『星獣戦隊ギンガマン』第二十四章『ブドーの執念』
◾️第二十四章『ブドーの執念』
(脚本:小林靖子 演出:長石多可男)
導入
前回までの波乱から一転、ギンガの光をギンガマンが手にしたことでチームとして一段と強くなった5人だが、そこで調子に乗るヒカルを嗜めるリョウマのシーンから始まる。
冒頭で改めて5人の関係性が「森で育った幼馴染」であるというだけではなく「擬似兄弟」の関係性ということであり、個人的には次作『救急戦隊ゴーゴーファイブ』よりも遥かに「兄弟」の関係性を描けていると思う。
第一章から距離感の近い5人でリョウマは「飽きるくらいに付き合いが長い関係」と言ってゴウキが地味にショックを受けていたが、それくらい気の置けない関係ということなのだろう。
決してベタベタしすぎず、サラッとしているのだが根底には温かさと優しさがあるこの5人だからこそ個人としてもチーム全体としてもあれだけ強く描写されているのも納得が行く。
そんなギンガマンと対照的な形で描かれているのがバルバンであり、ギンガマンがギンガの光を手にしたことでブドーは完全に失脚し、次の行動隊長を誰にするかで揉めていた。
第二章から示唆されていたバルバンの私利私欲を優先するが故の仲の悪さもここに極まれりといったところであり、ブクラテスはイリエスが仕組んだ謀略が成功したことで生き生きしている。
その流れもあってかイリエスが次の行動隊長に就任ということになったわけだが、個人的には「ブドーが可哀想」などという判官贔屓の感情は全くない、全てがなるべくしてなった結末だ。
詳しい流れは後述するので是非ご覧頂きたいのだが、結局のところは「持つ者と持たざる者」の大きな差に帰結することになったわけであり、改めてギンガマンは最強の戦隊である。
そんな風に文芸的に凄まじい切れ味を見せる一方で、アクションシーンもまた非常に多く入っており、またギンガイオーも大幅に強化されたことも見逃せない。
1号ロボがいわゆる「スーパー合体」ではなく「強化パーツ」という形で戦闘力が上昇しフィニッシュの技も弓矢から剣にシフトした例は本作くらいだろう。
『超獣戦隊ライブマン』からいわゆる1号ロボと2号ロボのスーパー合体が主流になっていたスーパー戦隊において、敢えて1号ロボから変えていないし、余計にゴテゴテとくっつけてもいない。
これが00年代に入ると『百獣戦隊ガオレンジャー』でロボの大量バラ売りを安売りし始めた挙句『轟轟戦隊ボウケンジャー』辺りからロボット10体合体とか無茶苦茶なことをやらかすようになる。
まあその行き着く先がエンジンオーG12やサムライハオーのような「紅白幸子合体」だったのには面食らってしまったが、本作が00年代以後に作られていたらギンガイオーとブルタウラスのスーパー合体とかしていたかも知れぬ。
後半になると鋼星獣も出てくるから全星獣が合体してアルティメットギンガイオーとかいう名前の気色悪い究極合体が出そうな気がするが、そうならなくてよかったと改めて安堵する次第だ。
しかもこれはYouTubeのコメントで指摘されていたが、今回は1話の中で4人もバルバンの魔人が倒されており、うち一人のメドーメドーはギンガマン側と戦うことのないまま死んでいく。
普通ならこれだけ詰め込むとバランスが歪になって破綻しそうなものだが、初期から形成してきた基礎土台が完璧なためにこれくらいやっても破綻しないのが本作の完成度の高さを示しているだろう。
サブタイからわかるように今回の主役は間違いなくブドーなのだが、本質はそこではなくブドーと対比される形でより強く輝くギンガマン5人の絆の美しさとカッコ良さである。
ギンガマンが「真のチーム」としてギンガの光入手と共に完成を迎えたのは実質ここであり、獣装光ギンガレッドVSブドーをもってギンガレッドが幹部を倒すのも最後だ。
正にブドー編の集大成に相応しく熱さと切なさと美しさの三拍子揃った総合芸が爆発しており、それを今も多くの人に見ることが許されていることの贅沢さを享受しようではないか。
「持つ者と持たざる者」の決定的な差
結論から述べるなら、前回で出た結論が「力と心のあり方」というヒーロー作品が必ず持つ哲学的な命題の再現であるとするならば、今回はどちらかといえば「持つ者と持たざる者」の決定的な差ではないか。
