『星獣戦隊ギンガマン』第二十六章『炎の兄弟』
◾️第二十六章『炎の兄弟』
(脚本:小林靖子 演出:田崎竜太)
導入
もうこの話は本作はもちろんのことスーパー戦隊シリーズのファンならば誰しもが一度は聞いたことはあるであろう、「ギンガマン」を代表する象徴的なエピソードである。
「八月の超傑作群」の最終章でもあると同時に来たるべき怒涛の後半戦に向けての新たな土台が築かれ、本作が今この瞬間をもって完成する。
だが、それだけだったら単なる「いい話」「深い話」で済むだろうが、今回はここに改めてそれだけでは収まりきらない「残酷さ」もあることを新たな視点として提示したい。
今回の再視聴に関して、私がなぜ書いているのかといえば、以前にはなかったというか今まで誰しもが指摘してこなかったものに光を当てるのが私のなすべきことだからである。
前回までが話作りとしても特撮としてもかなり凝ったというか「圧縮」された作りであるのに対して、今回は特撮もお話も特別そんなに凝ったものではない。
確かに新機軸は提示しているが、それ以上に今回に関していえば「取りまとめる=集約させる」という側面が強く、だからドラマの1つ1つは実はそれ自体大して劇的なものではないのだ。
リョウマとヒュウガ、それぞれのキャラクターの特性を浮き彫りにしつつ、それぞれがどのようにして「ヒーロー」になるのか?を物語の側面から描くこと自体は珍しくはない。
例えば『秘密戦隊ゴレンジャー』でもキレンジャーの交代劇や『太陽戦隊サンバルカン』ではそれこそレッドであるバルイーグルの交代劇が描かれたことがある。
それにもかかわらず、なぜこのお話が「ギンガマン」はもちろんのことなぜ歴代スーパー戦隊の中でも印象に残り、語られ続けるほどのエピソードになり得たのか?
そこを明らかにしていく試みが今回のレビューであり、ギンガマンが本当の意味で「完成」を迎えたと同時に黒騎士にとっては「これから」でもあるのだ。
そう、「終わり」と「始まり」を両方兼ねているのがこのエピソードの美しさでもあり、また「残酷さ」でもあるわけであるが、どうもコメントや感想を見る限りだと前者しか語られていない。
かつての私も「美しさ」ばかりに目が奪われていたのだが、今回改めてその裏側というか表面に露呈している残酷さという現実に気付かされた。
だから確かにここまでの話で一番評点は高いのだが、それは決して綺麗な面だけを見てのことではなく、その裏側にある残酷さも含めてのことである。
小林靖子という脚本家が「曇らせ」だの「主人公いじめ」だのという訳のわからないレッテルを貼られ続けてきたのもその「残酷さ」故のことであろうか。
いずれにせよ、ここから間違いなく「ギンガマン」という作品の考え方がどんどん変わっていくのだが、その変わっていく前段階を見ていくのが今回だ。
果たして、『海賊戦隊ゴーカイジャー』でも継承されていたこのエピソードに何が示されているのか?
