純粋理性批判①
“ 経験的な直感の対象が未規定である場合”
この表現にしっくりこなかった。
アプリオリな認識というものは純粋に予め認識形式に認識の原理として具わっていることがカントの言いたかったことである。アプリオリな認識は、われわれの意志による洗脳によって齎すことも可能であることを補足されたい。何かの情報がアプリオリに入っていたと信じることで、アプリオリな認識を確立することが可能である。カントは空間-時間の純粋な認識形式を取り上げたが、空間は場所的な観念、時間は前後的な観念で推し量ることが可能であることも懸念されうる。三角形が三角形であると知覚しうるのは認識機能にア・プリオリに情報があったから、とカントさんは考えていたんだろう。なかなか鋭い指摘ではないか。三角形は三角形であるとみなされるのは、三角形の情報が先天的に脳内にあったからと考えるのが妥当ではないかとカントは考えた。その情報網は知識というカテゴリーで換算することが可能であろう。先天的=アプリオリに情報が知識化されていることをカントは考えていた。知識化されているということは「正の情報」として脳内に具わっているということである。情報の女子語的意味は、『分からない』という内容であって、情報が本来分からないものとは決まっていない可能性がある。情報は分からない、と知っていると思って困窮したとしてもそれは女子語的意味を知っているのであって、本来は情報は分からないとは言わない。むしろ情報は分かるものと考えた方が合理的であることも考えられるであろう。正の情報というのは認識が進むにつれ知識化という事象として齎される。誤情報というのは、知識化されていないが、知識と誤認してしまう可能性のあるいわば危険な情報であることもある。正の情報というのは、それを聞いて脳内に記憶として残ったとしても、知識化するとは限らないことも懸念されうる。しかし、正の情報を知識化することは認識が深まれば可能な事象である。知識化というカテゴリーに認知能力というものも加味されることが懸念されうる。対象を認知判断することで、知識化することは可能である。認知能力があれば、何らかの対象を認知判断して知識化することは容易に可能である。美女が美しいことを認知判断して、美しいと知ることは現実問題としてあり得た事象である。ただ、美女を美しいと認知するためには、正眼することを必要とするであろう。美女が醜く見える盲目者にとっては、美女は醜い存在と印象付けられる。さらに、認知能力に欠けてしまうほどの能力者であれば、美女を美しいと認知判断することは不可能に近いはずである。認知判断を行うことができたのは、天才だけであったのではないか。したがって、美女を美しいと判断する可能性があるのは唯一の天才にしか握られていない。しかし、美的判断というものは5名にあった。これは趣味判断と同等であると考えてよいであろう。美的判断をするさいに、美に集中しなさい、と言われても、何の判断も起きない場合も懸念されうる。美的判断がしたければ、美的判断を信仰することを重視することが懸念されうる。美的判断を自らの意志で作り出す作業が実践理性的である可能性があるのである。こうした実践的な取り組みは、哲学外となるであろう。ただ、美的判断ができるようになって面白かったとか楽しかったとか云うのは理解に窮しないであろう。美的判断をすることが究極ふつうに見えても、誰かにとっては大事にされる趣味判断である。趣味判断をしたいときには、趣味判断を上手くできると信仰することもまた然りである。趣味判断をするといっても、たんに判断力を上げることも懸念される。判断力を向上させることは、カントの『判断力批判』で述べられていない。しかし、判断力に実践理性で向き合うことは、判断力について知識的な幅を広げるよい機会となるはずである。構成的判断としては、視覚で獲得した情報をもとに判断が行われる。情報が誤情報であれば、誤判断が脳内で発生することも考えられる。誤情報というのには、惑わされないと信仰することもひとつの予防策であろう。趣味判断において、楽しいと判断されるのは、自分の欲求が満たされている状態である場合が考えられる。楽しいという感情を持つ幼い子がいるが、彼らは楽しいを引き出す能力に秀でていることが考えられる。楽しい、という感情を引き出すには、自分のしたいこと、希望することを引き金にすることが考えられる。自分がしたい、医者として生活することや、貧しい人々を助けてあげることも、いざ達成してみれば、楽しいという感情に繋がっていることもあるであろう。楽しい生活をするさいには、ショーペンハウアーは苦を減らすことから始めればよいと言っているに違いない。苦しみを減らすこと、ダメなことを減らすこと、こうしたことをショーペンハウアーは述べていた。


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