『進化思考批判集』批判への応答
無限に続きそうなタイトルを回避した。
太刀川氏が三年の沈黙から鼻息を吹き返した理由は少し前に公開された「進化思考批判集批判」というnote記事だという。
なぜ沈黙を破るのか。
しかしながらつい最近、状況が変わりました。匿名のpersimmon氏が、『進化思考批判集』を学術的に検証する、20万字を超える記事「『進化思考批判集』批判」を公開されたのです。その理解の深さや精緻な書きぶりからして、進化学に精通する方と思われます。
太刀川氏が自分への援護射撃だ、と飛びつく気持ちはわかる。大々的に批判した側が実は間違っていた、という展開だとしたら確かに面白いので、X fka Twitterでも何人かリポストしていたのも理解できる。だがその『進化思考批判集批判』の内容を見てみると、『進化思考』同様、断定的な表現を繰り返すことで、専門知識を持たない読者に対し、偽りの説得力を錯覚させる書き振りで、ほとんど論拠が示されていない、いわば感想文であった。私と面識がなく『進化思考』を批判しているアカデミアの人たちも総じてスルーしているのはそのためだろう。学生がこんな感じのレポート提出してきたら、ちゃんと論拠を示すように、と突き返して終わりにするだろうから。それを「その理解の深さや精緻な書きぶりからして、進化学に精通する方と思」ってしまうのだとしたら、学術的なセンスに絶望的に欠けていると言わざるを得ない。そもそも匿名の何処の馬の骨とも知れぬ人物のnote記事に安易に飛びついて「法的措置」に打って出るとかリスキー過ぎないだろうか。当事者ながら心配になる。
「20万字」という量でそれっぽさが演出されているのかもしれないが、生成AI日進月歩のこのご時世、字数が多いことは費やした労力の証明にはならなくなってしまっている。手書きでない限り。
そもそも引用や引用の引用が大半なので字数カウントに意味あるかな?とも思うが、読了目安時間の目安にはなるかもしれない。
persimmonことかきのね氏にはX fka Twitterで最低限の反応はしたのだが、今年度の前期は非常に忙しく(企業経験者なので一般の教員よりも忙しい判定は厳しめの筈である)、ちゃんとnoteなどに書くことが出来ずにいた。
拙編の『進化思考批判集』の批判、というnote記事が公開されたようだ。まずはこれまでほとんど反応がなかったので、大変ありがたいことだと感じる。特に紙の本は最近全く売れていないのでそろそろ絶版にしようかと思っていたところなので、これを機に再度図書館などに蔵書してきただければと思う。
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) June 16, 2025
ただ残念ながら、
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) June 16, 2025
・この期に及んで匿名
・『進化思考』は未読
・非論理的な読み(ご自身は「読解力」だと誇っているようですが)
という欠点がありますね。
文字数が多ければ良いというものでもないです。まずはこの鼻息の荒さで本歌の『進化思考』をお読みになってはと思います。憤死必死ですが。
例えば非論理的だと感じる部分。
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) June 16, 2025
>>「エラー的な変異」と「変異によるエラー」を変異とエラーの定義文と見なす伊藤氏の解釈にはやや無理やり感がある
「定義文」などと大袈裟なことを言わなくても、この循環がまずいと思わない時点で「私は論理的な読み手ではありません」と宣言しているようなものだ。
「ヒットするアイデアが出てくる」云々の「普通の人ならなんなく理解できる表現に引っかかっていることからも、残念ながら伊藤氏の文章読解力は大して高くないだろう」に至っては笑止である。「なんなく理解できる表現」だとて誤りは誤りである。トークであれば聞き流すが文字にするとなれば話は別だ。
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) June 16, 2025
あと「普通」とか「一般的に」という言い回しは巧妙に相手に反論させにくくする常套句であり、議論に誠実でありたい場合は多用しない方が良い。私も意識せずに使っていないとも限らないので自戒を込めて指摘しておく。
— Jun ITO/イトウジュン (@itojundesign) June 16, 2025
