『星獣戦隊ギンガマン』第三十八章『ヒュウガの決断』
◾️第三十八章『ヒュウガの決断』
(脚本:小林靖子 演出:小中肇)
導入
さあ、ギンガマンもついに“真の最終章”に突入であり、前回がいわば「嵐の前の静けさ」だったとするなら、今回はその嵐が物語全体を引き裂き始める号砲だった。
ヒュウガはブクラテスの奸計に飲まれ、ついに炎のアースを捨てるという禁断の選択を下す。
そして彼とリョウマたち5人は、物理的にも精神的にも引き裂かれるというあまりに苦い展開が描かれた。
だが、戦いは止まらない、バットバス魔人部隊による魔獣ダイタニクス復活作戦は着実に進行し、ヒュウガ不在のなかでもリョウマたちは戦士としての誇りを胸に立ち上がる。
実際1クール目・2クール目ではヒュウガ不在でも5人はギンガマンとしての戦いを全うしていたが、それはあくまで「ヒュウガがいないから」というのが大きかった。
「ヒュウガがいない」ことに動揺するのではなく、「ヒュウガがいなくても、自分たちは星を守る戦士でいられるか」という自覚と覚悟だ。
一方で、ヒュウガ自身もまた新たな段階へと踏み出しており、アースを喪失したことで「星を守る戦士」ではなくなった――だが、それは「戦う力を失った」こととイコールではない。
なぜなら、彼が受け継いだ「黒騎士ブルブラックの力」はアースとは無関係の“異なる系譜の戦闘力”だからだ。
そしてここにこそ、今回のエピソードの最大のキモがあ理、「ヒュウガはアースを捨てたが、力は失っていない」「5人はヒュウガを失ったが、戦う意志は揺るがない」ことが示されている。
つまりこれは、“伝説の兄弟”が、それぞれのやり方で「星を守る」という誓いを選び直す回なのだ。
ではなぜ、物理的にも精神的にもギンガマンは“分断”されなければならなかったのか?
ここから先の戦いが、リョウマたち5人に、そしてヒュウガ自身に、どんな意味を突きつけるのか――その答えが、今回のエピソードに刻まれている。
それを今回は丹念に掘り下げよう、大きなポイントは以下の4つ。
ゲーテの「ファウスト」を思わせる黒騎士ヒュウガとブクラテスの「契約」
「俺はアースを捨てる!」――ヒュウガの決断は何を意味するのか?
マグダスの子供誘拐・拉致──その影に潜む「産業革命の影」
ヒュウガとリョウマたちを切り離した理由は「最強の戦隊」への進化のため
さあ、レビューしていこう。
ゲーテの「ファウスト」を思わせる黒騎士ヒュウガとブクラテスの「契約」
今回の見どころは何と言っても、ヒュウガとブクラテスが交わす“契約”だろう。
重苦しく黒い雰囲気を漂わせながら、兄ヒュウガが選ぶ道はまるでゲーテ『ファウスト』における主人公と悪魔メフィストフェレスの邂逅を彷彿とさせる。
つまり「大切な肉親と別れ、禁断の知恵に手を伸ばす」という一連の展開だ。
脚本家・小林靖子が得意とする「家族」や「血縁」の物語がここに来てまたもや壮絶なドラマの契機となっている。
『未来戦たいタイムレンジャー』の浅見親子や『侍戦隊シンケンジャー』の白石家を例にとってもわかるが、靖子脚本の「家族」は一枚岩ではなく、どこか“欠けている”。
その“欠け”とは、片方が成長・活躍するためにもう片方が苦しむという、鋭い構図であり、本作の炎の兄弟は正にその原点といえるだろう。
今回も例に漏れず、リョウマがギンガレッドとして王道ヒーローの道を進むために、ヒュウガはあえて残酷な裏道を進むのだ。
「炎の兄弟」と呼ばれながら、あえて“断絶”を描き絆を壊すことでドラマを深くする……その選択がこのエピソードを単なる兄弟ドラマから「神話」という次元に押し上げている。
一方で、本作には『ファウスト』との決定的な違いもあり、それが悪魔と契約する側の主人公が「運命と戦っている」という聡明さが感じられることだ。
ファウストは欲望に流された若者だが、ヒュウガは正反対で「肉体」も「アース」も差し出す一方で、「魂」と「誇り」だけは絶対に渡さないという“禁欲のヒーロー”である。
この「理性で踏みとどまる力」こそ、彼が単なる操り人形や無能に堕ちない理由だ。
もちろん、ブクラテスがゴウタウラスを人質に取っている背景もある。けれど、それだけならヒュウガはただの“お人好し”にすぎない。
