純粋理性批判⑦
カントの哲学に二律背反やアンチノミーと言われる、
哲学で、相互に矛盾する二つの命題(定立と反定立)が同等の妥当性をもって主張されること。アンチノミー。
『デジタル大辞泉』(小学館)より引用
というものがあります。カントは、
①
時間と空間には限界があるのか、ないのか?
②
物は分割不可能な要素からできているのか、無限に分割可能か?
③
結果を産み出した原因と究極の原因があるのか、ないのか?
④
必然的に存在するもの(神)はいるのか、いないのか?
こうした定立命題と反定立命題について同等の妥当性をもって主張されることを考えました。
「丸い太陽は四角い」という定立命題と、「丸い太陽は三角だ、ゆえに、丸い太陽は四角いわけではない」、という反定立命題があるとき、これを二律背反と称することができます。この定立命題を考える際に、そもそも丸い太陽は四角いわけではないとか、丸い太陽は三角であるわけがないという理屈が考えられます。定立命題自体さえも誤りであることが考えられます。アンチノミーと結論付けられる定立命題と反定立命題では、どちらが正しいか分かりづらいことが懸念されます。次のテーゼ、アンチ・テーゼを考えます。
テーゼ・・・・・世界は時間的に有限で始まりがある。また、空間的にも有限である。
アンチ・テーゼ・・・・・・世界は時間的に始まりがなく、無限である。また、空間的にも、無限である。
そのカントの論証。背理法による。 世界が時間的に有限だということは、その有限の時間の外には、空虚な時間が流れていたことになる。 また、世界が空間的に有限だということは、その有限の空間の外には空虚な空間があることになる。 空虚な時間が流れていたのなら、今もその空虚な時間が流れていることになる。 そこに突然、空虚でない時間が流れたということは考えられない。 だから、それは背理である。 また、空虚な空間があれば、今も空虚な空間があるというべきだ。 そこに突然、空虚でない空間があるようになったというのは、考えられない。 だから、それは背理である。
一方、世界が時間的に無限だということは、今でも時間は無限だということで、時間は無差別だということを意味する。 しかるに、世界が存在するということは、無差別ではなく、差別である。 だから、それは背理である。 また、空間が無限だということは、無差別だということである。 しかるに、世界が存在することは差別である。 だから、それは背理である。
①時間と空間には限界があるのか、ないのか?
時間は無限に過ぎ続けることが考えられる。空間は宇宙膨張により限界と思われた空間より先に膨張することが考えられる。
②物は分割不可能な要素からできているのか、無限に分割可能か?
無限に分割可能であれば、どこまでも素粒子を追いかけることになりそうである。素粒子はライプニッツのモナド=単子として分割不可能である極致がある。
③結果を産み出した原因と究極の原因があるのか、ないのか?
この宇宙は過去に向かって放たれた特殊相対性理論と呼ばれる信念的行為によって誕生したものと思われる。宇宙が出来て、遥か時間を過ぎ去って、未来から過去へ宇宙が誕生するように仕掛けた誰かがいたのである。
④必然的に存在するもの(神)はいるのか、いないのか?
神の定義が曖昧であるし、宇宙を創造した方はいないと見受けられる。世界を創造した者はいるか、と問えば、世界を創造した者は存在しなかった、と応えるのが妥当であろう。
そのカントの論証。背理法による。 世界が時間的に有限だということは、その有限の時間の外には、空虚な時間が流れていたことになる。 また、世界が空間的に有限だということは、その有限の空間の外には空虚な空間があることになる。 空虚な時間が流れていたのなら、今もその空虚な時間が流れていることになる。 そこに突然、空虚でない時間が流れたということは考えられない。だから、それは背理である。 (A)
ま、た空虚な空間があれば、今も空虚な空間があるというべきだ。 そこに突然、空虚でない空間があるようになったというのは、考えられない。 だから、それは背理である。(B)
背理というものは分かってはいけないらしく、お詫び申し上げます。これ(A))は無限の時間が流れることを意味します。(B)は何てことないとカントは振り返っています。
一方、世界が時間的に無限だということは、今でも時間は無限だということで、時間は無差別だということを意味する。 しかるに、世界が存在するということは、無差別ではなく、差別である。 だから、それは背理である。
これは詭弁であろう。世界があるからといって世界が時間的に無限であることは背理であるとは言えない。また、四つ目の背理も詭弁である。
皆さんコーヒーを。


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