かきのね氏は進化思考批判集関係のポストfkaツイートに片っ端から自身のnoteへのリンクをリプライしているようで、今回改めて見てみると、私もその後も何度かリプライされていたようなのだが、どういうわけか氏のリプライは一切通知が来ないのである。共著者である松井・林両名に訊いても同じように通知されていないという。どうやら「シャドウバン」という現象らしいが、何をどうするとそういう設定になるのか不明だが、Xでのお行儀が相当悪くないとそんな設定にはされないのでは…?と思う。通知されないリプライその他に気付くのは困難で、意図的に無視したわけではない。
またこの期に及んでの匿名は勘弁願いたい。我々は河田雅圭氏が当初匿名で暗躍していたことも批判してきたし、さらに別の研究者を匿名で関わらせていることも批判している。
こう言っては失礼だが、何処の馬の骨とも知れぬ方の「私は思わない」と言った主観を示されても「そうですか」としか言いようがない。
現段階(2026/1/31)で確認したところ、参考文献(というか註)は90個あるが、大半が「デジタル大辞泉」と誰かのツイート、あとは大学や学会のコラムのようなもので、論文的なものは15個ほどしかない。
これが斯界の権威のような人物であれば論拠を示さずともある程度の信頼性は担保されるかもしれないが、匿名の人物ではそういう訳にもいかない。
またそもそもの『進化思考』を読んでいないという設定に意義があるとあまり思えない。本当に読んでいないなどということがあるだろうか、という疑問もさることながら、本というものは単体で存在しているのではなく、他の本との関係性を持っている。あらゆる本は相互関係の中に位置付けられる。ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る本』(2016)なる書もあるが、読んでいない本も他の本との関係性があるからこそ語れるのだとその著者は言う。
我々の『進化思考批判集』はそれ一冊で完結することを目指したと書いたが、やはり本尊である『進化思考』を読まずに読むのは無理があると思う。その点では確かに我々の狙いは失敗しているかもしれない。残念ながらこうして文脈を無視した批判が出てきたこと自体がその証左とも言える。
だが、文脈を無視した批判はあまりに枝葉末節であろう。例えば、実際にサントリー学芸賞受賞→「専門家のお墨付き」という売り方の流れがあった以上、「『進化思考』は学術書ではなく一般書なのだから」という擁護は不毛である。
まあそんなわけで、意図せず放置したような形になってしまったが、まずは批判自体は歓迎したい。無風状態よりよっぽど良い。もう紙の本はほとんど動いていないので(PDFを無料配布しているのだから当然と言えば当然だが)、これを機に再度各地の図書館に蔵書を検討していただけると嬉しい。あとは読む人が判断すれば良いことだ。匿名と『進化思考』を読んでいないという2点が解消されない限り私は議論するつもりはないが、気になる人は各種生成AIと議論していただければと思う。
誤解しないでほしい。私は議論する気はないが、口封じをするつもりもない。太刀川氏のようにnoteやXの運営に記事やポストを削除するよう申請してもいないし、法的措置として弁護士より通知書を送付してもいない。消極的な歓迎と受け取ってもらいたい。
また、「確かに」と思う部分もないわけではない。例えば第2章の引用部に筆者(林)が下線を引いていることについて「(下線筆者)」を添え漏らしていることについての指摘があった。入試問題その他で引用の際に下線・傍線を引くことは一般的であり改変という程のものではないが、これはInDesignのファイルを編集していた私(伊藤)に非があろう。またヒューマンエラーの例で「野球」ではなく「野球ゲーム」としたことについての考察(一人で作戦考案と遂行ができるから)はその通りである。著者が自分で説明すると野暮になるところだ。
◇◇◇◇◇
さてここまでは総論だが、具体的な内容にも少しだけ触れておこうと思う。persimmon氏はどこかで「太刀川氏に謝罪をするべきだ」というようなことを書いていたと思うが、どこからその自信が湧いてくるのかよくわからないが、「もしかして『進化思考批判集』も信用できないの…?」と思ってしまう人もいるかもしれない。そういう人の不安を取り除くためにも「安心してください、間違ってませんよ」と言っておくのも大切だろう。
まず「まえがき」に対するところから。
「読解力」を勝手に発揮する
>>「エラー的な変異」(p.43)と書いた直後に「変異によるエラー」(p.44)と書いて循環定義をするなど、論理も破綻しています。