あまり経済的な観念を持ち込むのはよろしくないかも知れないが、私はギンガの光を超サイヤ人や明鏡止水と同じ「何十兆という莫大な資産」のメタファーであるという風に捉えている。
実際、1980年代後半に出てきた『聖闘士星矢』の黄金聖闘士や『ドラゴンボール』の超サイヤ人を皮切りにあらゆるジャンルで黄金色のパワーアップという表現が使われるようになった。
勇者シリーズだと『勇者エクスカイザー』から黄金色の表現はあったし、それこそガンダムだと『機動武闘伝Gガンダム』の明鏡止水・ハイパーモードは黄金色へのパワーアップである。
なぜこの表現が80年代後半〜90年代前半にかけて流行したかというと、当然ながらハイパーインフレという経済的な現象が起こったのがその辺りの時代だからだ。
作品とは常に作られた時代背景と経済状況を抜きにして語ることはできない、黄金色のものを持つということは「持つ者」の証であり、それを手に出来ないのは「持たざる者」の証である。
正に「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」という聖書に記載のある通りの流れになっているのだが、今回はなぜそうなっているのかを改めてブドーの最期を通して描いているのだ。
これを経済用語では「マタイ効果」というのだが、なぜギンガマンとバルバンでこうも圧倒的な格差が生まれたのかというと、それこそが正に考え方=脳のOSの違いにある。
大自然の恩恵をはじめとして自分たちが持っている力に対する畏敬の念を忘れず仲間を大事にすることが根底にあるギンガマン5人は第一章の段階から既に「富める者」の考え方をしているのだ。
第三章でリョウマは星獣たちに宣言した、「俺たちは必ず地球を守る。そして平和になった地上にギンガの森を戻す」と……これがギンガマン全体のチームとしての理念になった。
それを忘れず第四章以降は各々のキャラクターが自らに与えられた課題・試練と向き合いつつ、それを自負心・自尊心と呼べるまでに高められたのが前回までのギンガの光の試練である。
だから一時期劣勢が続いて苦戦が続いているように見えても水面下でギンガマン側に再び運気が向く流れとなっていたわけであり、だからこそギンガの光に認められ力を手にすることができた。
対してバルバンは私利私欲のまま星を傷つけ命を虫ケラの如く扱い、そこに住まう無辜の生命がどうなろうが知ったことではないと言わんばかりの悪虐非道の限りを尽くしている。
その根底にあるものは際限のない欲望であり、どれだけ求めても求めても満たされないという仏教でいう「餓鬼道」「修羅道」「地獄道」にいるような存在だ。
それを今回のサブタイではわかりやすく「執念」という短いワードに集約させているが、物事に対する執念・執着はどこまで行こうと負のエネルギーであり尽きることがない。
しかし、そうやって手に入れようとすればするほど本当に欲しいものは遠退いてしまう、考え方=脳のOSが痩せ細っていて貧しく余裕がないといつまで経っても資産を手に出来ないのである。
ギンガの光を莫大な資産の象徴だとするなら、ギンガマンは正に最初からそれを手にする考え方・力・技を十二分に持ち合わせていて、それをどんな状況でも貫き通せる覚悟と信念があるから手にできた。
逆にバルバンはダイタニクス復活のためのエネルギーにしろ星の命を宝石に変えるという発想にしろ、全ての考え方・力・技が「奪う」「恣にする」というところにしか向かっていない。
そうやって相手を見下し奪い続ける負の周波数の者同士が集まっているわけであり、だからギンガの光を喉から手が出るほど欲してもそれを「持つ」ことができないのだ。
「悪銭身につかず」とは正にこのことであり、そうやってズルや不正をかまして手に入れた物は決して身にならずすぐに溶かしてしまうのである。
第一章から本作はそのことを一貫して描き続けてきたわけであり、ブドー魔人衆の最期に私は一度たりとて感情移入したことはないのは考え方=脳のOSの違いによるものだ。
ブドーの最期はなるべくしてなった結末
「持つ者と持たざる者」の差を踏まえてブドー魔人衆の最期を見てみるが、結論から述べるならこれはもうなるべくしてなった結末であり、どこにも同情の余地はない。