第3クールのメインテーマは「能力バトル」
まずはアクションや戦闘の面に関して言及しておくとするなら、第3クールのメインテーマは「能力バトル」にこそあり、これが実は結構面白いベクトルだ。
前回ではやや批判的に論じてしまったが、第3クールの行動隊長がなぜイリエスなのかといえば、それはギンガマンとは違うベクトルで勝負できる能力の持ち主だからである。
今回でいえばゲルトゲルトがそうだったが、ブドー編までの試練を乗り越えて戦力的には最強になったはずのギンガマンを鏡に封印してしまうという作戦を取った。
まさにこれはジャンプ漫画で『ジョジョの奇妙な冒険』『幽☆遊☆白書』辺りで開拓された「能力バトル」であり、3クール目の戦いの厄介さはここにある。
そう、前半2クールのサンバッシュ魔人団とブドー魔人衆は言うなればギンガマン5人が戦いの経験値を磨き上げ、また「ヒュウガへの思い」という精神的な弱点を克服する流れだった。
それはアクションや戦闘の側面から見れば、真っ向勝負でぶつかって相手に勝つための強さを手にしてくための期間であり、特にブドー編は最終的に強さのインフレが凄まじいことになっている。
だが、その土台があった上でも別ベクトルで特殊能力を持った相手によって無効化され苦戦してしまうというのはよくあることであり、だから「ギンガマン」は単なる「強さのインフレ」ではない。
四軍団の格差がどうこうなんて言っている想像力と知性の低い輩は本気で画面に露呈しているものを見直して読解力を磨き直してこいという話である。
漫画『幽☆遊☆白書』では暗黒武術大会で強さのインフレが頂点を迎えた後、今度は能力バトルによって幽助たちの強さを無効化するという変化球の展開があった。
本作もまさにその流れを汲んでおり、戦力的に獣装光ギンガマン&超装光ギンガイオーを封じ込めるほどの妖術・魔術を展開しているわけで、決してイリエス魔人族自体がサンバッシュやブドーより力が上というわけではない。
言うなれば「ギンガマン」は総合格闘技のようなものだと思っており、四軍団がそれぞれ得意とする種目が違うだけだ、要は銃撃戦が得意な奴・剣戟が得意な奴・魔術が得意な奴・破壊工作が得意な奴。
それぞれの得意分野と求められる資質・戦い方に差があるからその違いに苦戦しているように見えるだけで、実際は四軍団に縦の序列としての力の差があるわけではない。
その観点から見ると、3クール目のイリエス編でなぜヒュウガがギンガマンと共に戦う必要があるのかがわかる、イリエスのあの狡猾な知略と能力バトルにはベテランのヒュウガの隙のなさが必要だからだ。
今回だって敵が仕掛けてくる鏡への閉じ込めに対応できる警戒心と同時にヤートットの頭に匂いをマークしてモークに追跡させるというリョウマにはできなかった知略を見せている。
それを見て落ち込むリョウマが落ち込む展開もあるわけだが、逆に言うとこの3クール目はリョウマが遂にヒュウガの凄さを目の当たりにする段階へと入ったのだ。
ヒュウガの老獪な戦い方をリョウマが間近で見てその技を盗み、同時にこれが後述する「炎の兄弟」に繋がっていくわけである。
だから、リョウマたちがここからは「成長」もそうだが、それ以上に単に剣術・アース・体術を磨き上げるだけではどうにもならない段階へ入ったと言えるだろう。
ストレートな戦力強化だけでは勝ち抜けない複雑性がアクション面と示されており、そこをわかっていないと習慣TKBのように「四軍団に力の差を設けさせたことが失敗だ」と的外れの批判を展開する。
『ギンガマン』の失敗は、最初からいる4人の幹部を1人ずつ投入しているのに、強さに明確な差を持たせすぎたということなのだ。
全然違う、「強さに明確な差を持たせすぎた」のではなく「どれだけ戦力強化しても、それだけでは対応できないほどに複雑化している」のが「ギンガマン」という作品の一筋縄でいかぬ特徴だ。