『進化思考批判集』p.5
ここでの「エラー」というのは単に誤り一般を指しているのではないだろうか?その場合やや同語反復っぽくもなるが、特にそれほど違和感はないだろう。また後者の「変異によるエラー」における「エラー」は形質のことを言っている可能性もなくはなさそうである。また、ここでの「エラー」が変異の中でも適応度に寄与するようなものを特に指しているということも考えられる。その場合も特に問題はないだろう。
またそもそも、「エラー的な変異」と「変異によるエラー」を変異とエラーの定義文と見なす伊藤氏の解釈にはやや無理やり感がある。
これに違和感がない人とは議論が成立しないな、と判断した部分である。同じ言葉を違う意味で解釈しなければならないような文は書いてはならない。一意に読めない文章は悪文である。文章とは、読み手に意味を正確に伝達するための道具であり、解釈が複数に分岐する時点で、その機能を十分に果たせていない。読者に「読解力」を発揮してもらわなければ理解できないような文は文学作品だけにしておくべきである。
「循環定義をする」という表現は別に「これが「定義文」です」と宣言することを意味しない。見なすも何も、書いていることが循環ができていないために前掲の6/16のツイートでも書いたが、非論理的な読み手であることの宣言のようなものである。
「文脈が分からない」
>>「重箱の隅を突ついてどうする」という批判も想定されますが、ミース・ファン・デル・ローエの言葉(とされる[11])「細部に神が宿る」(p.244)を太刀川さん自身が引用しているので、細部までの入念な検証はむしろ推奨される筈です。
『進化思考批判集』p.7
元の文脈がよく分からないが、太刀川氏は自分の主張に関して「細部に神が宿る」と述べていたのだろうか?そうでなければ「細部までの入念な検証はむしろ推奨される筈」というのは伊藤氏の勝手な解釈に過ぎないと思う。
「元の文脈がよく分からない」状態で可能な批判は「この本だけでは元の文脈がよく分からない」というものだけである。「勝手な解釈に過ぎない」かどうかの判断はできない。この理屈はお分かりいただけるだろうか。
憶測を書き連ねずに「元の文脈がよく分からない」なら『進化思考』を読んでから書いてもらいたい。
「適応」云々
続いて1章の「『進化思考』批判 – 学会発表梗概(松井 実・伊藤 潤)」に対する箇所。
「批判集で何度も繰り返されている主要な批判には非妥当なものが数多く存在する。著者三人全員が繰り返し述べている「適応」への指摘は完全に間違いだし、第二章で林氏が述べた適応以外の主要な3つの指摘 (p.61,62) もどれも的外れである。
「「適応」への指摘は完全に間違いだし」という指摘は間違いだし、この書き手の悪癖は論拠を示さないで「完全に」などと断定することにある。ここでは「後述」するところで一応論拠を示してはいる。
「適応」には歴史的定義 (祖先集団において有利に働き自然選択の産物として残ってきた形質) と非歴史的定義 (その時点の環境において生存や繁殖可能性を向上させる形質) という二つの定義が少なくとも存在し[7]、著者らが今述べているのは前者の歴史的定義である。
「[7]」と書かれているものである(「[9]」の河田雅圭noteの誤りではないかという気がするが)。
河田雅圭noteに基づいて、再三我々の理解が間違っていると主張しているのだと思うが、そもそも河田note記事自体いかがなものかと思う。適応の定義は1つではない、ということだが、私は日本の高校教育では「適応はプロセスではない」ということで統一されている筈だという認識だ。もし「適応」の統一された定義に問題があるというのであれば、高校の指導要領に介入するべきだと思う。
河田氏は自身の「適応」の定義を書いていないが、「非歴史的定義」が「多くの研究者が採用している」主流の定義であることを認めている。林による第2章も当然それを踏まえて長谷川眞理子氏をはじめとするいくつかの文献を引用している訳である。一方で「プロセス的定義」としては40年前(1986年)に出版された本と、アメリカの教科書を2冊挙げているだけである。この辺りの業界の潮流は門外漢には肌感覚でわからないので、素性不明の匿名の人物が「理解していない」とか訳知り顔で書いても説得力はない。
またpersimmon氏が挙げている文献は大学のサイトの「用語集」や研究所のサイトのコラム的なものばかりで、論拠とするにはちょっとカジュアルである。我々の記述が信じられない割には誰が書いたかもはっきりしないようなものでもすんなり信じられるようで、根は素直な人なんだなと思うが、査読付論文を挙げる努力をしてもらいたい。
