『怪獣』と時代、誠実──音楽"批評"を勘違いしないでね
音楽系YouTuber・みのミュージックとサカナクションのボーカル、山口一郎さんのあいだで交わされた「音楽批評」をめぐる議論をきっかけに、私は久しぶりに批評という言葉について考えることになった。
(細けえ概要は、てけしゅん音楽情報が語ってるだろう)
はい。議論は誠実だった。音楽に対する敬意があり、相手を不用意に傷つけない配慮もあった。
だが、その誠実さがそのまま「良い批評」「よくぞやってくれた!」として賞賛されている光景に、私は小さな引っかかりを覚えた。
なぜなら、そこで語られていたのは主に音楽の内部構造──コード、展開、ジャンル史的な位置づけ──であり、作品がどのように社会と接続してしまったのかという問いは、ほとんど扱われていなかったからだ。
それは批評ではなく、音楽解説。つまり音楽レビューと同義ではないか!?
みのミュージック氏のサカナクション動画はあくまで音楽解説であって、いわゆる他ジャンルの才能ある書き手が連綿と行ってきた「作品批評」ではないと思うけど、世間ではこれが“質の高い音楽の批評”のマスターピースとして認識されてしまった。
— わいがちゃんよねや🫨 (@TYonemura) January 27, 2026
この違和感は、単なる好みの問題ではない、と信じる。
それは「批評」という言葉の射程が、いつのまにか歪められていることへの違和感だった。
批評とはなにか──感想・解説・誠実さの外側で
批評とは何か。
この問いに対して、決定的な定義を与えることは難しいが、少なくとも「感想」や「丁寧な解説」とは異なる営みである。とかよちゃんは考えている。
今までnoteに書いてきた音楽に関するかよちゃんのnoteは、感想だ。ただ私が思った初期衝動を連連と書き連ねる日記だ。
頭の良い話をしよう。
フランスの構造主義・ポスト構造主義の哲学者・文学理論家であるローラン・バルトさんは、「作者の死」において次のように述べている。
テクストの統一は、その起源ではなく、その行き先にある
ここでバルトが言っているのは、作品の意味は作者の意図によって一義的に決まるものではなく、読まれ、流通し、誤読される過程そのものの中で生成される、ということだ。
音楽も同じだ。
楽曲はリリースされた瞬間から、作者の手を離れ、社会の中で別の働きを始める。
批評とは、その「社会の中での働き方」を読む行為だと考えている。批評には、社会的・時代的・文化的接続が必要である。
哲学者の東浩紀さんも、批評を価値判断ではなく「配置」の作業として捉えてきた。
批評とは「良い/悪い」を決めることではなく、作品がどの文脈に置かれ、何と接続しているのかを示す営みだと述べている。たしか、著書『動物化するポストモダン』で語られている。
批評は必然的に社会的であり、時代的であり、文化的である。個人の好悪や感動の内側だけで完結することはない。
好き・嫌い、良い・悪い、という話ではないってことは前提として理解してほしい。盲信したファンも信じてほしい。悪い話をしたいわけじゃないし、傷つけたくて、攻撃したくて書いてるわけじゃない。
歴史に残ると思ったから、「記しておきたい」と思っただけなんだよ。
誠実さと批評が混同される時代
ではなぜ、いま音楽理論レビューが「誠実な批評!」だと称賛され、本来の批評と混同されやすくなっているのか。
年末のM1グランプリでも話題になったよね。「冷笑」と「誠実」。
その背景には、SNS以降の言説環境の変化がある。
作品と制作者、作品とファンの距離は、かつてないほど近づいた。批評的な言葉は、容易に人格批判や攻撃と誤認される。
その結果、「誰も傷つけない」「炎上しない」「丁寧である」語りが、強く評価されるようになった。
音楽理論や構造分析に基づく語りは、この環境と非常に相性がいい。
それは音楽の内部に留まり、社会的意味へ踏み出さないからだ。
しかし、ここで強調しておきたいのは、それが悪いという話ではないという点だ。問題は、それが「批評」と呼ばれてしまうことにある。
何度でも言うよ。みのミュージックさんがやっているのことは、音楽批評ではなく、音楽解説だと。
解説は内部を見る。
批評は外部へ接続する。
両者は異なる役割を持っている。その区別が曖昧になったとき、批評という言葉は誤読され無害化され、ただの「感じのいい説明」になってしまう。勘弁してくれ。
『怪獣』はなぜ、これほど自然に受け入れられたのか
ここまで「音楽解説」と「音楽批評」についてを長々と話した。話しすぎたのかもしれない。何を言ってるのか意味がわからない人も多いだろう。
だから、かよちゃんが『怪獣』を音楽批評してみる。
恥ずかしい。非常に恥ずかしい。こんなの名だたる哲学者や批評家の真似事だ。拙い自分を浮き彫りにするようで嫌気が差す。
でも、しょうがない。
誰もやらないし、音楽と批評は相性が悪い。以前にも言ったが、好き勝手に書くと音楽業界の大人から嫌われて仕事がなくなる。本当にしょうがない。でも誰もやらないのが悪い。その葛藤が見たいなら過去のnoteでも見ていてください。
そもそも楽曲レビューなんて、社会を経験した大人は書きたがらないだろう。本人に届いて嫌われるかもしれない。もしかしたらレーベルや事務所から出禁になるかもしれない。そんなリスクを犯して大人が自由に楽曲についての思いを垂れ流すのは現代において悪手である。
本題に入ろう。
サカナクションの『怪獣』は、確かに売れた。多くの人に聴かれ、支持された。リリース初日から3日間連続でSpotify Japanデイリーチャートで50万を超える再生数となった。