要は最強の力を別ベクトルの力をもって封じ込めるという風に戦いのベクトルが異なるだけであって、だからどのクールで戦ったとしても力の差はそんなに大きくないのである。
前線に復帰したヒュウガとリョウマの格差
さて、今回改めてドラマのメインとして描かれるのは「炎の兄弟」というサブタイトルにもある通り、最前線に復帰したヒュウガと現役リョウマの格差であり、ここにまず注目したい。
普通の王道系と言われる作品ならば半年間の戦いで強くなったリョウマがヒュウガを超える活躍を見せ「やるな」とヒュウガをあっさり超えさせる展開にするだろう、少なくとも男性作家ならそうしてる。
だが、本作はこの点が違っており、逆に先輩であるヒュウガが改めてリョウマと並んで戦ってもやはりまだヒュウガの方が格上であるという残酷な現実が示されているのだ。
これがまず1つ目の「残酷さ」であり、第一章から示されていたヒュウガとリョウマの絶対に埋まることのない戦士としての格差であり、リョウマは浮かない顔をしている。
一見リョウマを凹ませているようでいて実は違う、リョウマがそういう反応を見せるようになったということはもはやリョウマにとってヒュウガは「憧れ」ではなくなっているということだ。
第一章の頃はそういう力の差を目の当たりにしても単純に「凄い!」と言っていた、つまり「憧れ」に留まっていたものがこの段階に入ると「目標」あるいは「超えるべき壁」になっている。
ブドー編で黒騎士ブルブラックとの相剋に打ち勝ち黒騎士を超えることで兄への想いという弱さにもなっていたものに打ち勝ち、「個」としてのギンガレッド/リョウマは確立された。
そんな黒騎士を乗り越えたリョウマが乗り越えるべき次の壁が他ならぬ自分の兄・ヒュウガであり、それを小林靖子はまず「戦士としての力量」として示してきたわけだ。
そうなのだ、持って生まれた戦士としての格差なんてそう簡単に埋まるわけがない、後天的な努力ではどうにもならないものを小林靖子は決して嘘をつかずに描く。
これは『未来戦隊タイムレンジャー』以後でも継承されており、例えばタイムレッド/浅見竜也の金持ちとしてのステータスとタイムファイヤー/滝沢直人の格差がそうだった。
だからリョウマも間違いなくこの半年間で経験値も積んで自信も身につけ戦闘力も人格面も陶冶されているのだが、それでは簡単に追いつけないのがヒュウガである。
ヒュウガは最初から完成された完璧超人であり、5人の憧れ・目標であると同時に師匠という側面も持っているからこそ小林靖子はまず物語の表舞台から引き摺り落とした。
小林靖子はとにかく強い奴には手傷を負わせたり物語から外したりといったことを容赦無くやるのだが、同時にその完璧超人をして未熟さのある主人公を殴ってもくる。
だからリョウマとヒュウガの格差などそう簡単に縮まるわけがなく、単純に戦闘経験値を積めば勝てるのであればそれは単なる「ドラゴンボール」でしかない。
だが「ギンガマン」は決して「ドラゴンボール」ではない、あくまでも「戦隊」に収めないといけないのだから、どう落とし所をつけるかになる。
個人的には後半のリョウマとヒュウガの一対一のシーンの前振りである2人の格差を見せるこのシーンこそ、2人がこの先どうなるかが示されていた。
「炎の兄弟」と呼ばれるシーンの美しさと残酷さ
そして後半のメインである今回の見所、リョウマとヒュウガの一対一のシーン、ここはもういうまでもなく最高の脚本・演出・演技でカメラワークもライティングも完璧だ。
リョウマ「兄さん……さっきの話だけど」
ヒュウガ「星獣剣、返すっていうのか、俺に」
リョウマ「そうしようかと思ったよ。今日久しぶりに兄さんの凄さを見て。でも兄さん!俺にこのまま星獣剣の戦士として、戦わせてくれせないか!?」