ここで効いてくるのが、ブクラテスの「ゼイハブを倒す方法を知っている」という提案であり、これによってヒュウガがギンガマンと袂を分かち、ブクラテスと行動を共にすることに説得力が生まれる。
ギンガマンの物語が“伝説の更新”を目指しているとするならば、そこには当然肯定だけではなく「負の神話」も存在する。
禁断の薬草“沈み草”が象徴するように、これはまさに『失楽園』のようでもあり、かつて弟クランツを喪った黒騎士ブルブラックの過去もまた「悪しき伝説」として継承されている。
それが今回から黒騎士ヒュウガの物語を通して“現在進行形の悲劇”として再演されるというわけであり、しかも今回のブクラテス、ただのポンコツ老害に終わらないのも素晴らしい。
1クール目では単なる役立たずだった樽爺が今回から「復讐鬼」かつ「悪魔」そのものに変貌しており、デザイン・声優・演出・ライティング、すべてがこのキャラの再構築に機能している。
「本当か嘘か、一種の賭けじゃな。じゃが、この賭けに乗らなければ、ゴウタウラスは死ぬぞ。そして、お前もいずれギンガマン共々ゼイハブに倒される事になるじゃろう。黒騎士、乗るしかないんじゃ。儂につけ」
このセリフがとにかく絶妙であり、“一種の賭け”とぼやかすことで、「この選択が絶対正しいわけじゃない」とあえて曖昧にお茶を濁している。
そのグレーさがブクラテスとヒュウガのキャラクターとその関係性・選択に奥行きを与えてて、物語を“ただの善悪二元論”に落とさないバランス感覚が見事だ。
何よりブクラテスは“策はあるが力がない”のに対してヒュウガは“力はあるが策はない”というこの“歪なバディ関係”が実に面白い。
2クール目の黒騎士ブルブラックの立ち位置を継承しつつも、完全に第三勢力としての厚みが出て「一角」を成すに至った。
ヒュウガというキャラは、本来なら主人公であるリョウマを食いかねないスペックを持ってたが、だからこそリョウマに主役の座を渡した今、彼に残されたものは“黒騎士のカルマ”だ。
これはもう、個人の意思を超えた物語の「呪い」であり、その“呪い”をどう背負い乗り越えるか?がヒュウガの物語の核になっていく。
「俺はアースを捨てる!」――ヒュウガの決断は何を意味するのか?
ヒュウガが放った衝撃の一言、「俺はアースを捨てる!」と言うこのセリフの重さは、ギンガマンという作品の根幹を揺るがすほどに大きいものとなった。
ここでのヒュウガは、まるでかつての“復讐鬼”ブルブラックに舞い戻ったかのようなダークヒーローに変貌する。
子どもから沈み草を奪い、意図的にとはいえブルライアットを仲間に撃ち込み、さらに洞窟ではサヤを人質に取るという悪役ムーブだ。
もちろん、これらは「演技」だと後にわかるが、それでも「目的のためなら手段を選ばない」という感じは明らかに2クール目の黒騎士そのものである。
しかも、久々に流れるブルブラックのBGM、これが演出としても「戻ってきた復讐鬼としての黒騎士」を強烈に印象づけてる。
さて、改めてここで「俺はアースを捨てる!」が意味する3つのレイヤーについて考えるが、このセリフには、ざっくり3つの意味が込められているだろう。
嘘から出たまこと(第十二章、グリンジーの「俺にはもうアースがない」という嘘が現実になった形。まるで逆説的な伏線回収。)
カリスマ性の失墜=“正義”の解体(前回の「この俺が敵になることもある!」とセットで語られるべき発言。絶対的正義の象徴だったヒュウガが“アンチ正義”の側に立つ瞬間)
「星を守る戦士」の称号を自ら捨てる(アースを捨てる=戦隊ヒーローとしてのアイデンティティの喪失。自己否定に近い)
ここで生きてくるのが第四章『アースの心』のレビューだ。
本作はとてもは早い段階の第四章『アースの心』で、「アースとは何か?」をギンガマンのヒーロー性に直結する形で哲学的に定義してる。
それは単なる「星から借り受けし古代のオーパーツ」や「超能力」ではなく、銀河戦士5人に取っての生き方の根幹=脳のOSでも言うべきものだ。
そのアースを、ヒュウガはここで――自らの意志で捨ており、ここだけを見るならば普通に考えてヒュウガは「ギンガマン失格」だろう。
