『星獣戦隊ギンガマン』第三十九章『心のマッサージ』
◾️第三十九章『心のマッサージ』
(脚本:きだつよし 演出:辻野正人)
導入:昭和が悪いわけじゃないがそれだけでは物足りない
「そっか、ヒュウガはアースを捨てちゃったんだね」
勇太少年のこのセリフから始まる今回のエピソード、脚本は『仮面ライダー響鬼』(前半)や『ウィザード』で知られるきだつよしで、特撮ファンなら「あっ」と察するかもしれない。
彼の脚本にある独特の“昭和ヒーローへの屈折した愛”が、良くも悪くも本作に色濃く出ている。
サヤの行動原理はまさに「惚れた男のために頑張る私」で、それは『アタックNo.1』『エースをねらえ!』の文脈を引きずる古典的ヒロイン像そのもので、痛みを抱えつつ健気に耐え男のために戦う。
無論それが悪いとはのだが、それだけで一本話を引っ張るにはあまりにも時代錯誤だし、本作が積み重ねてきたものとの親和性がない。
しかもそのモチーフとして使われたのが、「ウルトラマン」のフジ・アキコ隊員巨大化ネタだと思われる露骨なオマージュ・パロディである。
髙寺成紀プロデューサーの趣味が炸裂しているのは微笑ましいが、話の構成上では唐突感しかないし、やるにしてもどうにも「なぜ今これをやる?」という疑問は残ってしまう。
とはいえ、評価できるポイントも無きにしも非ずなので、以下の2つでまとめよう。
バルバエキスの恐ろしさを高解像度で描写せよ
ギンガマンの男性陣はたとえ太っても戦える
さて、サクッと済ませてもう少しネタを膨らませようか。
バルバエキスの恐ろしさを高解像度で描写せよ
今回、見ていて発見があったと思ったのは「バルバエキス」の設定活用であり、このシリーズを通してたびたび登場してきた「魔人の巨大化手段」だったが、今回は“人間に使用する”という禁忌に踏み込んだ。
バルバエキスは魔人にとっても命を削る最終手段
通常なら使用=死、そこへ抑制剤を併用してギリギリ人間でも使えるように
巨大化の理由が「ダイタニクスの心臓マッサージ」
設定としてはぶっ飛んでいるわけだが、この“無理筋を理屈で押し通す”構成力には「なるほど」と思わず唸ってしまった。
とはいえこれはきだつよしの功績ではなく小林靖子の功績によるものが大きいのではないだろうか、少なくともきだ脚本にこんな才能はない。
バルバンの作戦は、前回が小人で今回は巨大化と方向性が真逆だが、根底にあるのはあくまで「人間を手段として使い潰す」冷酷さだ。
ここにブドーやイリエスたちの「武人の誇り」とは違う、バットバス部隊の“人命軽視の残虐性”が際立ってくる。
さらに興味深いのは、これが後の「成長エキス」への布石になっている点であり、ギンガマンは「使い回し」を嫌がらず設定を“進化”させて繰り返し使う戦隊だ。
このあたりの“反復と応用”は、正直近年の戦隊シリーズにはあまり見られない美点だと思う。
ギンガマンの男性陣はたとえ太っても戦える
今回、影の主役だったのはヒロイン・サヤではなく、リョウマたち4人の男たちとヒュウガだ。
ヒュウガは“アースを捨てる”という選択をし、新武器ナイトアックスの特訓に励むこととなる。
一方で他のメンバーであるリョウマ・ハヤテ・ゴウキ・ヒカルはバルバエキスの副作用で身体が膨張した状態でも、果敢にバルバンと渡り合っていた。
これがまた普通にアクションがキレていて、「太っててもギンガマンは戦える」というメッセージが爽快に届いてくる。
ギャグとしても笑えるが、それ以上に「意志の力で戦う」戦隊らしい泥臭さがとても面白い。
ここでポイントなのは、他メンバーを戦闘不能にして1人を目立たせる構図がすでに3回目だということだ。
今回はその全員がそれぞれに奮闘していて、特に印象深いのはリョウマたちの戦いぶりである。
一方でサヤはどうか?というと、どうしても以下の3つの点で物足りない。
獣撃棒で抑制剤を打ち込むアイデアは悪くない
最終的にはサヤが事件を収束させる
けれど、感情の流れも成長も、初期のままで停滞している
つまり、「心のマッサージ」というテーマに合わせて、サヤを無理やり物語の軸に置こうとして、結果的に話全体が歪んでしまっている。
他のメンバーの心理的成長や、ヒュウガの変化がきちんと積み上がっているのに対し、サヤだけが足踏みしているように見えるのは、やはりキャラクター造形の問題だ。
総括:アイデアはあるが根本の軸がズレている
「心のマッサージ」というタイトルに込めたメッセージは見える。
でもそれがサヤの感情曲線と噛み合っていないし、“ヒュウガ不在”という状況に対する掘り下げも中途半端。
バルバン側の作戦とバルバエキスの転用、そしてリョウマたちの奮闘が印象を食ってしまい、サヤの描写が霞んでしまった。
言い方は悪いが、「ヒロイン回に見せかけた、男たちの見せ場回」だったとも言える。
