業のおける門外不出のノウハウを暴いている。社会の価値は利害である。やすやすとその辺には書けないものである。
メディアが「住民の反対運動」「女子学生の学園生活が覗かれる」といった情緒的な側面に終始する中で、私は事象の本質的な問題の発見と、解決方法に関心を持つ。本件では、登記簿の数字と、現場の擁壁の構造という「ファクト」だけで、事件の本質をハッキングする。
私がここに提供するのは、 バラバラに散らばる事実が、一つの不可逆なロジックとして接続される瞬間の構造の透視図(ブループリント)だ。どんな境遇や立場にいても本質的な学びができるように工夫してある。
これは、結果的に6年間の全件ソートという狂気の沙汰が導き出した、社会のバグを攻略するための「未公開の仕様書」である。
なぜ「未公開」なのか。 社会の価値とは、すなわち「利害」だからだ。 企業が頑なにひた隠しにする、存在などしないとする門外不出のローカルルール・法の活用、急成長企業が決して認めないプロトコル、インフルエンサーがフォロワーを信者化するいわば洗脳のノウハウ、あるいは新宿歌舞伎町の夜に蠢くスキルの核や、脱法を前提とした現代投資詐欺の核――。 これらはすべて、「隠されていること」で利益を生み出しているシステムである。
これらの「核心」は、書店に並ぶビジネス書(例外もある)や、SNSで小さく拡散され、大きく拡散されるインフルエンサーのツイート、あるいは高額セミナーのまとめなどには、書かれていない。 なぜなら、それらの媒体は、発信者が「自分にお金を払ってくれる人間」を効率よく集めるための集客装置だからだ。真に利益を生む構造とは、常に先行者利益によって守られている。発信者のうわっつらの説明とは異なり、裏に法律の仕組みがある。そのノウハウを他人に教えることは、自らの取り分(パイ)を自ら減らす行為に他ならない。
ここにあるアーカイブは、1次情報に基づいている。それらを白日の下に晒した解析ログだ。この情報が、あなたのビジネスや生活における堅牢な「盾」となるか、あるいは既存のルールを危ぶむ「データ」となるかは私には関心がない。
その価値を、自らの煩悩程度で測る余裕ができる方のみ、この先のテキストをおすすめする。
【番外編】形のない音楽を、どうやって後世に残すのか? ——
岡本さんと、インドの歴史書をつなぐ「保存」の理論 (ベースとなる本ーキャサリン・スコフィールド『後期ムガル帝国インドにおける音楽と音楽家』2023年刊)
はじめに
一瞬で蒸発してしまう『その場の空気』を、文字という『物質』に変えて、永遠に保存する歴史について
「舞台は、約200年前のインド・ムガル帝国。 当時、そこには『1857年のインド大反乱』という凄まじい暴力の嵐が吹き荒れ、国は崩壊寸前だった。
本書によると、当時の音楽家たちにとって、最大の危機は『死』そのものだった。 なぜなら、音楽は楽譜ではなく、師匠から弟子への『口伝え』だけで受け継がれていたからだ。戦争で恩師が死ねば、その音楽はこの世から永遠に消える。
『形のない音楽を、どうやって守ればいいのか?』 本書は、そんな絶望の中で、音楽家たちが消えゆく音を、必死に文字(本)という形あるものに書き残し、(結果的には)未来へ救い出そうとした、汗と涙の記録に当たる。
本書の第一部の核をチャート一枚で示す。
※adobe animation softwareで作成
歴史の背景ー戦争が「口移し」のリレーを断ち切った 岡本さんが体験した「東京大空襲」。 そして、この本のインドの音楽家たちが巻き込まれた「大反乱」。 時代も場所も違うが、起きた悲劇は同じだ。戦争によって、師匠から弟子への『口移し』のリレーが途絶えたということ。
本書によれば、それまで、音楽は「人から人へ」直接教わるものだった。しかし、戦争で師匠が死ねば、その音楽は永遠に消える。 「このままでは伝統が全滅する」。そう焦った人々は、空気中に消えてしまう「音」を、なんとかして文字(楽譜)に書き残そうと必死になった記録である。
3. はるか昔も二つのアプローチがあったー「ルール」をとるか、「魂」をとるか
さて、危機を乗り越えて音楽を復活させようとした時、人々のやり方は真っ二つに分かれた(下のチャートを見てください)。
形だけの「標本」か、血の通った「生物」か。
●タイプAー改革者(マニュアル信仰) 「古い習慣は捨てろ!」と、すべてを教科書(ルール)に書き換えた人たち。 彼らは「形」を整えることには成功した。だが、そこから現場の熱量を排除してしまったため、残ったのは「美しいが、死んでいる音楽(標本)」だけだった。
□タイプBー継承者(現場信仰) 「教科書も大事だが、現場の熱(ライブ感)こそが本質だ」と見抜いていた人たち。 彼らは、便利な楽譜を利用しつつも、あくまで人間臭さを最優先した。その結果、血の通った「生きたままの音楽(生物)」を未来へ運ぶことに成功した。
結論ー岡本さんは、どこにたどり着こうとしたのか?
