『星獣戦隊ギンガマン』第三十三章『憧れのサヤ』
◾️第三十三章『憧れのサヤ』
(脚本:小林靖子 演出:辻野正人)
導入
さて、イリエス編も今回と次回で幕を下ろすわけだが、小林靖子脚本が唯一描いたサヤメイン回がこの回だけというのも、何だか本当にサヤだけは「大事にされてない」感がある。
お話としては『電子戦隊デンジマン』の第25話「虎の穴は逃走迷路」辺りに代表される「ゲストが戦士に一目惚れ」みたいなお話の男女を逆転させたバージョンではないだろうか。
「デンジマン」の方ではデンジイエローと八百屋の娘だったのに対して、今回はギンガピンクと八百屋の少年という形になっているが、中身としてはさして面白いものではない。
そもそも小林靖子自身がこういった「普通の戦隊にありがちな話」自体を書かない人だと思うし、むしろこういう回は武上純希とかの方がいいのではとも思った。
今回を見て改めて思い直したのは小林靖子はいわゆる「戦隊の本質」はきちんと理解しているが「戦隊的なるもの」に安易に収まるような作家ではないということである。
そこが彼女の良くも悪くも大きな特徴であり、メインもサブもどちらも任せられるだけの力量はあるが、共通しているのは「普通の戦隊っぽい話」が書けないことだ。
むしろ小林靖子は「ありきたり」「普通の展開」を嫌うというか書かない人だから、仮に「ありがち」展開があったとしても魔改造で全く違う話へ仕上げてしまう力を持つ。
本作が最高傑作になった理由の1つは間違いなくそこにあって、単なる「戦隊の王道」という上っ面ではなく、本質的な部分で「ヒーローとは?」を考えつつ話を作っている。
その観点から行くと、今回の話は「普通すぎる」というのが正直なところだろうか、別に「一般人の少年が戦士に憧れる」というのはサヤが相手じゃなくても成立するものだ。
もっと言えば、後述するがそれは恭平くんじゃなくても青山勇太少年がやっていることであり、わざわざここで個別に少年キャラを設定した意味がわからない。
まあ確かに勇太少年の絡みが一番多いのはリョウマだからリョウマとの関係性が強すぎるというのもあるが、折角ならサヤとも物語を作ってもよかったと思うのだ。
したがって、今回のポイントはやや短いが以下の3つに絞った。
ギンガピンク/サヤというキャラクターの弱さ
ゴウキ=照英は戦隊一泣き顔が絵になる俳優、リョウマ=前原一輝は戦隊一笑顔の似合う俳優
勇太少年と恭平の完成度の差
内容的には正直ここまでの中だと一番つまらなかったので、いつもよりは短めにサクッと語らせてもらう。
ギンガピンク/サヤというキャラクターの弱さ
今回改めて浮き彫りになったのはギンガピンク/サヤというキャラクターの弱さであり、小林靖子をはじめとして作り手はサヤを一体どんなキャラクターとして作りたかったのかが見えにくい。
「頼れるお姉さん」なのか「無邪気な元気っ子」なのか、いずれにしてもどうにもこの3クールに入ってまでキャラクターの方向性が定まらないのはどうにも頭を抱えたのではなかろうか。
やはり着々と1クール目から仕込んできた要素がどんどん花開いて結実していく中で、サヤだけがこの3クール終わりを迎えてもなおキャラの基盤すら定まらないままやり過ごしてきた。
ここまで来るともはや憐れむ気持ちすら起こらない、いいから喋らないでくれ、映さないで欲しいという気持ちにすらなってしまうのではないかと思う。
「無茶したりカッコつけたりするのはちっともカッコよくなんかない!」というのはわからなくはないが、本作がそもそも「カッコいい」を気にして作品作りなんかしたことあったか?という話だ。
「側から見て何がかっこいいか?何がダサいか?」なんてことを気にしていること自体がそもそもナンセンスであり、なおかつそれが作品の根幹と直結しているわけでもない。
作品がこれまで示してきたこととなんら無関係なものが画面に出てしまっており、いくら「ギンガマン」を最高傑作扱いしている私とて、今回のこれは厳しいと言わざるを得ないだろう。
男の子が憧れる「かっこよさ」というのと、本作が積み重ねてきた「星を守る戦士としての使命」とは全くの別物であり、流石にここをイコールにして結びつけてしまうのは違うのだ。
この辺りは小林靖子がメインライターを担当している他の作品でもそうだが、メインライターになった時に作品そのものの根幹と直結しないあの展開はどうなのだろうと思ってしまった。
たとえば「シンケンジャー」で言うなら二十一幕でことはが魂を奪われて丈瑠たちが外道を働くという変な覚悟を決める回だが、今回はそれにやや近いものを感じてしまう。
小林靖子はどうにも理屈に合わない部分だったり、あるいは感情で決断してはいけないところを強引に感情で押し切ろうとしてしまうところが時々垣間見える。
今回はそこまでではないにしても、作品のメインテーマとなる本筋からは完全にズレてしまっていて、しかもこれがサヤのキャラクターを確固たるものにしているわけでもない。
