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千切豹馬の好きな人が私という噂が流れている/Novel by みりん

千切豹馬の好きな人が私という噂が流れている

9,460 character(s)18 mins

千切くんはどんどん進化していくね〜〜進化がおせーぞブルーロックス……(最新話感想)
サイトの連載ものです。支部では更新予定ありません。続き気になる方がいたらDMよろしくお願いします!!!!!><

名前変換はありません。みょうじ表記です。

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 テレビの向こうの正義のヒーローだとか、漫画の中の王子様だとか、誰しもが一度はそういった存在に憧れを抱くと思う。

 私にとってそれは、机を何個かはさんだ先にいるクラスメイトの彼だった。

 小学三年生のとき、総合の時間。運動会の種目決めをしていた。体育の成績は真ん中よりも少し下、運動が好きじゃない私は簡単な種目を選んで残りは応援席で応援を頑張るつもりだった。運動会は、体育が好きで、運動が得意な子が頑張ればいい。そう思っていたのに。

 自分の目に映るピースサインが震える。私のそれを囲むように周りの手はグーで握られていた。

「じゃあ、リレーの選手はみょうじさんに決定」

 先生のやけに明るい声が耳を通り抜けていく。チョークが置かれる音がして、顔を上げるとリレーの項目に自分の名前が追加されていた。最後まで決まらなかった、女子のリレー選手。じゃんけんで負けた人がそれになると先生が言ったのはついさっきのことだ。種目が決まっていなかった女子が数人集まり、地獄のじゃんけんが始まる。何回目かのあいこが終わったとき、私の一人負けが決まってしまった。無理だ、リレー選手なんて。ふるふると小さく頭を振る私なんて目に入っていない様子の先生が席に戻るように促してくる。何も言えなくて、黙って席に戻っても手の震えは止まってくれなかった。
 放課後になっても、家に帰っても、頭の中はリレーのことでいっぱいだった。夜になって布団を頭まで被ってぎゅっと目を瞑ってみても、脳裏に浮かぶのは次々と他の選手に抜かされていく自分の惨めな姿だけ。それを見るクラスメイトたちの落胆した表情が一面に現れていく。本番もまだなのに、そんなことばかり考えてしまうから次の日の朝、学校に行きたくないとお母さんに訴えてみた。お母さんは眉を下げて、具合が悪くないなら学校に行きなさいと私の背中を押すだけで休むことは許してくれなかった。

「みょうじ、足遅ぇな」
「え、あ、」

 言われるまでもなく自覚している言葉が、容赦なく突き刺さった。同じリレーの選手になったクラスメイトの男子は、わざと大きな声でみんなに聞こえるように言っているのではと思えてしまう。リレーの練習なんて、公開処刑でしかない。私が運動音痴なんてこと、体育で皆見てるはずなのに。改めて言わなくてもいいのに。ぎゅっと握った指先から体温が冷えていく。「今からでもメンバー変えれねえのかなー、これじゃ勝てねー」と可笑しそうにケラケラ笑う男子の顔が見れなくて俯く。じわじわと目の縁に涙が浮かんできた。メンバーを変えて欲しいなんて、私が一番願ってる。やだな、やだな、運動会なんて、早く終わっちゃえばいいのに。楽しいことなんて、何一つないのに。

「無駄なこと言ってないで練習すれば?」

 じゃり、と砂を踏む音が近くに聞こえて不意に顔を上げた。私を馬鹿にする男子と私の間に、もう一人増えていた。バトンをポンポンと、空いている掌に当てながら、彼――千切くんは気だるそうに立っている。