——スコフィールドの研究が教えてくれる後付けの「正解」
まず、なぜ私がここでインドの歴史書(スコフィールドの研究)を持ち出したのか。この本が「伝統を残すための『成功の方程式』」をはっきりと定義しているからだ。この本のおかげで、彼の仕事が「趣味の収集」ではなく、歴史的に見ても奇跡的な成功例(最適な解)であったことを証明しうる。
では、その「成功」とは何か。図の頂上(一番いい場所)を見てほしい。
1. スタート地点は「マニュアル作り」 岡本さんの仕事は、最初は「文字と楽譜」を書くことから始める。これは失敗したタイプA(頭でっかちな改革をする者)と同じ、ゼロからのスタート。机の上でペンを動かすだけの作業である。
2. 岡本さんは「裏切る」 しかし、そこで止まらなかった。 彼は、綺麗に書かれた楽譜(マニュアル)を持ち、泥だらけの農村、誰にも目に留まらない日常、人が集まる劇場へ飛び出した。 そこで、高齢者のしわがれた声、その場の熱気を肌で感じる。その結果、紙に書けない部分(魂)を再発見する。
3. たどり着いた、いわゆる「奇跡」 つまり岡本さんは、 文字(理論)からスタートしたのに、いつの間にか現場(実践)のど真ん中に戻っていた。
「楽譜という無骨な『記録』を持ちながら、現場の『熱い魂』も理解している」 これこそが、タイプB(継承者)しか持っていない「最強の立場」となる。 外部の人間でありながら、内部の人間と同じ熱量を持つ。この「冷静と情熱の間」こそが、岡本さんがたどり着いた到達点「身体性」となる。
そのふわっとした言葉、「身体性」とは、熱力学でいうところの「第一原理」である
このチャートが示しているのは、ただの歴史の話ではない。もっと生活にも身近な、熱(エネルギー)の話だ。
少し物理の基本の視点で考えてみてみる。この世界で唯一、私たちが肌で直接理解できる物理法則が熱力学。熱い熱いやめてくれ、冷たい冷たいやめてくれ、重い重い助けてくれと、それがリアリティだ。 音楽も同じ。
まず、書き残された「理論・楽譜」ーこれはあくまで「火の起こし方」を書いた説明書となる。情報は正確だが、それ自体は「ただそこにある」ものだ。
つぎに、語り継がれた「実践・身体」ーこれは実際に目の前で燃え盛る「炎」そのもだ。不確かだが、目の前に「熱」そのものがある。
この図は、危機に瀕した文化が、説明書(ただのデータ)と実際の炎(熱い身体)の間で引き裂かれる様子ー「エネルギーの地図」となる。
熱力学(第一原理)による「再点火」の定義
現代の私たちも同じだ。スマホの中にある膨大な文字は、すべて過去の『燃えカス』に過ぎない。 勝負は、そこからどうやって元の『熱(第一原理)』を逆算し、もう一度火をつけることができるか。これは、情報という冷たい『灰』の中から、生命という『炎』を取り戻すための、物理の設計図である。
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「地裁でひっそり」は、いまという時代を司法のデータを通して解釈しうる立場にあります。司法の情報を扱うにあたって、問題の本質的な発見と解決に私は関心を持っています。


かなり興味深く読ませて頂きました。