失脚の末に追い出されることも、ギンガの光を手にすることなくギンガマンと戦って散っていった報われない最期にしても、私は全く可哀想という感情はないのだ。
その理由は上でも述べたように考え方=脳のOSがそもそもTaker(奪う者)のそれだからだが、これまでもブドーの行動や態度からはそうなってもおかしくない伏線はいくつもある。
最初の印象でいえば第一章でヒュウガが地の底に沈められた時、ブドーはしれっとギンガマン5人に向かって「先祖に顔向けできんなあ」という煽りと侮蔑の混じった攻撃的な言葉を吐いた。
実はこの時点で小林靖子はブドーの武士道精神が所詮は上っ面でしかないメッキであることを示していたし、いかに武人の如く振る舞おうがそれは決して本物ではない。
今回にしたって第一声が「できん!このまま裏切り者として死ぬなど…」であり、その後現れた闇丸・鬼丸が現れた後でも意識が向いているのは「いかにして濡れ衣を晴らしてバルバンに戻るか?」のみである。
つまり「自己保身」と「虚栄心」しかないわけであって、もしブドーが本当に高潔な武士道精神を持っているのならば、自分の行動に落ち度がなかったかを反省して失脚の事実を認めるだろう。
そして仮に死刑を免れるのが嫌だから脱走するにしても、「そもそもそこまでしてバルバンが戻る価値のある組織なのか?」を疑うところから始めなければいけなかった。
ブドーに足りなかったのは正にそうした気概であり、結局のところバルバンで甘い蜜を吸って美味しい思いをしてきたことが忘れられないからこうなったのだともいえる。
それに、ブクラテスに対して無碍にする人でなしのような扱い方をしてきたことも大きな失点となったわけで、それを改善しようとか向き合おうとかいう気は全くなかった。
だからこそ破れかぶれの行動としてまずは罪なき人々を容赦無く惨殺してギンガマン5人を抹殺してギンガの光を無理やり奪おうとするのだが、当然そんな八つ当たりがうまくいくわけがない。
ギンガマンにギンガの光を使う隙をギリギリまで与えなかったことや戦闘力最強のギンガレッド/リョウマを幻術でバーサーカーにするなどの戦術は素晴らしかったが、そこに「戦略」が足りていなかった。
だから濡れ衣を晴らそうにもメドーメドーが邪魔をし、既にバルバンでも次の行動隊長はイリエスに決まっており、もう既にブドーの席はなかったというわけだ。
仕事なんて所詮は椅子取り合戦だから出世競争のレールから外れたものは落ちていくしかないのだが、ブドーが全てを悟ったのはメドーメドーにその事実を知らされた時である。
初めてブドーはここで自分がいかにズレた考えで動いていたかという残酷な現実を突きつけられ、その上でやったことが死ぬことを覚悟の上でギンガレッドとの一騎討ちに臨むことだった。
「戻る場所などありはしない」と鞘を投げ捨てた時点でブドーはここが自分の死期と悟るのだが、この際に出てきた言葉が「ただ存分に戦うのみ」というのも衝撃である。
名勝負と言われる獣装光ギンガレッドとの一騎討ちに敗れたブドーは妖刀ギラサメまで折られ、獣火一閃で完膚なきまでに叩き伏せられながらなお「まだ……戦い足りぬ……!」という。
これはもう武士道とかそんな美しい高貴なものではなく、もはや戦うことにのみ己の際限ない欲望が向いている危険な状態であり、いうならばバーサーカーに近いレッドゾーンである。
しかも最期には「散ればこそ花美しく名を残し今一度(ひとたび)のバルバンの夢」と己の未練を辞世の句として読み上げ、ギンガレッドにバッサリと斬られて死んでいった。
確かに時代劇の王道には沿っているが、例えどうあれ悪党そのものの死が肯定されてはならず、何も手に出来ぬまま醜く死んでいくのがいかにも小林靖子らしい。
ブドーと似た系譜として『仮面ライダー龍騎』の浅倉威や『侍戦隊シンケンジャー』の不破十臓が挙げられるが、いずれも己の野望を果たすことなく情けない死に方をする。
いわゆる「敵ながら天晴」などという「負けの美学」という井上敏樹が持っているものですら小林靖子にはなく、女史にとって死んだらそこで全てがお終いなのだ。
二重に強化されるギンガマンの結束力
そんなブドーの醜く凄惨な最期とは引き換えに美しく輝いていたのがギンガマン5人の結束力であり、改めて今回は5人の人間関係と同時にアクションとしても結束力が示されていたのが素晴らしい。
