純粋理性批判⑥
カントの超越論的演繹というのはわれわれの認識を成立させている悟性のカテゴリーを特定する方法です。 カント以前でカテゴリーと言えばアリストテレスが有名で、アリストテレスは「実体」「量」「性質」「関係」「場所」「時間」「位置」「状態」「能動」「受動」の10のカテゴリーを考えました。しかしカントはこれは単なる概念の寄せ集めで網羅的でないと考えます。
カントは「量」「質」「関係」「様相」に関する判断の形式からカテゴリーを導出します。 判断について言うと以下の12種類です。
「量」について
・全称判断(すべてのAはBである)
・特称判断(或るAはBである)
・単称判断(一つのAはBである)
「質」について
・肯定判断(AはBである)
・否定判断(AはBでない)
・無限判断(Aは非Bである)
「関係」について
・定言判断(AはBである)
・仮言判断(AはBならば、CはDである)
・選言判断(AはBまたはCである)
「様相」について
・蓋然判断(AはBかもしれない)
・実全判断(AはBである)
・確定判断(Aは必ずBである)
ここから12のカテゴリーを割り出します。
量(「単一性」「多数性」「全体性」)
質(「実在性」「否定性」「制限性」)
関係(「実体と属性」「原因と結果」「相互作用」)
様相(「可能性-不可能性」「現存性-非存性」「必然性-偶然性」)
以上です。ここにいたる推論を彼は超越論的演繹と呼びます。
カントは先天的総合判断が可能な一例として、三角形の内角の和が2直角であることを挙げているそうですが、これはア・プリオリな分析判断であることが考えられます。カントが先天的総合判断と称した内容については、晩年に「先天的総合判断とかア・プリオリな総合判断とかいうものはなかった」と振り返っています。カントの先天的総合判断(ア・プリオリな総合判断)というものについては、否定する存在者と肯定する存在者が存在していますが、カントのように先天的総合判断はなかったと否定することが妥当であると考えられます。
純粋理性批判においてカントは、形而上学の範囲や限界を理性能力の批判によって行う。
その最大の課題は「アプリオリな綜合判断はいかにして可能か」ということである。
分析判断は述語の概念が主語のそれにふくまれる判断であり、それに対して綜合判断とは主語概念を述語が付加するような判断である。
アプリオリとは先天的という意味で必然性と普遍性を必要とする。この問いは、それらを有しかつ拡張的な認識とは何かということになる。
ここでカントはコペルニクス的転回と言われる思考様式の革命を起こす。
「あらゆるわれわれの認識が対象に従わなくてはならない」という従来の考え方では、アプリオリな綜合判断は不可能である。そうではなくて、「対象がわれわれの認識に従わなければならない」とカントは考える。対象についての経験は、主観の認識能力によって可能になる。
上記のように、「対象がわれわれの認識に従わなければならない」とカントは考えましたが、後期にこれを誤りと見做します。カントは後期に「認識は対象に従わなければならない」と振り返ります。これは英国経験論の考え方に帰ったということになります。対象を見て知覚や印象を引き受けることになる経験論的な考え方が、実は間違っていなかったと解釈されうることをカントは考えました。対象を見て知覚を引き受けることは、必ずしも認識形式に従うわけではありません。視覚と脳の働きが、対象に従うことによって確立することが懸念されます。そもそも、認識というものはほとんどの存在者にあり得ることがない、という考え方もあります。認識があり得るのは特定の存在者だけに限られるというのがカントの考えたことでした。カントは認識は基本的にないと考え、認識形式も基本的にないと考えました。
それではどうしてア・プリオリな認識形式に入っているということから辻妻があうように説明すればよいか。それは、認識形式にア・プリオリに入っているのではなく、純粋統覚にア・プリオリに入っているというのが妥当であるというものです。純粋統覚、超感覚、超越論的統覚、といったもので、ア・プリオリに統覚することを提起しました。例えば、時間を統覚し、空間も統覚することは可能と考えるに至ったのです。前期カントは、時間や空間は認識形式にア・プリオリに入っていると考えていましたが、認識活動の希少性を気にかけ、統覚態で時間と空間を統覚していると考えるようになりました。この統覚態を自己統覚態とか超越論的統覚態と呼ぶことがあります。統覚するというのは、経験のバランスを取るということであります。例えば、「昨日泣いたけど、今日は笑顔でいる」ということが成り立つとき、昨日より気分がいいんだね、と統覚することが考えられます。


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