月明かりに照らされ、鋭く光った長柄のカミソリを皮膚に切りつける。
左腕から僅かな痛みが脳に伝わる。
微細な創傷から赤黒い液体が滲み出して、錆びた鉄のような臭いが漂う。
最初はただの気まぐれだった。なんとなく、ただ、ちょっと疲れたから。そんなことを言い訳にして、やってみただけ。
やってはいけないことなのはわかっていた。しかし、赤黒く光る液体と、脳に焼き付く痛みが、私に生きている実感を教えてくれる。
別に続けたいほど、特別な理由はない。しかし、そんな非日常に依存してしまっている私がいた。
左腕は自傷と再生を繰り返して、痛々しい傷が刻み込まれており、到底人に見せられる状態ではない。
『明日の当番は……イチカか……。』
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「今日は……雨が酷いっすね………。」
最近、先生の様子に違和感がある。別に、特段変わったことはない。雰囲気が変わったわけでも、生徒に対する接し方が変わったわけでもない。しかし、なんだか、不自然に…左腕を気にしているような気がする。
この前もそうだ。私が左側に立った時、すぐに私に正面を向いて、左腕だけは絶対に見せないようにしていた。
最初は特段気にしていなかった。別に気にするようなことでもなかった。しかしこういった事が何度も続くのだ。様子が変わらないと言っても、気にせざるを得ない。
えも言われぬ違和感が、頭の中を渦巻く。なんだか、嫌な予感がする。 しかし、考えたところで答えが導かれるわけではなかった。
直接本人に聞いたら答えてくれるだろうか。いや、あそこまで過敏に反応しているのだ。結局、濁されて終わりだろう。
「とりあえず……様子を伺うしかないっすかね……」
私はいつもと変わらぬ支度をして、先生の元へ向かった。
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『ありがと〜イチカぁー…。イチカいなかったら、絶対終わってなかったよ…。』
「お疲れ様っす先生。お役に立てて良かったっす!」
先生の空になった、コーヒーを差し出し、今日一日の先生の様子を思い返す……が……やはり、特段変わったことはなかった。山のような仕事を二人でこなして……こんなことを毎日していると考えると、先生の体調が心配にはなる。だが、今までもそうだったのだ。急に先生が生徒に対してぼろを出すわけがない。
『あ、コーヒーありがとね。もう夜遅くなっちゃうからイチカは帰りな?私はまだ資料整理とか残ってるから…。』
「それぐらいなら私も手伝うっすよ…?ほら…二人でやった方が…」
『んー…ちょっとだから大丈夫だよ。気持ちはすっごく嬉しいけどねー…。女の子が夜遅くじゃ危ないし、雨も強くなったら困っちゃうからね』
確かに先生の言う通りではあった。残っている資料は数枚程度、私も明日は学校があるし、帰宅できるなら都合が良かった。
「……じゃあ…お言葉に甘えて…。今日はこれにて失礼するっす…!先生も、遅くまで残りすぎないようにしてくださいっすね!」
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「うーん…」
何故だろう、嫌な予感がする。そのまま執務室を出たのは良いものの、本当にこのまま帰っていいのか、シャーレの外に出て考える。
「今日は一日中雨っすね…。」
今日の先生も普段と変わらなかった。しかし、先生のことを考えると、足が重く、目の前の水溜まりを跨ぐことすら叶わない。
「こんなんじゃ……帰れないっすよ……。」
イチカは帰路とは逆方向、執務室に向かう。そうだ、こんなに雨が強いんだから、執務室に残る理由はいくらでもある。それに、こんな不安の中、次の当番の日まで待つことなんてできない。
そんな、言い訳ばかり考えて、執務室までたどり着く。
「ふぅー…。なにもない…なにもないはず……。」
私の不安は杞憂に終わってくれ。そんなことを思いながら、いつも通り、部屋に入って元気に挨拶しようとした、その時。
『っ…!』
先生が、何か一人で呟いている。まるで、痛みに耐えるような。そんな声にイチカの不安は高まり、そっと、一切の音を立てないように、執務室のドアを少し開ける。
そっと執務室を覗いてみると、そこにはカミソリで、自らの左腕を切りつけている、先生の姿があった。
左腕からは赤黒い液体がとめどなく溢れており、執務室の空気を、錆びた鉄の匂いが充満している。
これは、現実なのか?本当に先生が?自分に問いただすと、心臓の鼓動が上昇し、ドクッ…ドクッ…と脈拍を感じる。冷や汗が止まらない。否応にも、ここが現実であることを強く突きつけられる。
酷く動揺したイチカの身体は、自然と一歩、ドアから乗り出してしまっていた。
『…!?…あっ……いや……えっと……イっ…イチカ…?』
「あ……先…生…。それ…」
吐きそうなほどの現実を、開かれた眼が直視し、イチカは息が詰まる。
『えーっ……と…これは…その…。』
