『星獣戦隊ギンガマン』第三十一章『呪いの石』
◾️第三十一章『呪いの石』
(脚本:小林靖子 演出:小中肇)
導入
ギガバイタスがナイアガラの滝に帰るところから始まる今回の作戦だが、今回と次回はお話そのものはそんなに大きくはなく、幾分小粒に見えるが、実はこの「小粒」がとても大事なのだ。
全体を動かす「大筋=根幹」の部分はとても大事だが、それ以上に重要なのが実はこうしたお話の本筋とは直接に関係のない「枝葉」の部分にあるものだったりする。
「細部に神は宿る」というが、今回はまさしくそれであり、話の大筋そのものに直結しないハヤテと勇太少年の交流、そして第十六章以来となるシェリンダとの因縁。
こうした要素が決して単なる「点」ではなく一本の「線」へと集約させていく形でハヤテというキャラクターがしっかり形成されていくプロセスが素晴らしい。
ポイントは以下の4つ。
ハヤテと勇太、静と動の対話
ハンデを背負ってなお圧倒する、シェリンダ戦
崩れた仮面、あらわになる感情
鋼星獣は単なる「サポートメカ」ではなく「星を守る戦士」
よく第3クールは「中弛み」と呼ばれるし実際にそう書いたが、それはあくまで「大筋が動かない」からであって「中弛み=つまらない」ということでは決してない。
むしろこのイリエス編は「ギンガマン」における「中継ぎ」「箸休め」と言えるところだからこそ、そこでしかできないサブストリームを描いてきたと言えるだろう。
思えば『機動武闘伝Gガンダム』もそうで、あれも3クール目の決勝トーナメント予選は割と息抜きみたいな話が多く「中弛み」はしていたが決してつまらないわけではない。
サブストリームだからこそ描ける題材をしっかり描き、「ギンガマン」という作品の物語・世界観をせせこましいものにしないためにはこういう回が重要である。
「山椒は小粒でもぴりりと辛い」というが、今回はまさにそれであり全体に影響しない小さな話だからと舐めてかかると痛い目に遭うだろう。
小林靖子は全体の大筋の立たせ方も上手い人だが、それと同じくらい話の大筋には直接関係のないサブストリームの部分でも非常にいいセンスの話を仕上げてくる。
今回は勇太少年がリョウマのみならずハヤテとじっくり関わることによって、双方の関係性がより際立ち、尚且つ鋼星獣の良さもしっかり仕上げてきた。
1つ1つの仕掛けはそんなに大きくなくとも、細かい要素をじっくり組み合わせることで1つの「味わい」を出すに至っている。
少なくとも今の戦隊にこんな「味わい」は存在しない、それくらい非常に細かいエッセンスの仕上げ方が見事な職人技だ。
また、今回と次回、そして第三十七章と第三十八章で小中肇監督が参戦しているのも見逃せない、次作『救急戦隊ゴーゴーファイブ』でパイロット監督になる人がここで出ている。
辻野監督ほどの抒情性はまだなく演出的には可もなく不可もなしといったところだが、話が面白いから多少演出が地味目でも何とかなったというところか。
いずれにしても、ハヤテと勇太というこれまでなかった2人の関係性はどのように描かれているのだろうか?
ハヤテと勇太、「静」と「動」の対話
冒頭はハヤテと勇太の買い出しから始まるわけだが、これまで勇太少年といえば基本的に一対一で絡んだことがあるのはリョウマ・ゴウキ・ヒカルの3人であり、その中でもリョウマとの絡みが一番多い。
早熟気味なところはあるが、基本的には心根の優しい少年としてこれまで機能していた勇太が今回はメンバーの中でもヒュウガと並ぶくらい大人びた人と組む機会はなかなかないものだ。
ハヤテは戦士の中でもとりわけ無口で冷静、あまり感情を表に出さないタイプで厳しくもある説教猫みたいなタイプだから、勇太少年のような感情的な人からすればどこか遠く冷たく見える。
まさにハヤテが「静」ならば勇太少年あるいは、勇太がこれまで絡んできたリョウマ・ゴウキ・ヒカルが「動」であるというふうに言ってもいいかもしれない。
しかもハヤテは決してリョウマのように「戦士としてのあり方」ではなく「当たり前のことを当たり前にできること」というとても地味なことしか教えない、だから勇太少年からすれば物足りないのだ。
「毎日学校に行ってちゃんと授業受けて掃除をして」といったことしかアドバイスしない、家庭の中にいたらハヤテは割と「正論すぎるが故に嫌われやすくもある人」という立ち位置である。
だが、そんなハヤテのキャラクターも決して唐突に描かれてきたものではなく第一章の頃から積み重ねてきたものだから自然に成立しているし、実際ハヤテのような人も組織には必要なのだ。
リョウマがどちらかといえば「理想」であるのに対して、ハヤテは「現実」を教える人であり、勇太少年は今回ある意味でヒカルと同じような苦手意識を持っている。
改めて今回浮き彫りになったハヤテのキャラクターだが、勇太少年が「それって「冷たい」ってことなんじゃないの!?」と突っ込んでもハヤテは決してショックを受けたり揺れたりなどしない。