ヒュウガ「!!」
リョウマ「前の俺ならこんなこと考えもしなかった。でも、今なら言える。俺、戦っていけると思うんだ!星獣剣の戦士として、 バルバンを倒したいんだ!」
このシーンは文句なしにリョウマのカッコ良さ、美しさが集約されており、ここは素直にリョウマの半年間の積み重ねが集大成として「完成」に至った。
最初は「ヒュウガの代わり」として戦っていたところからいつしか「自分がやらねば」という意地・誇りというものに変わっていったのである。
ヒュウガの凄さを見てもなお彼がギンガレッドを続けさせてくれということ自体に何か合理的な根拠があったわけではない、ヒュウガの方が戦士としての力量は上なのだから。
その上でリョウマはなおも「戦士を続ける」と申し出たことの真の意味はリョウマにとってバルバンを倒すことなど所詮は通過点でしかなくなっているということだ。
聡明なリョウマだからこそ色々裏で葛藤しかのかもしれない、だが心中がどうあれリョウマは実際の行動として「俺はギンガレッドになる」と宣言した。
それはとりもなおさずリョウマが兄・ヒュウガを超えるという「兄超え」の物語がここから始まることを意味するということに他ならない。
単純に戦士でいたいと申し出るだけならこんなドラマを作る必要はないが、ここでわざわざ物語的にさして意味があると思えないこの過剰な細部には今なお消化し難い驚きがある。
そしてまたヒュウガの返答もよくよく考えるとおかしい。
「俺が星獣剣を使うのはこれが最後だ!ふっ、成長したなリョウマ。お前が一言でも返すと言えば、俺は取り上げるつもりだった。お前はもう俺の代わりなんかじゃない。 ギンガレッドはお前だよ、ハヤテ達にとってもな」
このセリフも通常なら考えられないセリフだ、なぜならばヒュウガがもしリョウマの門出を素直に祝福するなら星獣剣で敵をバッサリ切り捨てて「星獣剣を使うのはこれが最後」という必要はないからだ。
後年、小川輝明氏がDVDのブックレットで言っていたが、このシーンは前原一輝・田崎監督とも真剣に話し合いを重ねて「単にリョウマに星獣剣を渡すだけでいいのか?ヒュウガに未練はないのか?」も考えてこの結果になったという。
それを知った上で見ると、実はヒュウガの中にもまだ星獣剣の戦士であることへの未練はあったこと、だがそれをこの一太刀で死神ごと切り捨てることで「炎の戦士ギンガレッド」であることと決別したのだ。
ヒュウガもまた一見完璧超人のようでいて、それとはまた別の「兄としての顔」があったことが示されたのだが、ここにもう1つ小林靖子はヒュウガに対して残酷な仕掛けを施している。
それはヒュウガにギンガレッドの資格を剥奪することで、ヒュウガは「主人公」としての力=物語を動かし運命を変える力を手放したことの残酷さだ。
ヒュウガはもうギンガレッドではなくなった、それはヒュウガが物語の中心から完全に外されてしまい、リョウマにその権限を全て譲渡してしまったことを意味する。
今回私が指摘したいのはまさにここであり、ヒュウガはもうギンガマンとしてあの5人の輪の中に混じることが許されない段階へ入ったのだ。
リョウマにとっては「兄超え」という1つの目標がここで浮き彫りになったわけだが、同時にヒュウガも物語の中心から外されることの残酷さをその身に受けることになる。
つまり、この炎の兄弟と呼ばれるシーンには「美しさ=カタルシス」と同じくらいの「残酷さ=ストレス」が描かれていることを忘れてはならない。
後の『烈車戦隊トッキュウジャー』の第32駅「決意」の悲壮な覚悟を決めるライトたちもそうだが、小林靖子はヒーローになることは常に痛みや代償を伴うことを描いている。
決して綺麗事だけでは片付かない残酷さにも目を向けてこそ本作の真価がわかるわけであり、今までこの視点で見た人はいなかったのではないか?
