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音楽批評の再考と感謝──100年後にぼくたちはいかに参照されるか

みのさん、お返事をありがとうございました。

ただの一般人である私のnoteから、これほどまでに真摯で論理的なお返事をいただけたことに、心からの敬意を伝えさせてください。

みのさんが提示された「内在的批評」と「外在的批評」という整理、そしてノエル・キャロルさんの美学を引用した「説明責任を伴った価値づけ」というスタンス。

言葉の端々から覚悟と誠意が伝わるとともに、なるほどと膝を打つ箇所がありました。音楽に関するその知識量、私は逆立ちしても敵いません。

「内在的批評」は、本当に「解説」ではないのか

ただ、みのさんが「流派」として定義された「内在的批評」について、私はもう一度だけ、不躾な問いを投げ返してみたいのです。

みのさんは、内部構造を論じ価値づけを行うのが「内在的批評」であると言いました。しかし、それはやはり、かよちゃんには「究極の音楽理論解説」に見えてしまうのです。

みのさんの内在的批評は、たしかに「正解」に近い。

「この16分音符の配置は、歴史的背景があり、こうした音楽的達成をしている。ゆえに価値がある」。これは、音楽というクローズドなルールの中での完璧な「採点」です。スポーツの解説者が選手のフォームを分析して「理にかなっているから素晴らしい!」あるいは「足りない」「発展途上」と言うのと似ています。

しかし、私が思う「批評」は、もっと残酷で不確かなものです。

批評とは、「なぜこの音が、この時代に鳴らされてしまったのか」という必然性を、作者の意図すら超えて、社会に接続してしまうことではないでしょうか。その点"も"必要なのではないでしょうか。

内在的批評は不要、という話ではありません。

みのさんの「内在的解説」が精緻な言説だったからこそ、音楽の外側にある「ロードサイドの絶望」や「SNSの孤独」という拙いながらの批評を私は生み出すことができました。

みのさんの「内在的批評」がこれほどまでに支持されるのは、それが「アーティストへのリスペクト(誠実さ)」を担保したまま、知的な付加価値を与えるという、コマーシャル言説の「最高級の進化形」だからと思います。

でも、それは「ジャーナリズム」ではなく、高度に洗練された「広報」の域を出ていないのではないかとも感じてしまうのです。

対立をしたくて書いているのではありません。みのさんが定義づけた二つの流派は、対立するものではありません。

みのさんの緻密な「点」を、私が勝手に引き延ばした「線」として補完関係として成立すると思っています。

音楽を批評するのに十分な知識や技量が私にはまだまだ足りません(前回のnoteが生まれてはじめての試みでした)。たくさん学びたいです。それと同時に足りないなら、補い合えばいいとも思いました。

いつかまた、意見交換できたら嬉しいです。

閑話休題:なぜ音楽批評は「議論」を呼ぶのか

さて、私たちの文通のような意見交換の外で、様々な意見をいただきました。私の言葉が拙く、足りなかった部分がたくさんあったと猛省しました。

このnoteの続きは、もう少し踏み込んだ話をさせてください。

なぜ音楽批評がこんなにも議論になるのか。なぜ私が批評について考えてしまったのか。ひいては、なぜ名だたる批評家やライターたちがこの議論に積極的に参加しないのかという話です。

音楽批評と文芸批評の「歴史的乖離」

ここ数日間、日本における「批評」という言葉が背負ってきた重みについて改めて考えていました。

日本のポップミュージックを巡る言説(コマーシャル的言説)と、小林秀雄さん以降の文芸や美術や映画などの領域で行われてきた「論壇的批評」は、歴史的にも文化的にも完全に乖離したまま今日に至っています。