さらに言えば、我々のことを無知だの何だのと言いたいのであれば、適応について多義的に説明したもの以外のソースは等しく信頼できないとして切り捨てなければならない筈である。
まあ河田雅圭監修の『進化思考』増補改訂版がサブタイトルを「変異と適応」から「変異と選択」に改めている以上、今更外野があれこれ言っても仕方がないと思う。
「強いふりをする」ことではない
非常に単純で深刻な間違いをいくつか紹介すると、『種の起源』はダーウィンとウォレスの共著ではない(p.44、p270、 p274、p.476)。ベイツ型擬態は「強いふりをする」ことではないし(p.107)、チンパンジーには尻尾はないしコアラはクマの一種ではない (p.119)。「水平遺伝子の移行」(p.192)は遺伝子の水平伝播の誤りだろう。セントラルドグマは統合的な進化論を意味しない(p275)。ランナウェイ説は行き過ぎた進化を意味しない(p326)。このような初歩的な事実誤認が平均して一見開きに一つ程度の割合で出現するため、当書は、デザインと進化の関連に興味があるもののこの分野に明るくない読者は避けるべき誤情報源となっている。
『進化思考批判集』p.21
💜これは本稿の初めの方でチラッと触れていた部分である。詳しくは後述するが、ベイツ型擬態に関しては明確に誤った指摘であり、ランナウェイ仮説についても理解が間違っている可能性が高い。
このように「非常に単純で深刻な間違い」や「初歩的な事実誤認」と自信満々に言っておいて間違っているのならば、残念ながら本全体の信頼性は大きく落ちる。
自信満々に指摘してくれているが妥当ではないので、残念ながらこのpersimmon氏のnote記事全体の信頼性は大きく落ちる。ベイツ型擬態は「強いふりをする」ことではないし、ランナウェイ仮説についても理解が間違っているという指摘の内容は珍妙なものである。
まずベイツ型擬態から。
|このように、自身の天敵にとって嫌な相手に化け、強いふりをするタイプの擬態はベイツ型擬態と呼ばれている。(p.107)
I: ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない。強いふりは直前の「トラカミキリは強力なアシナガバチにとても似た外観を獲得している」のmimicry(標識的擬態)の例が妥当だったのに、何故余計なことを書いてしまったのか理解に苦しむ。
『進化思考批判集』p.108
💛これは本稿の冒頭で触れたもので、p.21では「非常に単純で深刻な間違い」「初歩的な事実誤認」と評されているが、全くの的外れの批判である。前半の「ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない」という部分だけ読むと、「強いふり」における「強い」を「戦闘的強さ」として捉え、それで「有毒」や「食べると不味い」種への擬態は「強いふり」ではないと批判しているようにも見えるが、後半を見るとそうでもないらしい。後半では強いふりの例としてトラカミキリの標識的擬態を挙げているが、ベイツ型擬態は標識的擬態の一部であるし、そもそもトラカミキリの例は紛れもなくベイツ型擬態である。伊藤氏はベイツ型擬態が標識的擬態に含まれることを理解していないように思われる。一体彼の中で両者がどのように定義されているのか非常に気になる。
またアシナガバチへの擬態が強いふりの例として妥当と言っているが、アシナガバチへの擬態が有効なのはその有毒性による。しかし伊藤氏は「ベイツ型擬態の「嫌な相手」は「有毒」あるいは「食べると不味い」ということであって、「強いふり」ではない」とも言っており、これは明らかに矛盾している。ここで伊藤氏が言っているベイツ型擬態の「有毒」というのが、捕食後に効いてくる毒のみを言っている可能性もあるが、その場合その後の「食べると不味い」と合わせて、伊藤氏は捕食後に対抗策を持つ種に関してのみベイツ型擬態を定義している可能性がある。しかし、それはベイツ型擬態の理解として間違っている。
なお、「有毒」あるいは「食べると不味い」種の特定の非有害的形質を模倣することで有害能力にタダ乗りするベイツ型擬態を「強いふり」と表現することは一般的にそこまで問題ないだろう。
この部分はちょっとケアレスに書いたなと反省した。改めて『進化思考』の該当箇所を読んでみると、最も重要な誤りは、異なる次元の話を混同していることにあった。カメレオンの擬態は「化け」る行動であり、進化によるベイツ型擬態は形質(表現形)であるが、「ふり」をする、つまり行動として同次元で語っていることだろう。