先生が左腕を隠しながら、たどたどしく伝える。しかし、そんな先生の様子を気にせず、イチカは何も言わぬまま先生に、一歩ずつ、ゆっくりと近づいていく。
『イっ…イチカ…?』
「なんで……こんなこと……。」
イチカは先生の前に立つ。怒りとも心配ともわからない感情が、イチカの中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、開眼された瞳に、涙を浮かばせる。
『……イチカ…。これは……なんて言えばいいんだろ…。』
口ごもる先生を気にせず、イチカは先生に抱きつき、頭を撫でる。先生が混乱していることはわかっているが、先生がどこか、遠くへ行ってしまわないように、体温を感じれるように、強く抱きしめ続ける。
「先生……話してほしいです。先生の…全てを。」
『でも…生徒にこんなことを話すのは…。』
「私なんかじゃ力になれないかも知れません。でも、話してほしいです。何時間でも…先生のためなら…私は……。」
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『上手く言えてるかわかんないけど…こんな感じかな…。』
先生は私の隣で、私の肩にもたれかかって話す。先生の重みを感じて生きていることを実感し、少し安堵を得て、私も身体を寄せる。
「はい…話してくれてありがとうございます…。」
『ごめんね…あんなところ見せちゃって…。』
「いえ……先生は頑張りすぎなんです。私たちのために。毎日、毎日、命の危険と隣り合わせなのに。」
イチカは先生の左腕を撫でながら、優しく語りかける。
「私たち…先生にとても感謝してるんです。だから……次…辛くなったときは、私を頼って欲しい……です。直接会えなくても…電話でも、話せた方が楽になると思いますから…。」
イチカは涙を堪えながら、先生の顔に両手を当て、話す。声も震え、涙は瞳に溜まり先生の顔も見えなかった。こんな姿見せたくない、そんな気持ちはあったが、先生のことを考えると、自然と身体は動いてしまっていた。
『イチカ…いいのかな…。私みたいな大人が生徒を頼って…イチカも忙しいだろうし…。』
「いいんですよ。私にも先生の気持ち、抱えさせてください。先生の辛い姿…もう見たくないです…。」
先生の顔を胸に埋め、愛おしそうに頭を撫でながら、優しく語りかける。
『ありがとう…イチカ…。』
先生のすすり声が聞こえる。イチカは先生の身体を左腕と翼で、より強く抱きしめ、頭を撫で続ける。少しでも、先生が安心できるように、頼れる人がいることを知ってもらうために。
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何分経っただろう。現実ではほんの、数分だったかもしれない。イチカの中では何時間にも感じるほど、先生との時間は濃密で色濃いものであったが、雨音で現実を取り戻す。
「落ち着きましたか…?先生。」
『うん…。もう大丈夫。イチカのおかげで落ち着いたよ。』
「それはよかった…っす。」
先生の表情を見て、少し安心する。しかし、本当にもう大丈夫なのだろうか。先生を信じきれない自分に嫌気が差したが、それでも、この気持ちだけは消すことができなかった。その時、イチカの頭に一つの考えが降り注ぐ。
「先生。結構…時間…遅くなっちゃったっすね…?」
『あっ。たしかに…ごめんね。こんな遅くじゃ帰れないよね…。』
「というわけで…………今日は泊まっていくっす!」
いつも通りの元気な声でイチカは答える。
イチカにとって、先生から今離れることは、何よりも不安だった。大丈夫と口では言っていても、その本心は先生にしかわからない。そのため、少しでも先生の側にいて、先生には仲正イチカがついていることを、知ってもらいたかった。
『今…客室用のベッド、クリーニング中で、私のベッドしかないんだけど…』
「先生が最初に言ったんすよ?女の子が夜遅くじゃ危ないって。それにベッドなら二人で入れば大丈夫っすよ。先生も女の子ですし。」
イチカは、たじろぐ先生の手を取りながら、得意そうに語る。
『……うーん…しょうがないね。今日だけだよ?』
先生はいつも通りの明るい笑顔で答える。
「ありがとうっす!先生!ほらっ!まずはお風呂入っちゃうっすよ!」
イチカは安堵し満面の笑みで答える。
『ちょ…!お風呂も一緒に入るの!?』
「当たり前っすよ!先生のためなら、どこへでもお供するっす!」
この一夜で、イチカの不安が消えるわけもない、それはイチカ自身もわかっていた。口に出さないだけで、心には先生への複雑な思いを抱えていた。しかし、今はただ、お互いの体温を感じて、生きていることに安心したかった。
先生、大好きです。だからいなくならないで──。
雨は止み、月明かりだけが、二人を照らしていた。
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- 盈虧November 30, 2025