「別にみょうじが遅くても関係ないし」
「いや、でも速いやつの方がいいじゃん……」
「俺より速い奴いる?」

 振り返った千切くんが、ん、と手に持っていたバトンを私に差し出した。戸惑いながらも、それを受け取ると千切くんはまた男子の方に向き直る。

「俺が勝つから、関係ない」

 千切くんは、誰よりも速かった。かけっこも、50m走も、彼に勝てる人なんていなかった。いつも誰よりも先頭を走っていた。だから、リレー選手に千切くんは立候補することもなく皆からの推薦でまず一番に決まっていた。
 千切くんに何も言えなくなった男子は、そのまま口篭りぷいっとそっぽを向く。そんな男子を気にもとめず、千切くんはまたくるりと私の方を向いて、目を合わせてくる。バチッと視線が合って少しだけ驚いてしまう私は、手に持ったバトンを胸の前でぎゅっと握りしめた。

「みょうじは、俺にバトン渡すことだけ考えて走れよ」

 バトン渡す練習しようぜ、と千切くんが続ける。その言葉にただ黙ってぶんぶんと頷けば彼は私から距離を取るために走り出した。数メートル先で、手を挙げた千切くんがいいぞーと声をかけてくる。「はいっ!」と思わず裏返ってしまった返事に遠くで千切くんが笑った。
 不思議な感じだ。さっきまで憂鬱で、怖くて、最悪な気分だったのに、走り終わった先に千切くんが待っていると思うとなぜか安心できた。私からバトンを受け取った千切くんがそのままグラウンドを走る。ぐんぐんと、千切くんの背中が遠ざかる。千切くんが走る度、彼の赤い髪が風に揺れる。すごいな、と思った。千切くんはすごい。楽しそうにグラウンドを走る千切くんを見ながら、私も悲観してばかりじゃなくて、リレーを少しは頑張ろうとそう思えた。

 そうして迎えた運動会当日。プログラムは滞りなく進んでいく。お昼休憩も終えて、あっという間に学年別リレーが始まった。ドキドキと早鐘を打つ心臓を抑えながら列に並んで出番を待つ。応援席では、みんなが声を上げて私たちを応援していた。そして、いよいよ私たちの番。パンっと鳴るピストルの音が響くと同時に応援席の声がより湧き立つ。私にバトンが回ってくるときには、私たちの順位は他を大きく離して一位だった。バトンを受け取って、大きく腕を降って、私の中で一生懸命走る。千切くんが、この先で待っている。あと少し、あと少し、彼に最後、バトンが渡れば、それでいい。あと少し、そう思ったのもつかの間ズルリと、足が滑ったのが分かった。
 そこからは一瞬だった。身体に感じる痛みも、まとわりつく砂の感触も、応援席が大きくどよめいたのも、私の横を通り過ぎていく他の選手が次々とアンカーにバトンを渡していくのが見えた。サッと血の気が引くのを感じる。転んだ、転んだ、こんなところで。あと少しだったのに、一位だったのに。みんなが私をどう見てるかなんていやでも分かる。だめだ、こわい、こわい。頑張ろうって、思ってたのに。立ち上がらなきゃいけないのに、それすらバクバクと心臓が大きく動いて上手くできなかった。どうしよう、こわい、こわい、頭が真っ白になって、色んな音も聞こえなくなってきた、そのときだ。

「みょうじ! 走れ!」

 顔を上げた先で、千切くんが私に向かって叫んでいる。

「絶対勝つから! だから、俺を信じて最後まで走れ!」

 千切くんの声だけが聞こえる。ぐっと身体に力を入れて立ち上がる。ふらふらしながら、足を動かす。ただでさえ遅い私の足は、転んだ痛みで余計に動かない。それでも、彼にバトンを渡すために走った。

「っ、ちぎ、り、くん……!」

 千切くんがバトンを受け取ったと思えば、その後は風が吹いたようだった。一人、また一人と千切くんが順位を上げていく。ゴールテープを切ったのは、ゴール前ギリギリのところで最後の一人を抜き去った、千切くんだった。
 わっ、とゴールした千切くんの周りに人が集まっていく。「千切すげー!」「何人抜きだよ! やべー!」いろんな言葉をかけられながら、もみくちゃにされている赤色を、遠くから眺める。本当に、勝っちゃった。一位を、とっていた。千切くんが、本当にしてしまった。人の波をかき分けた千切くんの姿がはっきりと見える。バチッと、視線が合った。千切くんは、ニッとその目を細めると手にしていた一位の旗を掲げた。その姿が、網膜に焼き付いて、二度と忘れることが出来なくなった。