小林秀雄さんが『モオツァルト』で示したのは、楽譜の解説ではありませんでした。

僕にとって、モオツァルトは、常に、ある一種の、固定した、動かしがたい、一つの形としてあらわれる。

小林秀雄『モオツァルト』より引用

彼は音楽という対象を借りて、自分自身の魂や、失われた母、あるいは抗いようのない運命といった「外部」と格闘しました。

それは、柄谷行人さんが『内省と遡行』で論じたような営みと近しいとも思いました。

ある程度充分な内省をもってすれば、意味が指示対象や心像でありえないことは明白である。とすれば、何か同一的な意味(概念)が 在る のでなければならないはずだ。

柄谷行人『内省と遡行』より引用

閉じられたシステムの中で自己を確認する「内省」ではなく、そのシステム自体が成立してしまっている根拠を外部から問い直す「遡行」の重要性を説きました。自分自身の言葉として理解するのに非常に時間がかかりました。

音楽に当てはめるなら、楽理という「閉じられたシステム」の中で正解を探すのは「内省」です。

対して、なぜそのシステムが今この社会で機能しているのかを、システムの外側に立って問い直すこと。それこそが、柄谷さんの言う「遡行」的な実践、すなわち批評の本質ではないでしょうか。

一方、日本の音楽言説は、その多くがレコード産業の伸長と共に「ガイド」や「紹介」として発展したという歴史があります。

吉本隆明さんは著書『マス・イメージ論』において、資本主義社会における「イメージの等価交換」を分析しました。

音楽において言えば、それは「音」そのものよりも、パッケージされた「イメージ」や「消費される記号」としての側面が意味付けるということだと思います。

作品が社会的な実体から切り離され、単なる「消費されるイメージ」の輪の中に閉じ込められた状態こそ、コマーシャル的言説の本質であると思います。

批評が「作品を社会と接続させて価値を配置する」作業であるならば、音楽言説はその多くが「作品を愛でるためのマニュアル」に終始してきたんだと思います。

……やや難しい話になっている気がしますが、この乖離こそが、山口一郎さんの嘆く「ジャーナリズムの死」の正体ではないか。と、山口一郎さんの配信を聞いた時に感じた率直な感想です。

そのような感想を持ってしまったからこそ、私は音楽理論やテクニックの内部に意図的に留まった解説を"批評"と呼ぶのは、足りないと思いました。さらに言えば、“批評”という言葉の持つ豊穣さが極端に単純化された認識を多くの人に与えてしまうと考えました。

みのさんの動画は、多くの人から称賛されていました。「これぞ音楽批評! 」と太鼓判を押されています。

けれど、それは歴史的に考えると批評を構成する要素のいち部分でしかなく、もっと外向きな批評もあることを少しでも多くの人に知ってほしいと思ってnoteを書き始めたのが発端です。

ボカロ以降の「情報過多」と、加速する「推し活」の今こそ

ここからは、2026年の今、なぜ「解説」が求められるのかという問いについて考えていきたいと思います。

ボーカロイド文化が大衆化して以降、日本のポップミュージックは、明確にその様相を変えました。

BPMは高速化し、展開は細分化され、旋律・リズム・言葉は過剰なまでに詰め込まれる。数秒ごとに変化する楽曲構造は、もはや「一つの物語を聴く」というより、連続する刺激を処理する行為に近いと思います。「ライラック」をその最たる例に挙げることに違和感はないと思います。

インターネット、SNS、動画プラットフォームといった環境そのものが、人間の注意資源を断片化させ、音楽もまたそのリズムに適応した結果だと考えています。

重要なのは、こうした複雑化や高速化が、もはやボカロ文化の内部に留まらず、メインストリームへと浸透している点です。

米津玄師やMrs. GREEN APPLEといったアーティストの楽曲が、大規模なヒットを記録しながらも高度な構造を持ち続けている事実。「複雑な音楽は一部のマニアのもの」という時代は、すでに終わりました。

この環境の中で、リスナーの音楽との関わり方も変化していきました。

楽曲は単体で完結した作品というより、アーティストの世界観や物語を補完する「情報の一部」として受け取られるようになる。いわゆる「推し活」と呼ばれる態度は、信仰や宗教というより、むしろ情報過多の時代における自然な適応形態に近いなと私は感じました。

推しを理解するために、楽曲を読み解き、正解を探し、文脈を共有する。

ここで行われているのは批評というより、「解釈の同期化」「作者の意図を読み当てる考察」であり、ひいては「安心の共有」です。価値は問い直されるものではなく、安心するために確認されるものとして機能しています。