批評的に問うべきなのは、なぜこの曲が、いま、今の日本のどういう空気から生まれ、どのような社会だからこそ受け入れらたのかという点だ。
多くの人に聞かれたということは、多くの人の心に響いたということ。その事実は、なにかしらの世相を表してると考えるのが自然である。
『怪獣』は、アニメ『チ。 ―地球の運動について―』のタイアップソングである。
本作は、知と信念、世界の構造をめぐる物語。その文脈に置かれたとき、『怪獣』は単なる個人的感情の歌では終わらない。
『チ。 ―地球の運動について―』は、魚豊による日本の漫画作品(全8巻)。15世紀のヨーロッパを舞台に、教会が「天動説」を真理とする中で、禁じられた「地動説」を命がけで証明しようとする者たちの信念と「血」と「知」の物語である。
歌詞の中で繰り返される「怪獣」という言葉は、具体的な対象を持たない。
それは敵でもあり、自分自身でもあり、社会そのものでもある。
この「指示対象の曖昧さ」は、現代的な感覚と強く響き合っている。
常時接続社会の孤独と、名前を持たない不安
私たちは、常に誰かとつながっている。X、Instagram、LINE。
だがその接続は、しばしば浅く、断片的で、代替可能だ。
社会学者ジグムント・バウマンは、現代社会を「液状化した社会」と呼び、人間関係が固定されず、流動化している状態を指摘した。
また、宮台真司さんはロードサイド文化論の中で、均質化された風景が「どこにも属していない感覚」を生み出すと述べている。
地方に住んでる皆さま。安心してくれ。国道沿い、ロードサイドの風景は、どの田舎に行ってもほとんど変わらない。
音楽理論的な動画から引用すれば、「サカナクションのビートののっぺり感」は、我々の社会に『高揚すべき中心』が失われ、ただ終わりのない日常がロードサイドのように続く絶望を、ダンスミュージックという形式でシミュレーションしているからなのではないか?
『怪獣』の中で描かれる不安は、現代社会における明確な加害者や原因を持たない不安や曖昧さを体現しているからこそ多くの人が共鳴してしまったとも考えられる。だからこそ、「怪獣」という比喩に回収することもできる。
怪獣は、外から来る脅威ではない。
気づいたら、もうそこにいるものだ。
この感覚が、『怪獣』が「自分の歌」になってしまったのではないだろうか。
ポップソングは、音楽というものは、聞き手に共感する部分がないとヒットソングにはならない。今、上京して東京や大阪で働く都会人にも地元の幻影風景はある。
そんなサウンドが多くの人に共鳴してしまった。
そして、SNSで過剰に接続された現代の疲労までもをうつしだしてしまった。
それこそが、今私たちが抱えてる怪獣なのだと思ってしまうのだ。だからこそ聞いてしまうのだ。
批評は、嫌われる可能性を引き受ける
こうした読みは、必ずしも歓迎されない。
批評は、ファンが大切にしている安心できる解釈を、一度不安定にしてしまうからだ。
だが、批評とは本来、そうした危うさを引き受ける営みである。
傷つけないことが正しいとは限らない。
しかし、傷つけること自体が批評でもない。
批評は善悪を裁かない。
ただ、俯瞰し、位置づけ、時代との接続を示す。
ファンダムが巨大化した時代において、批評が成立しにくくなっていることは事実だ。それでもなお、作品と社会の関係を言語化する営みを手放すべきではないと思う。
それでも批評を書く理由
この文章は、誰かを否定するために書かれているわけではない。
ただ、音楽をめぐる言葉が、あまりにも安全な場所に集まりすぎているように感じた、その違和感からタイピングをしているだけである。
『怪獣』が時代に共鳴したこと。
その現象を、感想ではなく、構造として捉え直す。
それが私にとっての音楽批評であり、いまnoteに書こうと思った理由だ。
批評は答えを出さない。
ただ、時代の輪郭をなぞる。
正しい/正しくない、という問いの答えは100年後に出るだろう。歴史に参照される楽曲であるならば。『怪獣』という楽曲は、参照される楽曲だと思う。だからこそ、noteに書いている。
このnoteを見て、嬉しい/悲しい/不安/嫌悪、様々な感情を抱く人がいるだろう。もしくは、疑問を昇華させて新しい楽曲の価値や社会的な視座をひらめくこともある。
答えはすぐに出ない。GoogleやAIに聞けば、すぐに正解が投げ返される時代には非常に辛い事象だろう。
ごめんね。批評って、ファンにとって必ずしも気持ちの良いものじゃないんだ。嬉しいものじゃない。しっかり語ってくれて嬉しいとか、ファンが喜ぶとか、そういうものじゃないの。
でも、1000年後の未来に残る音楽を作るためには必要だと思うんだ。
その不確かさごと、引き受けながら。夜が明けていく。



非常に誠実に批評について語られていると感じます。 言われなくても、と言われるかもしれませんが、ぜひ続けてください。応援しています。
音楽批評自体のお話については同意です。あれはただマイナスな評価を少し入れただけの質のいい音楽解説であって、批評というには視点がないと思います。 後半の「怪獣」批評に関しては「怪獣」というワードに最初から「外在する驚異」という意味を付与し、様々な社会問題と接続させた上で、最後にそれ…
批評というのは主張や結論に論拠を付すことです。 古代ギリシャの時代から特に政治的言論において重要とされてきた歴史があり、批評とは政治や社会と結びつけなければいけないと多くの人は考えているのかもしれません。しかしあんなに丁寧に論拠づけされたものに対してこんなに攻撃的な文章を書く必要…