 この日から、千切豹馬は私のヒーローだった。

 千切くんとは友達でもなんでもなくて、ただのクラスメイトで、ただの同級生でしかない。学校で会っても、会話をするような仲じゃない。ただ、私が千切くんのことをチラチラと伺う時間が、運動会の後から増えただけ。
 千切くんは、クラスの男子に比べたら静かな方だ。おふざけですぐ先生に怒られている他の男子を冷ややかな目で見ている。その目に熱が宿る時はサッカーをしているときだけだった。誰よりも速く駆け抜けて、ゴールを奪う。その時の千切くんは、クラスにいる時よりも生き生きとしていてキラキラ眩しいくらいだった。
 小学校を卒業しても、そのまま同じ学区だったから千切くんとは中学校も一緒になった。同じクラスになることはなかったけれど委員会が一緒になって、月に一度の集まりで彼を見るのが楽しみの一つになっていた。それからもう一つ、楽しみになっていたのが放課後の図書室。委員会の活動ですという顔をしながら少しの時間だけ、図書室の奥の窓からサッカー部の活動を眺めるのが好きだった。赤い髪を風に纏わせる彼は誰よりも目立っていて、誰よりも注目を集めていた。小学校のときから人気はあったけれど、中学校にあがってからはますますその人気に箔がついた。クラスの女の子も、廊下ですれ違うだけの名前も知らない先輩も、千切くんってかっこいいよねと口にしていた。千切くんは、あまり恋愛とかそういったことに興味がないようで告白されたと聞いても全て断わっていると噂を耳にする。中学校で彼と会話をしたことは、一度もなかった。

 中学三年生になれば、やってくるのは高校受験だ。オープンスクールに友達と一緒に足を運んだり、学校で行われた説明会で話を聞いて受験する高校を決めた。仲のいい友達とは離れてしまうけれど、卒業しても絶対会おうねと約束した。そうしてやってきた、合格発表の日。

「あ」

 二つの声が重なって宙にぷかぷかと浮かんでいく。志望校の羅古捨実業高校に足を運んで、合格発表を確認しに来た時だった。数字が一面に並んだ掲示板の前で見慣れた赤色がそこにいた。

「みょうじも羅古捨だったんだ」
「え、うん。千切くん、も」
「まあ。サッカー強いとこだし」

 そうか、サッカー。中学のときも、千切くんのサッカー部での活躍は目まぐるしいものだった。そんな彼が強豪校を選ぶなんて容易に考えられる。手にしている受験票を視界に入れ、「もう合格分かった?」と尋ねると彼はこれから見るところと前に歩を進めた。私もそれに続くように彼の隣に並んで掲示板に向かう。

「みょうじはなんでここ?」
「私、ITっていうかメディア系のことが学びたくて」
「へー、すっげえ。そういうのって何やんの?」
「え!? えー、なんて言うのかな……何かを、こう、動かすためのシステムを作る……みたいな……?」
「ふーん。俺は詳しくわかんないけど。いいじゃん、かっけぇ」

 ケラケラと、千切くんがその長いまつげに縁取られた目絵を細めて笑う。憧れの、ヒーローにそう言われて悪い気はしない。まだ全然、私も分からないからと照れくさくて俯きながらそう返事をする。掲示板の前では喜んでいる人、肩を落としている人、様々だ。私の数字は、と受験票に書かれた三桁をもう一度確認してから顔を上げた。目で近い数字を追っていく。私の、数字。いくつもの数字の中から、ようやくそれを見つけた瞬間、小さく開いた口から思わず感嘆の声が零れ出す。

「あった?」
「あ、あった! 千切くんは?」
「俺も」

 やった、と思わず手を叩いて喜んでしまった。ハッと我に返りしおしおと縮こまる私に千切くんは、ぷはっと吹き出して私の名前を呼んだ。ちらりと伺うように視線だけあげれば口角を上げた彼が掌をこちらに向けて指をさしている。これは、まさか。一つの思い浮かんだ考えに従うように、私も彼に向けて掌を差し出す。パチンと肌がぶつかる音が耳に届いた。