この状況において、楽曲の内部構造を精密に解説し、その音楽的正当性を示す内在的批評は、極めて高い実用性を持つ。それはファンにとって、自らの感動が「間違っていない」ことを保証してくれる言説だと思います。

みのさんの音楽批評動画が多くの支持を集めるのは、そんな社会的な背景もあると考えました。

音楽理論を用いながら、作品とアーティストへの敬意を損なわず、安心して共有可能な言葉へと翻訳する。その営みは、この時代において非常に誠実で、必要とされています。それが厳しい意見であっても必要とされています。

しかし同時に、ここで語られているのは、あくまで音楽の「内側」の話にとどまっているのです。

楽曲がどれほど高度で、どれほど精緻に設計されているか。その価値が音楽的にどれほど「正しい」か。そこまでは語られている。しかし、その音楽がなぜ今、この社会で鳴ってしまったのかという問いは、依然として宙に浮いたままなのです。

そんな令和の今にこそ「外在的批評」が必要なのではないか あるいは未来について

かつての日本には、「お茶の間的なアーティスト」が存在していました。

かよちゃんは平成一桁ガチババアです。夕食を食べるリビングでは、浜崎あゆみ、安室奈美恵、モーニング娘。が流れていました。

世代や属性を越えて、誰もが同じ歌を知り、同じメロディを共有していた時代です。その時代において、音楽はすでに社会の中心に配置されており、批評はある種不要だったと思います。かよちゃんはリアルタイムではないですが、昭和も同様だったでしょう。

しかし、2026年の音楽環境はまったく異なるものとなりました。

お茶の間は解体され、価値は分散し、ヒット曲は世代/コミュニティ/アルゴリズムのレコメンドごとに分断されている。しかも、その中心にあるのは極端に複雑化した楽曲群です。難解な音楽が、チャートの上位を占め、日常的に消費されています(かよちゃんはギターとピアノを少しだけ弾けますが、現在のヒットチャートを賑わす楽曲は難しすぎて逆立ちしても弾けません)。

なぜ、これほどまでに複雑な音楽が求められているのか。なぜ、私たちは過剰な情報密度の中に身を置き続けているのか。

その問いに答えない限り、音楽はただ「すごいもの」「気持ちいいもの」として消費され、やがて忘れられていく。

ここで必要になるのが、“批評”だとかよちゃんは思うのです。

前回のnoteでもお話したとおり、批評とは、単に良し悪しを決める行為ではありません。音楽を、社会・歴史・身体・感情といった外部の文脈へと接続し、「この時代に、こういう音楽が鳴っていた」という輪郭を与える営みが批評には必要だと思います(念のため言っておきますが、そこには音楽理論解説も必要条件です)。

作品の価値を提示し、意味を配置し、問いを残す。その積み重ねがなければ、2026年以降の音楽は、大きな歴史の中で膨大なデータの集積としてしか記録されないのではないかという小さな不安もあります。

100年後、誰かが2026年の音楽性を定義しようとするとき、必要になるのは再生数でもチャート順位だけではないでしょう。

「なぜ、あの時代に、あの音が必要だったのか」を語る言葉が必要です。

批評とは、私たちの未来のために書かれるものだと思います。今を生きる私たちが、混沌の中で鳴り響いていた音楽に、意味と座標を与えるために価値を記す行為です。

内在的批評が音楽の「完成度」を語るのであれば、外在的批評は音楽の「必然性」を語る。

両者が揃って初めて、音楽は単なる消費物ではなく、「時代の証言」として立ち上がるはずです。

音楽を語ろうとしない“批評”側にも課題や問題はある

前章では、2026年の今だからこそ音楽批評が必要だというお話をしました。

逆に言えば、これまで音楽批評というものはあまり必要とされなかったのかもしれません。そんなことを考えたので、まとめていきたいと思います。そこには構造的な問題があるのだと思います。

