なぜ「キャラクターはことば」なのか? たかくらかずきが飯能の森で試みる、人間とAIを隣り合わせる「儀式」(評:北出栞)

埼玉・ハイパーミュージアム飯能で開催されている、たかくらかずきの個展「キャラクターはことば」をレビュー

たかくらかずき展「キャラクターはことば」会場風景 Photo: Takashi Kawashima

埼玉のハイパーミュージアム飯能で、たかくらかずき展「キャラクターはことば」が3月1日まで開催されている。

会場内には、東洋思想にインスピレーションを受け、たかくらによって生み出された数々のキャラクターが集結し、来場者が実際にプレイすることができるゲーム作品も複数展示。入口には鳥居が設けられ、中央には巨大な立体作品《ハイパーマン》が鎮座して、「ハイパーゼロイチ音頭」と題された音楽が流れるなど、デジタルとリアルが交錯する祝祭的な空間が立ち上がっている。

ここで掲げられている「キャラクターはことば」というフレーズは何を意味するのか。北出栞が本展をレビューする。【Tokyo Art Beat】

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「スーパーフラット」からの脱却と「子供たち」の集う場所

ところで、日本の現代美術において「キャラクター」と言えば、村上隆が提唱した「スーパーフラット」という概念が長らく影響力を持ってきた。これは物語や人間関係を中心に展開する「美少女アニメ」的なキャラクター文化を主な参照点とした、あくまで「鑑賞者‐作品」の「見る‐見られる」関係を前提にした概念である。

自らもまた身体を持つ存在であることを括弧に入れ、一方的な欲望の視線を二次元表象に向ける「オタク」の主体性を戦後日本のネオテニー性(幼児性)と重ね合わせながら、主に平面作品として具現化されたその理念は、「日本現代美術」の国際的なアートマーケットに対するプレゼンテーション戦略であると同時に、ホワイトキューブにおける静かな「鑑賞」を唯一のモデルとする美術の制度に対してアイロニー的な効果を発揮するものでもあった。

会場風景 Photo: Takashi Kawashima

たかくらは、先に見たスマホでNFTアートを取得する仕組みなどを用いて、村上が前提とした美術の「見る‐見られる」モデルそのものに疑問を投げかける。ここで改めて確認したいのが、たかくらと価値観を共有するハイパーミュージアムが、参加型のワークショップを通じて、「子供たち」に向けて開かれたアートのあり方を提示しているということだ。そこでは「幼さ」は克服されるべきものではなく、既存の秩序をゼロ地点へと引き戻し、オルタナティブな通路を開くものとして肯定的に評価される。

この点において目を向ける……いや、「耳を澄ます」べきなのが、本展のメイン会場に流れる「ハイパーゼロイチ音頭」である。『塊魂』などのゲーム音楽で知られる三宅優が作曲し、たかくらが作詞したこの楽曲は、幼げな歌声を絶えることなく音頭のリズムに乗せてループ再生し続け、展示空間を包み込む。

会場風景 Photo: Takashi Kawashima

視覚優位の近代美術の制度において、音楽的な要素はしばしば二次的なものとして扱われがちだ。これは絵画や彫刻の制作が、いわば時間を凍結させることで作品を「客体」として「鑑賞」可能なものにする営みなのに対し、音楽の制作は鑑賞者をリズムのなかに巻き込み、ループ的な時間を「体験」させる営みであるという根本的な違いがあるためだろう。たかくらは会場を音楽で満たすことで、近代美術が前提としてきたリニアな成長神話――「見る」主体は視線の先にある「未来」に向かって「大人」になるべきである――から脱却し、何度でもゼロ地点へと立ち返る、自由な「子供たち」が集う場所へとアートを再定義しようとしているのではないだろうか。

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