「じゃ、高校もよろしくってことで」

 そう言うと、千切くんは一足先に合格者への説明と資料を配布しているところへ向かっていく。私は、そんな千切くんの背中と、彼とハイタッチした右手を交互に眺めては動けずにいた。冬の冷たい風が、身体を通り抜けていって体温を奪っているはずなのに、むしろ奥底から熱が沸騰しそうだった。まともに、会話したこともない私のことを千切くんは覚えていた。高校もよろしくと言っていた。千切くんの笑みと言葉がいつまで経っても忘れられない。でもここでいつまでも呆然としていられない。フラフラとした足取りで、私も千切くんが向かった場所へと進んでいく。春になっても、また千切くんに会える。その事実が一足先早い春を運んでいるように思えた。

 高校に入学しても、千切くんとはクラスは同じにならなかった。そもそも希望している学科が違うので、どんなに願っても三年間同じクラスになることはないのだけれど。
 千切くんはサッカー部に入部し、そこで早々に先輩相手に実力で言い負かし名前を広げていた。私と同じクラスのサッカー部が、千切くんのことを話題にしているのを耳にしてはやっぱり千切くんはすごいと勝手に嬉しくなる。
 そんな千切くんだから、女子の間で人気が出るのもあっという間だ。サッカー部の練習が放課後始まればフェンス越しに千切くんを見ようと多くの女子が集まっている。でも千切くんは集まった女子生徒になんか興味がないようにゴールだけを見つめていた。それがすごくかっこいいと思った。高校でもよろしくなんて言われたけれど、私と千切くんの関係なんて表す言葉が見つからないくらい希薄なものだ。遠くから勝手に千切くんを眺める高校生活が始まっただけ。ただそれだけだったのに。

 ある日、一つの噂が流れ出した。女子に興味ない千切くんにも、好きな人がいるという噂。その相手が、私のクラスにいるという話。同じ中学だったという話。その相手の名前が、私と全く同じという話。

「ほんとにほんとに千切くんと何もないの?」
「ない、ないよ! 関わりだってほとんどないのに……!」
「でも千切くん本人が言ってたって聞いたよ」
「みょうじなまえなんて、この学校に一人しかいないでしょ」
「うわさでしょ……!? そんな、根も葉もない噂信じない方がいいよ!」

 わっ、と友人たちに泣きつくように言っても彼女たちはむしろ面白がっているようだった。人気者の彼に関する、誰が言い出したかも分からない噂、信じられてしまうなんて千切くんに迷惑だ。ちゃんと否定し続けなければと思う。高校に入って会話したこともないのに。千切くんと話したのは、合格発表のあの日が最後だ。ぶんぶんと頭を振ってどうしようと頭を抱える。私をからかっていた友人たちの声が1オクターブ高くなったかと思えば「ちょっとちょっと」とバシバシ肩を叩かれる。

「噂をすれば、彼じゃん!」

 バッと顔をあげれば、扉の先に千切くんが立っていた。ぶわわ、と彼の顔を見たら一気に顔が熱くなるのを感じる。千切くんはうちのクラスのサッカー部に何やら声をかけていた。部活の話だろうかと思えば、会話を終えた様子で手を合わせたクラスメイトの男子が席に戻っていく。チラッと千切くんの視線が動いた。ビビットピンクの瞳が、確かにこちらを見ている。目を離せずにいれば、口元に手を寄せた千切くんが口を開いた。

「みょうじ!」

 クラスメイト全員の視線が、私に向けられる。突然呼ばれた名前が、一瞬自分のものだとは分からなかった。オロオロと狼狽える私を他所に千切くんは自分の元に来るように手を動かしてくる。ああ、間違いじゃなかった。視線が集まり、居心地の悪さを感じながらも彼の元へ向かう。近づいたら、目を合わせられなくて私の視線は千切くんの顔ではなく彼の首元に向いていた。