また「強いふり」という表現は私が書いたものではない。『進化思考』本文での表現である。この辺りも『進化思考』を読んでいないという設定から生じる不毛な批判である。少々長くなるが、前後の文も含めて改めて『進化思考』を引用する。
カラフトライチョウは、雪に紛れると見えなくなってしまう。イシガレイは、砂と同化して獲物が来るのをじっと待つ。さらにカメレオンやタツノオトシゴは、自分の背景色に合わせて皮膚の色を自在に変え、さまざまな環境に擬態する。 こうして、相手に見つかりたくない被捕食者は、懸命に周囲に擬態することでその身を隠し、その変装を見破る側の狩猟者のスキルもまた進化の過程で磨かれていく。
逆に、目立つことで自分の身を守ろうとする者たちもいる。このタイプの擬態をミミクリー(mimicry)という。 ミミクリーのなかには、自分よりも強い種に化けることで身の安全を守ろうとする擬態も数多くある。トリニダード島などに生息するダリウスフクロウチョウのサナギは、活毒を持ったガボンアダーという蛇の顔にそっくりだ。フクロウチョウは、その名の通り、羽の上に目を開いたフクロウそっくりの模様が描かれている。カミキリムシの一種、トラカミキリは強力なアシナガバチにとても似た外観を獲得している。
このように、自身の天敵にとって嫌な相手に化け、強いふりをするタイプの擬態はベイツ型擬態と呼ばれている。私が子どもの頃の「週刊少年マガジン」に、喧嘩が弱いことを隠すために、あえて強そうなヤンキーの格好をする主人公を描いた不良漫画「カメレオン」が連載されていたが、あれはベイツ型擬態の話だったのか。
良い例えかわからないが、ベイツ型擬態は生まれつき刺青みたいな痣があるようなものだ。『進化思考』の「あえて強そうなヤンキーの格好をする主人公を描いた不良漫画「カメレオン」」という記述に答えが含まれているが、「強いふり」は作品名通りカメレオンの行動に近いもので、進化は関係ない。
ちなみにカメレオンの変色は擬態よりもコミュニケーション(感情表現)や体温調節のためだとする研究があるが、とりあえず今は置いておこう。
Devi Stuart-Fox ,Adnan Moussalli; Selection for Social Signalling Drives the Evolution of Chameleon Colour Change, 2008, https://doi.org/10.1371/journal.pbio.0060025
伊藤氏は捕食後に対抗策を持つ種に関してのみベイツ型擬態を定義している可能性がある。しかし、それはベイツ型擬態の理解として間違っている。
前半はその通りで、私のベイツ型擬態の理解は「有毒」なものへの擬態である。
ベイツ(Henry Walter Bates)はアマゾンで蝶の研究をして1861年に「Contributions to an Insect Fauna of the Amazon Valley」を書いた。https://archive.org/details/contributionstoi00bate/
その後、1890年にポールトン(Edward Bagnall Poulton)が以下のように定義した。
A. Protective Mimicry (Bates). The former refers to the Mimicry described by Bates, in which a palatable species (the Mimic) resembles a nauseous species (the Model) and thus gains the advantage of the Warning Colours of the latter
ここでは「nauseous」の語が用いられている。「吐き気を催す」といった意味である。だがまだここでは「防衛的擬態(ベイツ)(Mimicry (Bates))」という書き方であり、「ベイツ型擬態(Batesian Mimic)」という語の初出はおそらく同じポールトンの1897年の講演のようである。
ベイツ型擬態をこの「食べても美味しくない」あるいは「有毒」のものに擬態することとして書いている論文は近年でも見られる。例えばSceienceAdvancesの論文とその論文に関する東大のリリース(2018)
Batesian mimicry protects animals from predators when mimics resemble distasteful models.
