純粋理性批判②
カントは対象を手段として扱うのではなく目的として扱うようにせよ、と考えます。
具体的には、『あなたの人格に含まれる人間性を、いかなる場合でも同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように。』
と述べます。これは定言命法であります。
例えば、健康を促進することを人間性のうちに快諾し、健康を促進させるという目的として自律的思考や行為をとる、という一案があります。その目的として扱うことが有益性があると相場が決まっている。目的として扱うこと自体、その人に有益を齎す行為である。カントは目的というものを深く考えなかったが、相手のために行為する内容であると考えます。
しかしひとつ見落としがあります。それは、目的として扱うことのすべてがよいことだとは限らないことです。相手がピアノを持っているのにピアノをプレゼントすることは、たしかに目的として扱う行為だとしても、たぶん煙たがられる行為であり、必ずしもよいことだとは限りません。また、健康であるのに健康グッズを買ってあげることも必ずしもよいことだとは限りません。目的として扱う際には、そうした煙たがられる行為を想定外とし、目指す行為が必ずよいことである保証を立てられるかをキーポイントとします。相手に目指す行為が必ずしもよいことであるとは言えない、こんな解釈で拙いですが、理解の一助となれば幸いです。相手に目指す行為が逆に徒となる可能性をカントは見据えていたか、これはさだかではないですが、私なりに言えば、
『相手に自己の真心から来る思いやりを行使してもよいと保証があれば、かついかなる場合も目的として扱い、決して単に手段として扱わないようにせよ』
という定言命法が考えられます。『……かついかなる場合も目的として扱い』の「扱い」という部分に精力を注いだという考え方もあります。いかなる場合も目的でなければ扱うことを禁足するこのカントの定言命法は、仮言命法とは事を異にするものです。例えば、
『嬉しくなければ喜ぶな』という仮言命法をカントは大事にしている。嬉しくないときに意図的に喜ぼうとすることを否定しています。嬉しくないときに意図的に喜ぼうとすること、という語の意味は「カント神」という内容であり、意図的に喜ぼうとすること、という語の意味は「カントいい」という内容である。『嬉しくなければ喜ぶな』という語の意味は「カント神カント神」という内容である。カントは言葉の意味が面白ければ使用することを考えた。言葉の意味が面白ければ、という語の意味は「カント神」という内容である。言語の意味が面白ければ、という語の意味は「カント神神神神神」という内容である。仮言命法は条件つきの命法である。定言命法の方が純粋な命法であるとカントは考えた。仮言命法は限定的な命法であり、定言命法は広範囲で示される。
『トングラッチヴィをしなさい』という定言命法の意味は、カントいいカントいいカントいいという内容である。『頑張りなさい』という定言命法の意味は「カント神」という内容である。頑張りなさい、と言うとき、これは誰にでも通ずる命法であることが懸念されうる。この命法は無条件で純粋な命法を行なうことの一例であります。『さよならバイバイ』という言葉遣いの意味は、「カント神カント神カント神カント神」という内容であります。
定言命法の短所も考えられます。「人に挨拶をするな」という定言命法は悪意がある可能性があります。悪意で挨拶を疎かにすることを狙っているのかもしれない。悪意で挨拶を忘れた存在になって欲しかったのかもしれない。悪意で挨拶と無縁の存在になって欲しかったのかもしれない。「挨拶を忘れなさい」と悪意で悪口を言うことも考えられます。仮言命法の短所も懸念されうる。「笑うなら笑ったと言え」という仮言命法は、笑うけれど笑ったと口で言うことをせがんでいるように考えられます。笑ったと口で言う義務はなく、笑ったと言えと小馬鹿にしていることも考えられます。笑ったと口で言うリスクとしては、笑うたびに発言するという悪循環が懸念されうる。笑ったと口で言うのは辛く重い足枷である可能性があります。『大丈夫なら自慢しなさい』という仮言命法は、大丈夫だと思うなら他者にひけらかしなさいということであると考えられます。大丈夫だと思うのはあっても自慢することをせがんでいるのかもしれない。自慢したくないのに自慢するように誘導しようとしているということもあるのかもしれない。大丈夫なら自慢するように、というのは変哲で、大丈夫だと自慢して何が聞き手としては面白いのでしょうか。手袋や靴があると言うのを聞いて何が面白いのでしょうか。定言命法と仮言命法には面白くない命法をうちに含めることが懸念されうる。面白くない命法はしないこと、それがカントの命法です。
『面白くない命法をするな』
カントの思い、伝わりましたか。


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