「わり、古文の教科書って持ってる?」
「あ、ある。あります」
「貸してくれね?」
「あ、ちょっと、待って」

 ロッカーの中に置きっぱなしにしていた教科書を取りに戻る。お目当てのものを手にして、再び千切くんのところに足を進める。クラスメイトが皆、私の顔をチラチラと見てはコソコソと何かを話していたのが気になってじわりと背中に汗が滲むのが分かった。「これ」と千切くんに教科書を差し出せば彼の手がそれを受け取っていく。

「サンキュ」
「あ、うん」

 それだけ告げて千切くんが自教室へ戻っていく。その背中を見届けることなく私も足早で教室の中を進み席に戻った。わざとらしく音を立てて椅子に座る私に、ニヤニヤと口角を上げる友人とキッと睨みつけるがなんの効果もない。噂は噂でしかなく、明らかな嘘なのだから気にしなければいいのに、私の頭は千切くんのことを意識してしまっている。一度そうなってしまうと、今更平然とした態度など、とれるわけもなく。「助かった」と教科書を返しに来てくれた千切くんに対しても「次移動教室だから!」と早々に会話を切り上げ彼の顔を見ることなくバタバタを去ることしか出来なかった。
 遠くから千切くんを見ることが、中学の時から続いてる私の楽しみであったのにそれすら意識をしてしまいできなくなってしまった。廊下ですれ違う時でさえ、千切くんが私を見つけなければいいと顔を伏せて歩くようになった。千切くんのことが見れない。千切くんにも、私のことを見てほしくない。あんな噂すぐに消えてなくなると思ったのに、千切豹馬の好きな人はみょうじなまえという言葉は毎日のようにコソコソと耳に届いた。

 千切くんは嫌じゃないのだろうか。私なんかの噂なんて。千切くんが一言、「そんなわけない」と否定してくれればきっと終わるのに。なんて、放課後の図書室のカウンターで考える。高校でも図書委員を選択した私は月に回ってくる当番の仕事を行っていた。学校の中で一番静かなこの空間にいることは、嫌いじゃない。

「これ、返却します」
「はい。預かり――」

 最後まで言葉を紡ぐことができず、残りの音が静かに喉の奥に落ちていく。顔を上げた先にいたのは千切くんだった。放課後なのに、制服で、図書室にいるなんて。サッカー部は今日休みなのだろうか。パッと目を伏せ千切くんが持っている本に手を伸ばす。ハードカバーの表紙の硬い感触が伝わるはずだった。伸ばした私の手に触れたのは、人の体温だ。驚きで顔をあげれば、しっかりと千切くんと目が合った。

「……久しぶりに目、合ったな」
「え、あ、っと」
「委員会の当番、忙しい? 時間ある? 俺は、話あんだけど」

 伸ばした私の手を、千切くんが捕まえて離さない。目が泳いでいる私と反対に、千切くんはじっと私を見つめていた。

「ま、まだ終わらない、から」
「何時まで?」
「えっと……」
「……ま、いいや。みょうじが終わるまで待ってる」

 するりと、千切くんの手が離れていく。それなのに、私を見つめるその目は肉食獣みたいで逃がしてくれないことを悟らせる。ガラ、と音を立てて開いた扉から千切くんが図書室を後にしていく。再び訪れた静けさに反して、私の心臓はバクバクと大きな音を立てて動いている。逃げなきゃ、逃げなきゃ。当番が終わるまで残り40分ほど。残された時間で、どうやって千切くんから逃げるかだけを考えた。

 チャイムと同時に、司書の先生が「鍵閉めとくから帰りなさい」と告げてくる。その言葉に返事をしてカバンの肩紐を握りしめる。待ってると言っていた千切くんは、いったいどこにいるのだろう。ガラガラと、一つしかない出入口の扉を開けた。