令和に至るまで音楽メディアは、ニュースとインタビューを主軸としています。レコード会社から広告費をいただいて情報を発信するという広告モデルが、批評モデルを縮小させたとも捉えられます。

音楽業界が欲しいのは「ガイド」や「紹介」であり、宣伝言説が主流となり、外部から指摘するような言葉や批評は求められてきませんでした。ビジネスとして、アーティストと「共犯関係」を築くことが正解となった世界で、批評は邪魔な異物でしかありません。

ビジネスモデル以外でも課題はあります。

東浩紀さんが説く「オタク(記号的)」と「ストリート(身体的)」の対立において、知的な批評空間を担ってきた層は、音楽が持つリア充的・身体的な熱量を、自分たちの言葉が及ばないコンプレックスの対象として遠ざけてきた歴史があります。

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28:45~ ぜひ一度みていただきたい。

音楽を語ることは、たしかに専門外だったのかもしれません。あるいは、参入したとしても「解像度の高さを競い合う」という、安全な知識ゲームに終始してしまうのに嫌気が差したのかもしれません。

音楽メディアの専門家やプロの批評家、その歴史を知っている方々は「何十年前の議論をしているのか」と私を笑っているのだと思っています。この文章を書いてて恥ずかしい理由の一つです。

音楽批評をめぐる論争が、過去何度繰り返されても「不毛な水掛け論」に終わってきた歴史を知りすぎているからでしょう。

「こんな議論に参加しても、仕事がなくなるかもしれないし、誰の得にもならない」

それは賢い大人としての、あまりにも正しい振る舞いかもしれません。無理をしないのが正解です。

でも、私はライターでも批評家でもありません。ただの小さな会社の一般会社員です。だからこそ、その「正しさ」を無視して、不躾に、無邪気に、水たまりに石を投げることができる。

見えない裂け目に、拙い言葉を埋めてみたいのです。

2026年の混沌の中で「配置」すること

東浩紀さんは、大きな物語が失われた時代において、批評の役割を「配置の作業」へと自覚的にシフトさせました。

近代の世界像がツリー型であるのに対してポストモダンの世界像はデータベース型であり、前者は深層には大きな物語があるが後者の深層にはそれがない

東浩紀『動物化するポストモダン』より引用

楽曲再生数やフォロワー数、数字に支配され、推し活の共同体に閉じ込められている今、必要なのは内側の称賛や叱咤激励、解説だけでは足りません。

サカナクションの精緻なビートを聴きながら、私たちは何を忘れているのか。Mrs. GREEN APPLEの過剰な多幸感を浴びながら、私たちは現実のどんな「欠落」を埋めているのか。

この高密度な音楽たちが、この液状化した社会を生きる私たちの胸に響くのはなぜなのか。

それを問うことが、私の考える「配置」です。

国道沿いに立ち並ぶ、どこまでも均質なチェーン店の風景。スマホの通知に追われ、数秒の動画に脳をジャックされて夕日が沈むまで寝転ぶ日常。そんな「今、ここ」の風景に、Mrs. GREEN APPLEの華やかなメロディを無理やり接続してみる。

その時、音楽は単なる「癒やし」や「娯楽」ではなく、私たちが生きていることを照らし出す「発見」に変わるはずです。信じています。

結びに代えて──補い合うための言葉

みのさんが音楽の「内側」を掘り下げて示した現在地。それを、私は社会という「外側」の風景と接続したいです。

内在的批評と外在的批評を対立させたいわけでもないです。むしろ両者があって初めて、批評は成立するのかもしれません。この膨大な文字数のnoteを書きながら、今も痛感しています。

音楽を批評するのに十分な知識が私にはまだありません(音楽だけじゃない)。たくさん学びたいと思います。それと同時に足りないなら、補い合えばいいとも思いました。

みのさんが示した音楽の内在的批評、音楽活動、音楽深化論。どれも学びがありました(コスモスチバさんが好きです)。

改めまして、貴重な機会をいただきありがとうございます。もっともっと楽しく音楽を考える世界になったら嬉しいなと願っています。

かよちゃん より

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ただのかよちゃんです。
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