だが、彼はそれを何の違和感もなくやってのけ、そしてなお黒騎士としての力を保持し続けているという神がかりのバランス。
これは他の戦隊作品と比較しても異例の展開であり、歴代戦隊でも「力の喪失」はいくつかの作品で描かれている。
例えば90年代を見ても『ジェットマン』『ダイレンジャー』や『オーレンジャー』『カーレンジャー』では一時的に変身能力を失ったし、『カクレンジャー』では忍術が能力剥奪されたこともあった。
だが、「自ら捨てる」という選択をしたヒーローは黒騎士ヒュウガだけであり、しかもそのうえで、黒騎士として戦力を維持できるというパワーバランスの妙が光るのだ。
そう、ヒュウガ不在でも成立する戦隊だからこそ離脱する流れが決して物語にとって大きな損失にならず、ヒュウガがいなくても、ギンガマンはバルバンに勝てるという構造が丁寧に積み上げられてる。
ヒュウガがいなくても、炎の戦士=ギンガレッドはリョウマが引き継いでるし、黒騎士はアースの力とは別系統なので、ヒュウガがアースを失っても戦力としては健在だ。
その上で、「黒騎士の道=孤独で血塗られた裏道」を選ぶヒュウガの存在が物語の“もう一つの心臓”になっていることがわかるであろう。
つまり、ヒュウガは物語上“いなくてもいい”ポジションに回されながら、実は“いなければ成立しない”物語装置になっているというのが本作の妙味だ
マグダスの子供誘拐・拉致──その影に潜む「産業革命の影」
今回のエピソード、裏ではヒュウガとブクラテスによる「魂の契約劇」が展開される一方で、表ではマグダスによる子供の誘拐・拉致というスーパー戦隊ではお馴染みのプロットが描かれる。
だがこの子供誘拐劇、よくよく見るとただのテンプレではなく、幼稚園バスを襲い遊園地の子供をさらうという“昭和戦隊の定番ネタ”を「魔獣ダイタニクスの血管掃除」という不気味すぎる目的のために再利用している。
そしてこのプロセスが、まるで産業革命期のイギリスにおける児童労働・工場制手工業を思わせるような悍ましさで進んでいく。
子供をマグネットで吸い寄せて身長を測り、基準を満たせば袋詰めにし超えてたら即廃棄と言う、この冷酷な効率主義と、選別→労働力投入→消耗という構図は、18〜19世紀の工場資本主義そのものではなかろうか。
バットバス魔人部隊は表向きバカ集団に見えても、所詮は“宇宙海賊”=搾取の権化”でしかないわけであり、“コミカル”の皮をかぶった“邪悪”というのが本質ではないだろうか。
表面上はドタバタコメディっぽく描かれているけど、やってることは圧倒的に残酷であり、子供を数値でふるいにかけ「使える者」だけをさらうあの描写を笑える者などおるまい。
一見サンバッシュ魔人団と同じく“熱血バカ系”のようでいて、実際には 参謀ビズネラが戦略を担い、バットバスは恐怖支配で統率する冷酷な構造を持っている。
「作戦失敗したら自分の頭を喰いちぎれ!」という言葉からして冷静に考えると完全に異常集団でしかない、すっかり感覚麻痺してしまいそうだが。
これが『イリエス編』や『ブドー編』との対比でより際立つし、ただの力押しじゃない支配と搾取の象徴として明確に描かれてており、同人これがスーパー戦隊の“本質”を浮き彫りにしている。
スーパー戦隊の1つの特徴にして根源的な面白さの正体は「コミカルにして残酷」というところであり、ここが重要なポイントだろう。
スーパー戦隊シリーズの真骨頂は「悲劇」と「喜劇」の混在=カオスバランスであり、ここが「ウルトラマン」とも「仮面ライダー」とも異なる。
「ウルトラマン」の怪獣は基本的に“生物”であり、コミカルだが倫理的に邪悪ではないし、『仮面ライダー』のショッカーは完全な悪で悲劇色が強く、コミカル要素は希薄だ。
しかし、スーパー戦隊は違っていて、外見はポップでユーモラスだがやってることはガチの殺し合いと搾取でしかなく、見た目に油断したら、心をえぐられる。
この“ズレ”の中にこそ、スーパー戦隊の特異性があるわけであり、ヒュウガとブクラテスの悲劇が裏で進行してる最中に、子供拉致というリアルにヤバい事件がコミカルに描かれるのだ。