まずは冒頭とラストで5人の擬似家族ならぬ擬似兄弟のような関係性が示されており、リョウマがかつてヒカルとサヤのお守りを嫌がってハヤテとゴウキに押し付けていたことが示されていた。
その時にハヤテは容赦無く風のアースを当て、ゴウキは人に当てるのが嫌だから外してかえってリョウマを危ない目に遭わせることがあるが、それが今回もまた再現された形である。
ここからわかることとして、リョウマは自身が炎の戦士ギンガレッドになっていなければ本来は集団主義があまり向かない個人主義のような人なのではないかと思う。
ヒュウガという優れた兄がいながら、自分はヒカルとサヤの面倒を見るのが嫌だからというところから察するにリョウマは次男坊・中間子の気質ではないだろうか。
次男坊で中間子の厄介なところは「兄」と「弟」を両方経験するというある種の板挟みを子供のうちから経験するため、長男や末っ子の倍は苦労するということだ。
ヒカルとサヤは楽なものである、末っ子だから甘え上手だし弱音を吐いても許されるところがあるが、リョウマたち年長組はそれが許されないのである。
しかもリョウマはギンガレッドとして仲間を大事にしているし気遣いもできるが、意識が向いているのはどちらかといえば仲間よりも自分に対して、である気がするのだ。
だからこそ、リョウマはこの半年をかけてギンガマン5人のリーダーという不慣れなポジションを任されることになった訳である。
小林靖子の「シンケンジャー」までに使われていたのが「二人のレッド」というやつだが、そこには大きなミソがあり「完璧超人でない人がレッドを任される」というものだ。
ギンガレッド/リョウマ然りタイムレッド/浅見竜也然り、そしてシンケンレッド/志葉丈瑠然り、本質的にレッドに向かないタイプがレッドに任命されている。
その比較対象となるのが完璧超人型、いわゆるアカレンジャー/海城剛に代表されるような昭和ヒーローに散見されるタイプの戦士(ヒュウガ・リュウヤ隊長・姫)なのだ。
それらの人物が半年〜1年がかりで「真のヒーローになる」物語が小林靖子の十八番なのだが、本作はその中でも「5人揃って」というのが初めてここで明文化される。
これまでも機刃や獣撃棒などを使った合体攻撃で5人の団結は表現されてきたが、それがギンガの光の登場と5人の擬似兄弟のような幼馴染の関係性という形で二重に結束力が表現されているのだ。
こういった例は中々なく、どちらかといえばこの距離感の近しさは小林靖子というよりも髙寺成紀のテイストかもしれない、「カー」「メガ」共に元から仲良しだったし。
何より「1の力を五分割している」ことを逆手に取って「5人揃わないと使えない」ことでようやく「戦隊的なるもの」へと近づいていっているわけだ。
こういうところが「ギンガマン」の逆説的な構造というか、通常の戦隊は合体技・合体武器などが先にあり「団結」が最初にあってその後に個人の強さが示される。
そこを本作は逆にすることで最初に各戦士の単独の強さを描いて「個」をしっかり示し、その上で最終的に「団結」へと繋がっていく構造になっているのだ。
和→個という繋げ方ではなく個→和という持って行き方が素晴らしく、決して楽に戦隊のテンプレートに収めない工夫を幾重にも凝らしている。
飽きるほど付き合いが長い(お陰でお互いの呼吸や押し引きがわかっている)5人がギンガの光を揃って使うことでチームとしての結束力が物理的にも強まるのだ。
前回の時点でギンガマンというチームは完成したも同然だったが、それを文芸面とアクション面の双方から示したことで盤石のものとなった。
ギンガの光で殺意と破壊力の高まるギンガマンとギンガイオー
さて、前回はギンガの閃光のみだったからイマイチ強さが分かりにくかったギンガの光だが、改めて今回は獣装光ギンガレッドと超装光ギンガイオーを通して強さが表現されている。
具体的には通常状態のギンガマンを割と苦戦させていた闇丸と鬼丸が剣星波の一撃を喰らっただけであっという間にHPを半分ほど持っていかれるほどだ。
そして今回の一番の見所である獣装光ギンガレッドVSブドーだが、戦隊シリーズにおいて有名な一騎討ちとして挙げられるが、ここではどんな風に強さが表現されているか?