「おつかれ」

 扉の横に、千切くんはもたれ掛かるように立っていた。ひゅっと息を呑む。ゲームオーバーが早すぎる。あ、あ、と言葉にならない音を漏らす私に千切くんが一歩近づく。その瞬間、私の足は飛び出していた。廊下を走り抜けて、昇降口に向かう。走り出す瞬間、「は?」と千切くんの声が微かに聞こえた。階段を降りて、昇降口まで数メートルまで来たのに。後ろからぐんっと腕を引かれてそのまま近くの空き教室へと引っ張られた。バンっと扉が閉められ、すぐそばの壁に背を預けた私の逃げ場をなくすように手をつく千切くんが小さくため息をついた。

「みょうじが足の速さで俺に叶うわけねえじゃん」
「うっ」
「まあ、小学校の時よりは速くなったんじゃね? 俺もだけど」

 ハハッと笑う千切くんの声が耳に届く。そろそろと視線を上げれば、彼の顔は全然目が笑っていなかった。きゅっと口を閉じた千切くんが、もう一度私の名前を呼ぶ。その声は、いつも自信に溢れている千切くんからは考えられないくらい細い声だった。

「俺、何かした?」
「……え?」
「ぶっちゃけ、みょうじに何かした覚えねえんだけど。でも、何もないのに避けられるのって、きつい」
「ち、ぎりくん、知らないの……?」
「は? 何?」

 本当に分からないという様子で、首を傾げる千切くんに言葉を失う。あんなに、あんなに学年どころか学校中に広がっているんじゃないかってぐらい耳にしない日はなかったっていうのに、とうの本人が分かってないって、そんなことあるわけない。

「千切くんの、噂……」
「噂ってなに」
「だから、その、千切くんの好きな人の、噂……聞いてない!? 結構前からずっと話題なんだけど」
「俺の……? あー、あ? いや、知らない。けど、思い当たる節はあるわ」

 今度は私が首を傾げる番だった。千切くんは多分あれだよなと続ける。

「みょうじのことが可愛いって言った」
「……へ、」
「好きとは言ってないけど。でも、それから俺の好きな人って噂が流れ出したんじゃね」

 思いもしなかった言葉が聞こえて、身体が氷に覆われて固まってしまったのではないかと思った。じわじわと、奥から熱が湧き上がって固まった氷を溶かしていく。今、いま千切くんは何を言ったのか。

「い、いま、なに」
「ていうか、俺がみょうじのこと好きかもって聞いて意識したってこと? へぇー」
「だ、そんな、」
「顔真っ赤じゃん。可愛い」
「っ、も、からかわないでっ、噂、違うなら千切くんが、否定して」
「なんで」
「なんでって、好きじゃないなら、」
「違わねえし。俺がみょうじのこと好きなのも本当のことなんだから、否定する必要なくね?」
「は、あ、」

 パクパクと、酸素を求める魚のように口を動かすことしかできない。千切くんが放った言葉の意味が、上手く処理できないでいる。そんな私の様子を見て、千切くんが笑う。

「期待していいんだ?」
「う、え、っと」
「俺、みょうじと付き合いたいんだけど。俺のこと好きだったら、頷いて欲しい」

 千切くんは、私のヒーローだった。千切くんが信じろと言ったあの瞬間から、私は千切くんを信じている。千切くんが、嘘をつく人じゃないって分かっている。憧れのフリをしてずっと千切くんのことを見ていた。そんな相手が、私のことを好きだと言っている。なんで、どこを好きになったのなんて、今すぐ答えが欲しいわけじゃない。ゆっくりと、首を縦に動かした私を見て、千切くんは目を細めて「ヨッシャ」と小さく拳を握った。
 いつかは、千切くんから私を好きになった理由を聞きたい。今はこの状況が熱に犯された頭が作り出した夢じゃないことを確認するために頬を抓る。痛みが確かにそこにあった。「夢じゃねーって」と千切くんが呟く。

「……千切くん」
「ん」
「すきです」

 ぽつりと独りごちるように落とした私の想いに、千切くんはパチパチと瞬きをして「知ってる」と笑うのだった。

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