石になった手を見ても動揺すら見せずに「次に何ができるか?」を考えているし、勇太からすれば何を考えているかがわからないように見えても無理はないだろう。
ヒカルも「ハヤテのあれは性格、とても真似できるようなものではない」という、第四章をはじめ苦手意識のあるヒカルはハヤテのそれが簡単に身につけられるものではないことを知るのだ。
そう、ハヤテの参謀としての冷静沈着さは後天的に習得できる「技」ではなく、先天的に元々持っている「本質」そのものであって、だから勇太は気づかない。
10歳の少年にそんな大人の話が理解できるわけではない、「戦士の心」はリョウマを通して教わった、でも「自分の周りにある日常」を大事にすることの価値・重みを理解できずにいる。
そんな2人の精神年齢の差がそのまま「大人=静=ハヤテ」と「子供=動=勇太」の衝突として浮き彫りになったのが今回の呪いの石を通した一連の物語だ。
ハンデを背負ってなお圧倒する、シェリンダ戦
今回のドラマとアクションとしての見どころは久々のハヤテVSシェリンダの一騎討ちだが、第十六章以来となる「一般人を守りながらの戦い」が描かれる。
だが、第十六章と違うのはハヤテも勇太も左足と左手が石化した状態であり、尚且つ勇太は少年だからどんなにリョウマに剣術を教わって戦績を残しても基本は「無力な少年」にすぎない。
そんなハンデを抱えた中で、いかに感情に左右されずに戦えるかが鍵だっただろうし、おそらくこれが「ギンガマン」以外の戦隊だったら絶対絶命で詰んでいるが、ギンガマンはむしろここからが本番だ。
剣の扱い方に加えて作戦立案も上手などそつのないハヤテだからこそこういう「制約」の中でどれだけ知恵を絞った戦い方ができるかということが逆説的に伝わるのである。
ハヤテは決してリョウマのように総合戦闘力が突出して高いわけでもなければゴウキのように力で押すわけでも、またヒカルのようにスピードで翻弄するわけでもないのだ。
読みと間合いと技術、まさに「戦術」の天才としての意地と矜持だけでシェリンダと再び死闘を演じるというのが完璧超人のヒュウガとはまた違った面白さがある。
ヒュウガがいわゆる「戦略」の天才にしてカリスマだとするなら、ハヤテは切れ味鋭い「戦術」の天才であり、それはリョウマのような直感型の天才とはまた違った特徴だ。
そんなハヤテが対峙することになるシェリンダはハヤテと同じ組織の2番手タイプであるが、ハヤテとの対比で言うならば「冷静」ではなく「冷酷」というべきだろう。
今回は完全にライバル戦でありイリエス云々は関係なく、勇太少年も含めてバトルそのものというか因縁それ自体が1つの物語・ドラマを産んでいる。
しかも、今回改めて気づいたのだが吹っ飛んでしまったシェリンダの剣を勇太少年が拾って投げる→ハヤテがキャッチして見事な袈裟斬りに持ち込むという流れも鮮やかだ。
実はこの流れは『鳥人戦隊ジェットマン』の50話で伝説と言われているブラックコンドル/結城凱VSグレイの一騎討ちのオマージュであるとも取れる。
あの伝説の一騎打ちでは最終的にお互いの武器を交換して使っていたが、今回はそこから着想を得てこの戦いに持ち込んでいるようだ。
毎回思うことだが、「ギンガマン」は至る所で90年代戦隊のセルフオマージュをしっかり取り込みながら、毎回がまるで終盤レベルのような緊張感の持たせ方である。
その中でも今回は「2番手同士の対決」という物語に直接影響しないこの贅沢かつ豊潤な細部を静かに、しかし確実に「劇的」に盛り上げてくれるのが本作の傑作たる所以の1つだ。
確かにリョウマとヒュウガの「炎の兄弟」やゴウキと鈴子先生、そしてヒカルとビズネラの因縁のような派手さはないが、逆に派手さがないからこその静かながら高度な駆け引きが際立つ。
これぞまさに「各メンバーごとの違いを個性として生かす」というスーパー戦隊シリーズの根幹そのものであり、だからこそ何だかんだ本作はしっかり「戦隊」として成立している。
崩れた仮面=ハヤテの素顔
そんなハヤテとシェリンダの戦いに助力はしたものの巻き添えを喰らって瓦礫の中に埋もれた勇太少年を前にして、ついに冷静沈着と言われたハヤテの仮面が崩れ去る。
あの無表情と言える冷静沈着な裏側にあったハヤテの「激情」がついに画面の運動として表層に露呈する、このシーンのすごさは決して他のキャラクターには出せないものだ。
勇太少年も困惑してしまうのだが、ここで勇太は決してハヤテが無機質な戦闘マシンではないことに気付かされ、ハヤテの奥底にあるものの本質を垣間見ることになる。
ハヤテの奥底にあるもの、それは決して怒りでも悲しみでもなくただ純粋な「大事な人を失いたくない」という強い思いであり、それが彼を突き動かしているのだ。
ヒュウガと同じ「厳しさ」の仮面で覆い隠しているだけで、本当は誰よりも仲間思いであることがこの痛ましいなんともいえない表情からは窺える。
勇太もそんなハヤテの崩壊した素顔を見て認識を改める、ハヤテに対して感じていた冷たさや距離の遠さは決してリョウマたちと変わらない「優しさ」であると。