だからどうしてもここまでの「積み重ね」の差としてこうなってしまうのは致し方ないといったところだろうか。
ゴウキ=照英は戦隊一泣き顔が絵になる俳優、リョウマ=前原一輝は戦隊一笑顔の似合う俳優
さて、本筋そのものはさして面白くもなかったが、今回コメントでも指摘されていて面白かったのは「みんなが泣き顔になる」という描写であり、ゴウキ=照英は泣き顔が絵になる俳優だ。
ボックが「みんなゴウキみたいになってるボック」といっていたが、これがいわゆる「劇中のキャラクター描写」としてのみならずメタ的な「照英という俳優」のイメージとしても二重に重なっているのが面白い。
サヤとヒュウガ以外の4人がほぼ泣き顔になっていたわけだが、これは決して「狙ってそうした」のではなく「自然にこうなっていった」という方が正解であり、この面白さは狙って作れるものではないのだ。
なぜかというと、ゴウキの泣き顔が面白いのはやはり演じる照英自身の人柄による部分が大きく、泣きの演技が全くわざとらしく見えないのは全てが照英自身の内面から来るものだからである。
ちなみにだが、本作の面白いところは「戦隊一泣き顔が絵になる俳優」と同時に「戦隊一笑顔が絵になる俳優」=前原一輝もいることであり、それは単なる演技の上手い下手ではない。
もはや役者さんそのものの持てる素がそのままキャラクターに生かされている感じであり、特に照英はかの前原一輝が「照英は演じてない、素のまま」というのも納得である。
むしろ、サヤと恭平の物語よりも照英の方が100倍面白かったし、リョウマたち他のキャラクターも泣きの演技に必死に挑戦している様がなんだか面白く見えてしまった。
そのためか、今回は物語と直接に関係のない細部の方が本筋を圧倒的に上回ってしまったという状態であり、それもそれで悪くはない。
とはいえ、これだったらいっそのことゴウキメイン回にしてしまった方が面白かったとも思うのだが、サヤメイン回が第二十七章以来ということを思うと、ここ以外には挟みようがない。
なんとも難しい葛藤の板挟みではあっただろうが、やはり無駄なところに貴重なリソースを割くよりはきちんとしたところにリソースを割いた方がいいということになる。
何はともあれ、あまり面白くない中にもまさかの涙の演技・芝居で意外性のあるユーモラスなシーンが見られたというのも本作のなんともいえない面白さだ。
勇太少年と恭平の完成度の差
そしてもう1つ、今回は回想にしか出てこなかったが、やはりサヤと自然に買い物しながら歩いている青山勇太少年の方がやはりキャラクターとしての完成度の高さに違いが出る。
逆にいって仕舞えばそれは勇太と恭平の違いをしっかり出すことができなかったということでもあって、単純なゲストキャラでは第一章から出ている青山勇太のキャラを上回れないのだ。
勇太少年は単純な「視聴者代表」でもなければ「ヒーローに憧れる少年」というだけではない、立派に作品世界を成り立たせるための狂言回しでもある。
というか、青山親子史観論という形で描かれているのが本作であって、ゲストキャラクターを基本的に出さないのは青山親子の存在感が強すぎるからだ。
例えば前回のリョウマと一郎のように「まだこういう形でのキャラの広げ方・掘り下げ方があったか!」というような形であれば納得もできる。
しかし、今回は明らかに恭平少年は勇太少年という隠れたところにいるもう一人の強敵と戦わなければいけなかったわけで、しかも演技力の差も激しい。
ぶっちゃけた話、本作がこれまで少年・少女キャラを出したが、いずれもやはり早川翔吾という子役を超えることはできなかった。
というより、特撮界全体を見ても青山勇太ほど理想的なレギュラーの子役というのはいなかったのではないかと思うくらいに、完成度が高すぎる。
そこを考えると、むしろ恭平少年を演じたゲストの子役はむしろたった1話しかない中でよくやった方だとは思う、スタートからして不利だったというのに。
だから今回に関しては小林靖子の脚本自体が珍しく空回りしてズレを起こしてしまったのと同時に、キャラクターの弱さがヒロイン側とゲストキャラの双方で起こった。
そんな事情によって起こったということになるだろうか、いずれにしても今回は第八章以来出来が悪いというか「普通すぎて逆に失点」という惜しい回だった。
総括
今回はおそらく「ギンガマン」ではなく他の戦隊だったとしたらそれなりに通常回として見れたかもしれない。
しかし、そうやって見るには本作の持っているバックボーンや根幹の完成度があまりにも高すぎた。
だから面白く見えないというよりも「ありきたりすぎて逆に個性が押し殺されてしまっている」というところだろう。
総合評価はE(不作)、100点満点中35点だ。



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