昭和オマージュは悪くない。だが、それをメインに据えるなら現代にアップデートする工夫が必要だった。
総合評価はD(凡作)100点満点中50点。
番外コラム:バルバン四軍団の「格差」論争にモノ申す──見えてないヤツに「強さの格差」は語れない──
最近、特撮系まとめサイト「ヒーローnews」に、またしてもバルバン四軍団の“格差”についてのスレッドが立っていた。
……はっきり言おう。「またかよ」、である。
特撮界隈に長くいるとこうした話題には慣れてくるが、それでもやはり辟易とする。
“見えていない者ほど語りたがる”、これはこのジャンルの慢性的な病だであり、「誰が強い/弱い」といった話になると、表面的な描写ばかりを拾って、肝心の“文脈”を読み取らない意見が跋扈する。
まさに黒羽翔が言っていたように、「切った張った」だけで騒ぐ、しょうもない枝葉末節にしか目がいかない愚鈍な連中が、声を大にして語っているだけだ。
当たり前だが、大半の人間は多くの特撮作品やアニメ・ドラマを見ていないし、見る義務もないし、見ていなければ語ってはいけない法律も無い。
オタク達は自分達の数多くの知識を披露するのだが、大半の人間はそんなこと知る義務も無いし、興味も無いが、何故か特撮オタクは自分達の知識を披露して、自己主張するのを止めない。
(中略)
繰り返しになるが、「特撮の話題は互いに信頼関係が無ければ話せない」
それは、特撮オタクはあまりに愚かな人が多く、自分の持っている知識を披露したり、他人の知識の間違いを指摘することに妄執しているような連中ばかりだからだ。
勿論、岡田斗司夫先生のような突き抜けたオタキングと呼べる本当に博学な人なら別だが、基本的に特撮オタクとは筆者は口も聞きたくない。
読解力なき“分析”はただのノイズに過ぎない、今回見かけたコメントをいくつか挙げてみよう。
「サンバッシュを倒した技が怒涛武者に通用しなかった」
「サンバッシュ以外が行動隊長だったらギンガマンは詰んでた」
「キバと銀星獣が無ければ勝てなかった」
一体どこをどう見て、なぜこんな意見が出てくるのか、皆目見当がつかず理解に苦しむ。
そもそも前提からして間違っている。
サンバッシュを倒したのはギンガレッドの二刀一閃であり、怒涛武者に通じなかったのはギンガ獣撃弾。
技も性質も戦況も異なるのに、なぜこれを混同するのか理解に苦しむ。
ここまでくると、もう「批評」ではなく、ただの“誤認ごっこ”に過ぎない。
作品をまともに「視て」すらいないのに、勝手な思い込みを事実のように語り、それを以って「語れる」と勘違いしている。
それはもう議論ですらない。
さらに見かけたのが、例の“パワー階層”の図式、すなわち「サンバッシュ<ブドー< ギンガの光の壁<イリエス<バットバス」というものだ。
言っておくが、これ、たまたま登場順がそうだっただけで、「どこをどう見たらそう読める?」とツッコミたくなる。
『星獣戦隊ギンガマン』という作品は、そもそも単なる戦闘力のインフレではなく、「戦いの質」「意志の強度」「環境」「精神性」──つまり“脳のOS”そのものを戦力と見なす構成だ。
敵の“強さ”は単に「技が通じる/通じない」で測れるものではなく、それを「光が通じない=強い」「通じる=弱い」といった浅はかな解釈で片付けるのは、あまりにも作劇の理解が足りない。
スカウターの数字だけを信じてボコられたラディッツ未満の読解力だ。
ベジータ王子を見習えこの雑魚共!
批評とは「行間を読み取り、共有する」営みであり、ここであらためて強調したい。
決して知識自慢の場ではなく、マウンティングの道具でもない。
本当に作品を観てその内側にある構造を解きほぐし、血の通った言葉で語ることが“批評”である。
少なくとも、まともな国語力があれば今回のような論点の捏造・曲解・歪曲は起きないはずだ。
それでも、「ギンガマンを本当に見たのか?」「その構造が見えているのか?」と疑いたくなるようなコメントが多すぎる。
それが「まっとうな批評」として拡散され、作品そのものの価値を歪める結果になりかねないことが、何よりの問題なのだ。
私のレビューを読んでくれている方々には、こうした浅薄な議論に加担するような人はいないと信じている。
だが、念のために言っておきたい。
このコラムを“反面教師”としてほしい、「見たつもり」「読解した気」にならないこと。
「誰が強い」「何が最強」だけで作品を切り取らないこと、作品とはもっと豊かで、複層的で、見る者の眼力と感性を試すものだ。
その深みに踏み込むことこそが、孤独で真摯な批評体験の本質なのだから。
「特撮を語る」とは、刀を抜く覚悟が要る行為であり、軽々しく振り回すな。握ったなら、研ぎ澄ませ。



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