だがその「優しさ」の表現が違うだけで、リョウマ・ゴウキ・ヒカルの3人が優しさを優しく表現するタイプならば、ヒュウガやハヤテは優しさを冷たく厳しく表現する人だ。
それを理解しているからこそ、ヒカルも「ハヤテのあれは性格、とても真似できるようなもんじゃない」と言ったわけだし、勇太の彼への認識が「尊敬」に変わった。
この違いは思っているよりも大きく、リョウマは勇太少年にとって「こうなりたい」という憧れそのものであり「理想」を純粋に体現してくれる存在なのだ(だから主人公でもある)。
対してハヤテは「近づけないが一目置く」という「現実」をしっかり教えてくれる「尊敬」であり、子供視点から見たヒーロー像の多様性がここでしっかり描かれているだろう。
だからこそ何だかんだハヤテはメンバーの中の参謀という絶妙な立ち位置の2番手として成立しているわけだし、今回しっかりとセンターを取っていた。
リョウマが第二十六章で正式にリーダーになるまでは彼が実質のリーダー像だったし、仲間たちもそれを自然に受け入れているのだ。
ハヤテは決して「言葉」で語るのではなく「立ち位置」と「行動」で物語る、まさに「粋」な人であり、だから社交性という意味ではメンバー一のものを持っているのだ。
そして何より「サヤ→ゴウキ→ヒカル&ヒュウガ」という流れの中で「次はぜひハヤテに来てほしい」というメイン回のローテーションというか構成の組み立ても抜群である。
まさに「語らずして語る」ことができるのがハヤテのかっこよさであり、「言葉と行動」の両方で語って見せるのがリョウマというところであろうか。
本作はとにかくこういう「一対一」の演出というかドラマにしっかり拘っており、戦隊だからと何でもかんでも一緒くたにまとめないところが素晴らしい。
鋼星獣は単なる「サポートメカ」ではなく「星を守る戦士」
そして今回もう1つ押さえておきたいポイントとして、巨大戦でギンガイオーがメインではなくギガライノスとギガフェニックスが出動するという流れが定番化していく。
今回から最終章までギンガイオーをサポートする「助っ人ポジション」で参加するという役割が明確であり、あくまでフィニッシュはギンガイオーに任せているのだ。
ギガライノスはどっしりとしたパワー型、そしてギガフェニックスがスピードで敵を撹乱するタイプであり、この差別化もまた素晴らしく、ギンガイオーにない動きをしている。
その弊害としてギンガイオーが前座というか若干のかませ犬体質みたいなものになってしまうのだが、まあ「ドラゴンボール」のヤムチャやベジータに比べたら扱いとしてはマシだろう。
しかもこの2体、今回改めて合体バンクが演出されていたが、CGとミニチュアをとてもうまくミックスして合体後の完成したボディに星獣のモチーフを重ねることでうまく「生き物」であることを演出している。
だからか、単なるメカではなく「星を守る戦士」として描かれているのがとてもよくできており、単なるテコ入れをただのテコ入れで終わらせるのではなく本作に馴染む工夫を凝らしているのだ。
こういう風に「演出上の必然」として使われるCGは全然ありだと思う、きちんとした目的に沿って使われているということであれば何も文句はないだろう。
ギンガマンはあくまでも「大自然」をバックに命を大事にしてきた原初的かつ最強の戦隊、そのイメージを鋼星獣にもきちんと通底させているところが素晴らしい。
おそらく今の戦隊だとそれこそ「シンケンジャー」のサムライハオーとかがそうであったように「全星獣合体」とか言って「アルティメットギンガイオー」とか生み出しそうだ。
もちろんそれは髙寺成紀の作風に1ミリも合わないからそういうダサい真似はしないのだが、まさにこれこそ「山椒は小粒でもぴりりと辛い」の代表例である。
1つ1つに対する細かな目配り・気配りといった差配がしっかりしているし、またそれが作品を通してきちんと表現されているからこそ、安心して見ていられるのだ。
しかも武器もまたギガンティスバスターとギガニックブーメランという全く違う武器なのも細かく差別化されているのも見逃せないだろう。
総括
今回に関してはアクションもドラマもそこまで大きく動くものではなかったが、ゴウキ→ヒカルに続きキャラクター同士の「温度差」がテーマになっていた。
冷静なハヤテに対して感情剥き出しの勇太というこれまで絡みのなかった対極同士がぶつかり合い、そして1つの和解に至るというゴール設計も見事だ。
また、巨大戦においても「影のサポート役」という意味でハヤテに割と近い鋼星獣の魅力をきちんと描いている。
根幹の部分がしっかりしているからこそ枝葉の部分にも魂が宿る、こういう「テーマがブレない回」もまた本作を支えているだろう。
総合評価はA(名作)100点満点中90点。



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