それは第十七章で他の4人が歯が立たずに苦戦し第二十一章で黒騎士と対等に渡り合っていたことも踏まえると、ギンガレッドがとうとう黒騎士と対等の領域まで来たことになる。
その上であくまでも攻撃力とスピードを上げる仕様であるためか防御面は特に上がっていないことがブドーの剣術を体で受け止めた時に割とダメージが通っていたことからわかるだろう。
あくまでも獣装「光」であって「甲」ではないから、防御力を上げない代わりに攻撃力と機動性を特化して上げる仕様になっているようだ。
しかもメドーメドーを瞬殺したギラサメ残酷剣を左腕の獣装の爪であっさりブロックし、閃光星獣権の柄を使ってあっさりとギラサメを叩き折ってしまった。
その隙を逃さず容赦無く獣火一閃を喰らわせて瀕死の重傷を負わせ、向かってきてもなお容赦なく叩き切るなど、ギンガの光を手にしたことでより殺意と破壊力が高まっているようだ。
そしてそれはギンガイオーも同じであり、ギンガイオーもあくまで超装「光」であって「甲」ではなく単純なエネルギーの総量と攻撃力を高めたのではないだろうか。
だからこそ銀河大獣王斬りのエフェクトがとんでもない衝撃であり、それまであまりトドメとして使われなかった銀河獣王斬りがとんでもなくパワーアップして必殺技になったわけだ。
敵を骨のかけらも残さず残骸にして細切れにしてしまうのは流星弾とはまた違う怖さがあって、もはや向かうところ敵なしになった感はある。
もっとも、後半に入ると小林靖子が大嫌いな鋼星獣が出てくるのでかませ犬扱いを受けてしまうようにはなるが、それでも後半における最高のフィニッシュ武器なのだ。
ギンガイオーの流星弾は確かにそれまでの戦隊ロボとは違い、剣ではなく弓で敵の急所を突いて仕留める戦術が素晴らしかったのだが、技の発動までに時間がかかるのが難点だった。
かといって銀河獣王斬りはトドメとして使うにはイマイチパンチが弱かったため、ここでギンガの光を得たことで一気に最強の必殺技に昇華してしまう発想が素晴らしい。
やはりヒーローといえば圧倒的な力と強さをもって敵を捩じ伏せる破壊力も大事なので、ただでさえ強かったギンガマン並びにギンガイオーの神秘性・格好良さがもはや銀河規模すら超えている。
前回と今回をもって地球規模に留まっていたギンガマンの強さ・格好良さ・美しさ・爽やかさが完全に地球の規模感を超え、まさに今「銀河を貫く伝説の刃」となった。
黒騎士ブルブラックが現れたことで苦難に満ちていた本作も、最後にナレーションで語られていた通り今回のブドー魔人衆の最期をもって終わりが告げられる。
しかし、これでまだ終わりではなくラストカットに出てきた黒騎士の物語にも次回決着がつけられ、ひとまずは前半の集大成となるだろう。
総合評価はSS(殿堂入り)100点満点中200点。



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