エロゲーが好きなやつは閃光のハサウェイを見ろ
「神がいなければ、僕が神だ」
違う記事を踏んだわけではない。安心してほしい。
見てきました。"機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女"。
公開初日、TOHOシネマズ 渋谷の21時45分。
5年ぶりに会うおじさんと、そのほかオタクのおじさんたち。
独身・独身・既婚・独身という異種混合のオタクパーティだ。
4人のおじさんがハサウェイ・ノアを見るために年始の渋谷に集結した。
話を戻そう。
人は、絶望の淵で神を失ったとき、どう振る舞うべきか。
答えは二つしかない。自らを全能の神と定義し、孤独に耐えるか。あるいは、空っぽになった祭壇に代わりの偶像を据えるかだ。
人間は、何かにすがらなければ呼吸すらできない。それが「大きな存在」であれ、「小市民としての本能」であれ、「新たな人類の革新」であれ。
己の小ささ、弱さを埋めてくれる"よりどころ"を必要とする。
ハサウェイ・ノアにとって反地球連邦活動"マフティー"とその指導者としての日々は、まさにその空洞を埋めるための祭壇だった。
限られた地球環境を守る。
特権階級者を打倒する。
12年前の英雄の意志と決意を受け継ぐ。
高潔な思想を掲げて、ハサウェイは秘密裏にテロ活動に邁進する。
それは英雄を父に持つエリートの若者にとっては人生を台無しにする行為であった。
では、ハサウェイ・ノアがテロリストになってでも本当に埋めたかった心の空白とはなにか?
人生の成功が約束された、将来有望な若者を駆り立てるものとはなんだったのか?
主人公の動機に深く切り込んだのが今作だ。
ハサウェイの心にあったのは巨大な虚無感だった。
少年時代に芽生えた罪悪感が、大人になった今も彼の人生に深い闇を落としている。
誰かに裁いてほしいが、裁いてくれる神はいない。
父は偉人だが、自分と似た境遇や価値観を持っていない。そして、アムロ・レイはもういない。
かといって、世俗に染まることもできない。
世間が敷いてくれるエリートのレールに迎合できず、美女たち(とおっぱい)に堕落することができるも、それも選べない。
本音をぶつけられるのは心の中にクェス・パラヤの亡霊だけだ。
そんな彼が選んだ人生の使い方は、マフティー・ナビーユ・エリン(正当な預言者の王)としての緩慢な自殺だった。
彼が許せないのは深すぎる世界の仕組みではない。自分自身なのだ。
この構図は冒頭で引用したドストエフスキーの『悪霊』にも通ずる。
主人公、スタヴローギンは革命に身を投じることで、自分の内側にある虚無感を覆い隠そうとした。
革命サークルの仲間であるキリーロフは、神の失われた世界でも人間が生きられることを証明するために、自らがひとり自殺をする。自殺を通して新たに人が神となって我意のなかで生きてゆけると主張する。
「神がいなければ、僕が神だ」と。
その主張は逆説的に、神なき世界で人間は自分のことを自分の確固たる意志で決めなければならないという諦観を孕んでいる。罪さえも自ら裁かなければならない。
映画の終盤、ハサウェイは幻影と激しい口論を交わす。
その姿はどこか『罪と罰』の自問自答の風景にも重なる。
それはハサウェイが信仰の危機、すなわち「人間が自らの意志で生きていけるかどうか」を問われているともいえる。
彼は映画の中で危機的だ。
聴覚過敏や、精神を病んでいる描写。
自らを安寧に導いてくれるものを無意識に遠ざける態度。
視聴者の感想でいじられがちな"おっぱい描写"は、クェス(理想、亡霊)との対比だ。
空虚と破滅、そういうものが上質なアートワーク、表現に富んだ声優の演技、重厚感のある音響に詰まっている。
そして誤解を恐れずいえば、こういった表現対象は大衆向けエンターテイメントと馴染まない。
それは富野由悠季自身も、過去にインタビューの中で言及している。
富野:
映画を見ていて思うことがあるのは、悲しい映画というか、実存主義的な映画もとても好きだった時期もあったんですけれども、そういう映画ってやっぱり楽しくないわけですよ。女性のヌードが出ていても、それが実存論に入った時に「ネエちゃんの体だけでやめてくれ!」という気分があります(笑)。
映画の上映前。
上映前CMはガンダムだった。
ガンプラの魅力を語るファンの老若男女たちのインタビューがフィルムに映り、想像力を通して人間を豊かにする文化としてガンダムが掘り下げられる。
IPとしてのガンダムやガンプラ文化が成熟したことを実感させる。
そして上映。
始まるのはエリートの苦悩、エリートを俗世へ引き戻そうとする女性の肉体・放漫な生、ガンダムが人間を握りつぶす映像を隠す権力者たちの思惑。
エンターテイメントと背反する要素をラッピングするためにおしゃれなポップス、洋楽の名曲で表層を物語を美しく彩る。
最高じゃないか。
我々がかつて通過した、ある種のエロゲーの構造だ。
ONE ~輝く季節へ~。Fate/stay night。天使のいない12月。すばらしき日々(厳密には10年代だが)。
まるで90年後半からゼロ年代に生まれた実存主義の匂いをまとったあの作品たちのような味わいがある。
これらの作品の根底にあるのは、常にシンプルな問いだ。
一体どうすれば人間は生きていけるのか?
生きるとはつまり、希望があるということだ。
そしてこういったジャンルのエロゲーは得てして美少女との絆、関係を描くことによって物語に希望を示す。
いわば家族構築の物語ともいえる。
エロゲーが好きなやつは閃光のハサウェイを見ろ!
※ただし痛みのあるエロゲーが好きな人に限る
だが、閃光のハサウェイは美少女と関係構築を通した魂の救済の物語ではない。
それは、原作がそういうジャンルの作品ではないから。
えいえんからの帰還を待ってくれる人も、桜咲く季節に衛宮邸で帰宅を待ってくれる人も、投身自殺に付き合ってくれる人も、いない。
なぜなら富野由悠季原作だから。
ハサウェイの運命は"神"の力によって確定されている。
ハサウェイ・ノアが如何にして救済されるのか。
あるいは、救済されないのか。
希望があるとしたらそれは何なのか。
視聴者も、制作陣も悩ませる作品だ。
今作が前作から5年近く期間が空いたのは、作品としての難しさの証左にも見える。
完結エピソードとなる次回でどうなるのか。
如何にしてエンターテイメント性を担保するのか。
どうなってしまうんだ、ハサウェイ。
どうなってしまうんだ、制作陣。
どうなってしまうんだ、俺たち。
いいか、もう一度言うぞ。
エロゲーが好きなやつは閃光のハサウェイを見ろ!
※ただし痛みのあるエロゲーが好きな人に限る
ところで本作二周目をみたいなと思ってます。
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