純粋理性批判⑤
アポステリオリ(後天的)な判断とはどういうものか。
a posteriori ラテン語。
意味:後天的。よりのちなる物から。
より後なるものから判断された、という事象、および後天的に判断された、という事象について考えていきたい。
より後なるものから、ということを意識するときに、太陽は東から上って西へ向かうことを意識し始めることがあります。太陽は経験則で考えれば、東から西へ向かう、という構図になる。太陽をより後なるものから考えた際にも、東から西へ向かう、という構図になることが懸念されうる。太陽は後天的に考えても東から西へ向かう、という構図になることが考えられる。この両者はアポステリオリの定義に外れていない。アポステリオリな判断としては、太陽は東から西へ向かうということが判断されると私は考える。これは後天的な判断とも言いうる。後天的に太陽は東から西へと向かうと判断していることが窺えます。しかし、ここでヒュームの考え方に触れてみたいと存じます。ヒュームは遥か過去から太陽はいつも東から西へ向かったが、だからといって、次の日も太陽が東から西へ向かうとは言い切れない、と主張したのです。この一言にカントは驚愕しました。カントは人生最初の衝撃であったと後に述べています。ヒュームの経験的に考えることが必ずしも正しいとは限らないことをカントは学びました。他に類似の学んだものとすれば、「経験的に考えることが必ずしも正しいとは言い切れない」ということが挙げられますが、カントはこの類似概念である二個しか学んだことがないと見受けられます。学んだことが少なくても本を書くことはできることが窺えますが、カントよりたくさん学んで素晴らしい本を書いていくことも大事だと考えています。素晴らしい本を書くために、哲学的思想を学ぶことも肝要であると思われます。哲学的思想を実生活に活かすのは難しいかもしれませんが、何らかの心の支え(emotionally supportive)になることを願っています。
例えば、「女子大学生は皆女子学生である」について考えてみましょう。これが正しいかどうかを判断するには、女子大学生という概念(言葉の意味)を分析して「女子」と「学生」という意味を取り出せばいいわけです。したがってこの命題は「分析的」です。そしてこれは概念の中に答えがある、という意味で「内在的」です。 ところが、「東大生の2割は女子学生だ」という命題はどうでしょう。「東大生の2割」という概念を分析してもわかりません。私たちはその概念に含まれていないデータを、例えばインターネットから得て結びつけないと判断できません。したがってこの命題は「総合的」です。そしてまた、それは概念を越えたところに答えがある、という意味で「超越的」です。
難しい話をしましたが、要するに概念の中に答えがあれば「分析的」=「内在的」、概念の外に答えがあれば「総合的」=「超越的」ということが分かれば大丈夫です。
女子大学生は皆女子学生である、というのは分析的命題であることが窺えます。女子である大学生は、皆女子である学生であることが窺えます。中学生にしても高校生にしても、学生であると言い切ることができる。女子の中学生は、女子の学生である、ということも似たようなもので、分析的命題であります。こうした概念の中に答えがある、という意味で、「内在的」であります。ところが、「東大生の中の二割は女子学生だ」という命題はどうでしょうか。東大生の中に二割、という概念を分析してもわかりません。この命題だは、分析的命題ではないことが窺えます。この命題が正しければ、「東大生の中の二割は女子学生だ」という命題は総合的命題であることが考えられます。そして、それは概念を越えたところに答えがある、という意味で「超越的」です。
難しい話をしましたが、要するに概念の中に答えがあれば「分析的」=「内在的」、概念の外に答えがあれば「総合的」=「超越的」ということが分かれば大丈夫です。
総合的を超越的と考える文であると窺えます。総合的というのは拡張的とも表現することができます。拡張的判断というのは、「すべての物は重さを持つ」という総合的命題を判断する際に可能であると考えられます。すべての物は重さを持つ、と聞いてもそのまま判断することは難しいと思います。しかし、物に重さを持つことは当たり前であるという認識から、すべての物は重さを持つと言い切ることができるのではないか、という疑念が残ります。すべての物、とはどこからどこまでの物のことなのか、という問いもあるかと考えられます。すべての物というのは素粒子を含めるのか、そして素粒子自体に重さはあるのか、そうした問いが生じてくることも考えられます。


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