DOI: 10.1126/sciadv.aao5416
ベイツ型擬態:無毒な生物種が有毒種の紋様や行動を似せて天敵からの捕食を免れる擬態。ダーウィンと同時代の博物学者ヘンリー・ウォルター・ベイツが最初に見出した。
https://www.k.u-tokyo.ac.jp/information/category/press/8081.html
またカエルが毒ヘビに擬態する事例の論文(2019)。
Batesian mimicry is a phenomenon in nature whereby a non-toxic animal emulates a noxious one, seeking to deter predators by deception.
https://doi.org/10.1080/00222933.2019.1669730
という訳で、本来というか狭義には「美味しくない(有毒)」ものへの擬態という理解で良いと思うが、広義にはトラカミキリの例もベイツ型擬態とされていることが多そうだ。そもそもアシナガバチが「強い」のも有毒だからである。
というわけでこの部分は次回改訂で書き改めようと思う。だが、基本的な論旨が変わるわけではない。
なお、「有毒」あるいは「食べると不味い」種の特定の非有害的形質を模倣することで有害能力にタダ乗りするベイツ型擬態を「強いふり」と表現することは一般的にそこまで問題ないだろう。
進化の結果を「模倣」と表現するのは明らかに誤りである。
また、ランナウェイ仮説については共著者の松井氏に対しての部分だが、「runaway」の語に対して辞書(Oxford Advanced Learner's Dictionary)が登場する。
| こうした行き過ぎた進化は、現在の進化生物学ではランナウェイ現象
| と呼ばれている。(p.326)
M: ランナウェイ説は行き過ぎを意味しない。性淘汰は、傍目には暴走runawayしたかのように奇妙な形質を生み出すことがあるが、彼らの遺伝子にとってはそのような形質を生み出すほうが適応度をあげるのだから、奇形のような非適応的な、行き過ぎた変異とは一線を画す進化である上に、自らの生存率を害するほどに奇妙な形質に投資しすぎ暴走した者は淘汰されるので、行き過ぎないギリギリのところまで発達させる。つまり、自然淘汰を性淘汰以外の淘汰と定義すると、自然淘汰と性淘汰が逆の方向をむいている場合、それらが釣り合うところまでモテと生き残りの両者を同時に最大化するように進化する。また、花の生息地の消滅のような環境の急変によって絶滅するからといって行き過ぎた進化と断ずることはできない。そもそも行き過ぎという言葉が主観的であり、少なくともそのような、特定の花にあわせて進化するのは適応であり、長期的にその適応のおかげでニッチを獲得できていたのなら、その当時は十分に成功した生物種といっていいと思う。しかしどんな生物種も著者がいうように完璧ではなく、しばらくは利益が大きくても、急な環境の変化に脆弱になるような変異はしばしば起きているはずだ。進化には先見性がないためだ。その後絶滅したからといって行き過ぎと評するのは後知恵だろう。
『進化思考批判集』p.157
💛残念ながら非常に多くの誤りがある。まず、ここでのrunawayの意味は 「① (of a person) having left without telling anyone. ② (of an animal or a vehicle) not under the control of its owner, rider or driver. ③happening very easily or quickly, and not able to be controlled」(Oxford Advanced Learner's Dictionary 10th edition, [36]) の③であるので、「行き過ぎ」と表現することが誤りとは別に言い切れない気がする。またランナウェイ仮説の要点は選好対象の形質が正直なシグナルとは限らないところにあり、そのようにして個体の質を真に保証しない形質が進化し続けることを「行き過ぎ」と表現することはそこまで変ではない。
えっ語学の辞書の定義を元にした批判ですか? 生物学辞典とかじゃないと何の意味もないと思うが…。
◇◇◇◇◇
とまあこんな感じである。
persimmon氏が匿名&『進化思考』を読まず文脈を踏まえない、というスタンスである限り私は相手をするつもりはないが、何度も改訂する気力と体力と時間があるのなら観客席から野次を飛ばしていないでちゃんと我々と同じフィールドに入って来たらどうだろうか。学会員でなくても多少参加費を多く払えば発表させてくれる学会も結構ある。勿論事前に査読はあるが。少なくとも現状よりも相手をしてくれる研究者が増えるのではないだろうか。


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