愛のない家より愛のある家。
落ち着ける空間は愛のある家だと思う。どれだけ贅沢なものに囲まれていても、どこか殺風景で、底冷えをするような家もある。質素なものに囲まれているのに、豊かさに満ちている家もある。人も空間も同じで、その人といる時に感じるものが暖かいものなのか、冷たいものなのか、正しいかどうかではなく、嬉しくなるものなのか、自分がダメ出しをされているように感じるものなのか、それとも、自分は自分のままでいいと思えるものなのか、余計なものを捨てたくなるものなのか。
ありのままの自分でいいと思う時、何かを付け足すことよりも、自分の身にまとわりついている不要なものが一つずつ剥がれ落ちて、純粋になる。呼吸が深くなり、視野が広がり、過去や未来は遠く離れて、現在が輝く。ありのままとは、捨てることだと思う。捨てることで、自分になる。何かを捨てる時、何かと一緒に過去が消える。見栄が消える。執着が消える。重さが消える。その代わりに、生命が輝く。今と、少し先の未来が輝く。
風邪を引いてぶっ倒れていた。見舞いに駆け付けた人がバッティングして、初対面同士が同じ空間にいる時間があった。自分で言ってしまうが、私がいる場所は、初対面同士が仲良くなりやすい。初対面同士なのにはじめて会った気がしなくて、保育園のように、幼稚園のように、肩書などを一切なくした「ただ、その人」と一緒に過ごせる。それは、多分、私が何者でもないからだと思う。自己紹介も名刺交換も社交辞令も自分を大きく見せる必要も、ない。私が何者でもないから、そこにいる人も、何者でもなくいられるのだと思う。
さみしさとはなんだろう。さみしさを認めることができない時、怒りや悲しみに振り回されたり、衝動的な買い物をしたり、過食を重ねたりする。私に限らず、今、さみしさを感じる機会は多い。人と関わりたいのだが、関わり方がわからない。マニュアル本やノウハウ本を読みそれらしいことを学習するのだが、手応えはない。表面的に取り繕うスキルだけは身についたが、壁や鎧は厚くなるばかりで、さみしさはさみしさのまま、頑丈な牢獄に閉じ込められている苦しさを覚えている。
魂の構造上、諦めることはできない。命は生きたがっている。無難に生きれば、生活はできる。だが、生活のために生きるほど、生命は呻吟する。生活とは違う生命を感じられる瞬間を希求する。愛のある家があるように、愛のある人がいる。人間とは、空間だと思う。どれだけ贅沢なものに囲まれていても、どこか殺風景で、底冷えをするような家もある。質素なものに囲まれているのに、豊かさに満ちている家もある。目に見えるものは少なくてもいい。愛のある家になりたいと思う。
おおまかな予定
2月5日(木)東京都文京区界隈
以降、FREE!(呼ばれた場所に行きます)
連絡先・坂爪圭吾
LINE ID ibaya
keigosakatsume@gmail.com
SCHEDULE https://tinyurl.com/2y6ch66z
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ばっちこい人類!!うおおおおおおおおお!!


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