どうしても主人公であるギンガレッド/リョウマの視点で受け止めがちなこのシーンを、ヒュウガの視点から考察するという向きは今まではなかったはずだ。
物語や作品は決して1つの視点だけでは読み解けないことが沢山ある、今回でいえばこのシーンが正にそれであり、ほとんどの人はリョウマにばかり目が行きがちであろう。
だが、その裏でヒュウガもまた自身の運命の残酷さに振り回されているということを読み解くことができてこそ、「ギンガマン」という作品の真の面白さが見える。
決して片方だけの視点では受け止められない真実がそこにあるのだ。
「真のギンガレッド」になったリョウマと黒騎士を「英雄」へ昇華するヒュウガ
そしてその美しさと残酷さは変身後のテイストにも大きな差となって表現されるのだが、まず「美しさ」とはいうまでもなくリョウマが改めてギンガレッドに就任するシーンだ。
「ギンガレッド!リョウマ!」
「ギンガグリーン!ハヤテ!」
「ギンガブルー!ゴウキ!」
「ギンガイエロー!ヒカル!」
「ギンガピンク!サヤ!」
「銀河を貫く伝説の刃!星獣戦隊!」
「「「「「ギンガマン!」」」」」
「ギンガマン!それは勇気ある銀河戦士の称号である!」
この名乗りのシーンに今まで蓄積してきたもの全て集約させるという手法は『鳥人戦隊ジェットマン』第50話「それぞれの死闘」で井上敏樹が提示した手法だ。
本作はその名乗り=真の戦隊になったことの集大成を中盤で用いているだけでも驚きであるが、前原一輝を中心とするこの5人の名乗り自体も様式美としてのカッコ良さを感じさせる。
そう、戦力的にはギンガの光も含めてもうブドー編の第二十四章までで完成を迎えたが、今回はそこを踏まえて「ドラマの内実」としてのギンガマンを完成させたわけだ。
リョウマがこのシーンをもって完成し、積極的に「みんな、獣装光だ!」と当たり前に指揮を取って4人もまたそれについていく図式のハマり方が見事である。
初期のレビューで「初期は5人が単独で戦い一対一あるいは二対一で撃破するシーンが目立つ」とあるが、ここでは完全に5人の連携で戦っている。
正に「個」が先にあって「和」が完成していくという通常の戦隊とは逆の90年代的な超個人主義の構造だが、これを時間をかけて丁寧に再構築していったのだ。
だからギンガマンは「成長」というよりも「最初からほぼ完成していた」と言った方が正確であり、最初の半年はリョウマが戦士としての器を実績と共に完成させる期間だった。
故に「チーム」としてのギンガマンはむしろここからの快進撃が本番であり、強い戦隊でありながら単なる戦闘力だけで出来上がっている急増のチームではない。
だが、そんな晴れがましいカタルシスを迎えているギンガマンの美しさに対して、ヒュウガの方は自身ではどうにもならない残酷さ・歯痒さが示されている。
そう、超装光ギンガイオーが鏡の中に閉じ込められた時、彼は転生して戦う力を持っていない、リョウマに全てを明け渡してしまったからだ。
そこに飛んできたのが黒騎士ブルラックが魂を封印して残した忘形見であるブルライアットであり、亡き復讐鬼の魂はヒュウガに告げる。
(私の力を星を守る戦いに使ってくれ。ヒュウガ、それが出来るのは……お前だけだ)
「ゴウタウラス!黒騎士……戦おう一緒に、星を守るために!」
そう、ヒュウガには確かに「物語を動かす力」は喪失してしまったかもしれない、だが復讐鬼の力を「英雄の力」に昇華することはできる。
これは決して表向きには描かれない「騎士転生」であり、正に「別の物へと生まれ変わらせること=転生」という本来の意義として描かれているのだ。
昨今の安売りされた「なろう系=異世界転生」は是非この作品を見て本来の「転生」の意味というものを学び直し再定義して欲しいところである。
まあそんな与太話は置いておくととしても、ヒュウガが黒騎士になること自体はここまでの流れから予定調和であり、ここには驚きはない。
だからしめやかに行われるのが黒騎士への転生なのだが、リョウマたちと違ってそこに劇的なカタルシスがないのにはもちろん理由がある。
それは黒騎士の魂を継承するということは、彼が実は消化しきれなかった「復讐鬼」としてのカルマをヒュウガが器として背負うことの残酷さをも意味するからだ。
最終的にそれを青山晴彦が「黒騎士だけに「苦労する」、なんちゃって」と親父ギャグで締めていたが、実はこれもまた地味に大きな伏線になっていたのではないか。
ヒュウガはこれから特に4クール目以降に待ち受ける過酷な運命を背負うことをも予感させており、本作はどこまでも「美しさ」と「残酷さ」の対比なのだ。
総合評価はSS(殿堂入り)、100点満点中250点。ここから真の「ギンガマン」が始まる。



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