「クジラのまち」石巻から① 捕鯨通じてできた縁「感慨深い」

くじら日記

捕鯨基地が並び、捕鯨船が往来する鮎川浜=明治41年ごろ(宮城県石巻市提供)
捕鯨基地が並び、捕鯨船が往来する鮎川浜=明治41年ごろ(宮城県石巻市提供)

「クジラとともに歩むまちづくりを力強く進めたい」。令和7年11月1日、宮城県石巻市長、齋藤正美氏の宣誓から開幕した「全国鯨フォーラム2025石巻」。鯨フォーラムは捕鯨文化の継承・普及啓発を目的に、「捕鯨を守る全国自治体連絡協議会」に加盟するクジラと縁ある自治体の持ち回りで開催されます。筆者も石巻を訪問し、太地とは異なる「クジラのまち」の歴史や文化、人々のクジラへの思いに触れる機会を得ました。

町史や書籍、記録などをたどると、石巻とクジラとの縁は天保9(1838)年からということがわかります。三陸最南端に位置する牡鹿半島から望む金華山沖合が、漁場として優れていることは古くから知られていて、仙台藩のもと、ここで捕鯨に関する種々調査が進められました。

のちに突取式捕鯨(銛や剣などの刺突具を手投げでクジラに突き刺し捕獲する漁法)が試され、7頭のクジラに銛を打ち込み、そのうち4頭が捕獲にいたりました。ただし、数年たっても捕獲数は伸びず、今後を期待できるものではなく「捕鯨業は発展するに至らなかった」とも記されています。

石巻がクジラのまちとして広く知られるようになったのは、明治39(1906)年からでした。山口県に本拠を置き、朝鮮半島周辺海域を主たる捕鯨場としていた東洋漁業株式会社が、牡鹿半島の突端の小さな漁村、鮎川に進出し、鯨体処理ができる近代的な捕鯨基地を完成させたのです。

捕鯨方法は、当時日本に導入されて間もないノルウェー式でした。エンジンを備えた鉄船に捕鯨砲を設置し、綱付きの銛を発射してクジラに打ち込むというもので、シロナガスクジラなど大型種の捕獲が可能でした。

「天与の鯨の宝庫」とも評された漁場に、近代の捕鯨技術が加わったことで、初年の捕獲数は32頭を記録し、江戸時代後期に試された突取式の実績を大きく上回りました。数年後には、鯨肉需要の増加もあって、国内に12あった捕鯨会社のうち9社が鮎川中心に基地を置き、鮎川の小さな浜にも巨大な捕鯨船が所狭しに並びました。

石巻の捕鯨の歴史に、太地が大きく関わる出来事を、小型捕鯨協会会長を歴任した磯根嵓氏が「小型捕鯨業の昔と今」に記しています。要約すると、「昭和8年、兵庫県出身で太地の女性と結婚して太地に定住した長谷川熊蔵氏が、船を鮎川に回航してミンククジラの捕獲を始めた」というものです。

この船「勇幸丸」(約5トン)は比較的小型で、5連の捕鯨銃と単砲を装備し、当時漁場に多くいた比較的小型のミンククジラの捕獲に適していました。これを契機に、鮎川ではミンク船と称される小型捕鯨船の建造ラッシュを迎え、のちに続いていく「小型捕鯨」が幕を開けたのでした。

実は、石巻の捕鯨史に名を残す太地の鯨捕り、長谷川氏は、現太地町長の三軒一高氏の、母方の祖父にあたります。三軒氏は「太地と石巻、それぞれが別々にクジラとともに歩んできたが、捕鯨を通じて縁ができた。自分にとっても感慨深い」と語りました。

こうして石巻は、鮎川を中枢に日本の近代捕鯨を大きく発展させ、今もクジラとの関りが続いています。

(太地町立くじらの博物館館長 稲森大樹)

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