だからこそスーパー戦隊シリーズをよく知らない人からはどうしても1ランク下に見られがちだが、観客は無意識に感じ取ってる、「あ、これ笑っていいものではなない」と。
これがスーパー戦隊というシリーズの本質であり、「絆」でも「団結」でもなく“コミカルにして残酷”なバランス感覚こそがキモだろう。
ヒュウガとリョウマたちを切り離した理由は「最強の戦隊」への進化のため
こうしリョウマたち5人とヒュウガが再び物理的にも精神的にも引き裂かれるこの展開をただヒュウガの悲劇性を盛り上げるためのギミックだと思ってたら大間違いだ。
この“分断”の真の狙いは5人が「ヒュウガ抜き」で戦えるギンガマンになるための精神的アップデート、つまり「リョウマたち5人の完全なる自立=ギンガマンの最終形態への進化」である。
冒頭での弱々しい焚き火と轟々と燃える復讐の炎という象徴的な演出が二つの焚き火の対比として表現されているのだ。
リョウマたちの焚き火はすぐ消える頼りない灯であるのに対して、ヒュウガとブクラテスの焚き火は轟々と燃え上がる復讐の象徴だ。
この演出は単なる“情景”ではなく彼らの精神状態のメタファーであり、リョウマたちの焚き火はヒュウガという精神的支柱を失った不安定な心を表している。
一方でブクラテスとヒュウガの洞窟での焚き火は「目的のためなら誇りもアースも捨てる」という覚悟と怨念の現れであり、ヒュウガ依存をここで断ち切って「真のチーム形成」なのだ。
ここで重要なのは「ヒュウガがいたからこそ、5人の未熟さが補われていた」という事実であり、リョウマは2クール目のブルブラックとの対話を経て、兄への執着を断ち切っていた。
しかし、他の4人、特にサヤは明確にヒュウガへ精神的依存をしていて、だからこそ改めて今回ヒュウガが敵側に近い存在になったことでそれが表層に露呈したのだ。
この構造があるからこそ今回の断絶=“リーダー不在状態での戦線維持”が5人に突きつけられる凄まじい試練になると思うし、こういう要素が2000年代以降の戦隊にはない良さである。
ヒュウガが黒騎士として“裏の戦い”に回ったのは、彼が物語の主人公ではなくなったからだが、それは同時に「ヒュウガがいなくても勝てるギンガマン」へ5人が進化するための布石だった。
髙寺成紀ならびに小林靖子の素晴らしいところは「5つの力を一つに合わせる」ことを尊重しつつも「人数が増えればそれでいい」という考え方にしていないことである。
確かに3クール目、ヒュウガを含めた6人での戦いは強かったが、その強さは裏を返せば“ヒュウガの存在ありきのギンガマン”だったいうある種の脆弱さも弱点としてあった。
つまり、3クール目のイリエス魔人族には「6人の力で勝てた」のではなく「5人の未熟さをヒュウガが支えていた」とも言えるが、それでは4クール目の厳しい戦いは勝ち抜けない。
この先に控える魔獣ダイタニクス、地球魔獣、バットバス特殊部隊といった“ギンガマンの限界を試してくる敵”に勝つためには戦力が揃っているだけではダメなのだ。
もはや「精神的依存」という脆弱性を排除した、鋼の意志と絆を持った最強の5人である必要があるということだ。
ヒュウガは確かに強いのだが、強すぎるからこそ、“全員の物語”にはならないというある種の危険性もある。
リョウマが主役に座って以降、ヒュウガは力ではなく「因果」や「信念」を背負う存在として裏舞台に降りたというこの役割分担がある。
だからこそ戦力は5人で十分、物語の深みはヒュウガが担うという非常にバランスの取れた物語構造が成立しているわけだ。
総括
この回は「黒騎士ヒュウガの選択」を主軸にしているように見せかけて、実はギンガマンという戦隊そのものの“定義”をもう一段階深く、そして歪に美しく更新した章であろう。
この第三十八章はこれまで積み上げてきた要素を元にその全部を物語の燃料に変えている異常な完成度の回であり、小林靖子の陰影がついた脚本の構造美が全開である。
そしてまた、小中肇監督も演出・舞台設計・音楽配置もすべて計算し尽くされており、ここから先の激闘・死闘を予感させる。
総合評価はS(傑作)100点満点中110点。



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