『星獣戦隊ギンガマン』第二十章『ひとりの戦い』
◾️第二十章『ひとりの戦い』
(脚本:小林靖子 演出:田崎竜太)
導入
「あーあ、今日はパパが取材したくて来たのになあ」
剣の訓練に励むリョウマと勇太の横で本日も変わらず蚊帳の外である青山晴彦パパだが、とても前回までのピリピリとした空気とは思えないほどに明るく始まる。
しかし、この始まりがあくまでも今回の激闘を際立たせるための前触れであることは言うまでもなく、いわゆる「嵐の前の静けさ」とでもいうべきものだろう。
黒騎士のことがあったとしてもあくまでギンガマンはギンガマンらしく、そしてバルバンはバルバンらしくあるという無理のないあり方が素晴らしい。
前回で黒騎士が大きく物語の根幹に関わり始めてから確実に作品自体も変わり始めているが、今回はより三者三様のあり方が際立つ構成となっている。
今回はとても戦隊ではまず見ることのない「ひとりの戦い」という衝撃的なタイトルであり、実際歴代戦隊でもここまで「個」が際立つ回はなかなかない。
スーパー戦隊といえば「力と技と団結」という『秘密戦隊ゴレンジャー』が打ち出した絶対的な黄金律があるわけだが、本作はこの黄金律に真っ向から異を唱えることをしている。
「ギンガマン」を「王道」と言う人は多いし、実際根幹の部分は「王道中の王道」ではあるのだが、それは果たして「戦隊的なるもの」としての「王道」なのだろうか?
私が未だに本作を見るたびに覚える違和感はまさにここであり、「戦隊」と名がついている割には一騎討ちや一対一で対峙するシーンが多いのだ。
一方で、実は今回「団結」というものをやっているのはギンガマンや黒騎士側ではなく、むしろ敵側たるバルバンであることにお気づきだろうか?
後述するイリエスとブクラテスのことだが、形は違えど共通の敵を陥れるために裏で結託する、これもある意味では「団結」であり、実は本作はこのあたりの描写がとても細かい。
これもまた非常に面白いひねりが入っており、メインとして描かれているギンガレッド/リョウマ・黒騎士ブルブラック・氷度笠の三者が徹底した一対一を演じている。
その極限として描かれているのが今回の見所であるギンガレッド/リョウマと氷度笠の一騎討ちであり、スーパー戦隊シリーズでもここまで色気のある一騎討ちはないだろう。
そんな中で前回よりさらに踏み込んで浮き彫りになるギンガマンと黒騎士の価値観の相剋、その中でギンガマンと黒騎士すら作戦妨害の戦略に組み込む敵側の謀略。
近年の戦隊ではほとんど見なくなった要素が今回はたっぷり描かれており、まだスーパー戦隊が次のスタンダードが定まっていない90年代末期の作品だからこそできた挑戦だろう。
一見無難に型を守っているようで、よくよく見るとスーパー戦隊そのものに対する意欲的な挑戦を静かに、しかし勇猛果敢に行うその姿は27年の時を経て尚見るものの心を揺さぶる。
スーパー戦隊シリーズのテーゼに真っ向から喧嘩を得る本作のストロングスタイルが出た今回は果たしてその画面上に何を露呈させているのだろうか?
「ひとりの戦い」とは果たして何を指しているか?
導入でも触れたことでありコメントでも指摘されているが、スーパー戦隊なのにもかかわらず「ひとりの戦い」という矛盾するようなサブタイトルがついている。
果たしてこれが何を指しているのか、いきなり哲学的とさえ言えるこの難題に対して真っ向からぶつかっているのが今回であることに気づいた人はどれくらいいるか?
スーパー戦隊の本質はというと「力と技と団結」であることが『秘密戦隊ゴレンジャー』のEDの一番で歌われている。
とっくに捨てたこの命 命
緑の地球を守るため 守るため
力と技と団結のこれが合図だ
エイエイエイオー!
そして、大体の戦隊では序盤で「5人が揃わないと勝てない」「5人が揃って初めて力を出せる」というようなことが言われることが多い。
それこそ、歴代の中で最大の転換点と言われる『鳥人戦隊ジェットマン』でさえ1話で「5人揃わないと勝てない」ということが言われている。
「やはりまだ無理だ。残り二人のジェットマンを探し出さなければ、バイラムに対抗することはできない!」
こんなことが言われている中で、「ギンガマン」はどうかというと実は第一章・第二章共に「5人揃わなければ勝てない」なんてことは言われていない。
それどころか、ギンガレッド/リョウマは兄を殺された怒りがあってのこととはいえいきなりゼイハブら幹部連中を圧倒し、第二章でもコルシザーを単独で撃破していた。
スーパー戦隊の王道が「団結」にあるのなら、「ギンガマン」はそこから真逆の「個の強さ」を最初に示しているために「反王道」ということになる。
だが、誰しもが本作を見た後に「王道中の王道」であるということに対して違和感を全く覚えずに受け入れてしまっているという奇妙さが私の心を捉えて離さない。
むしろ今まで個で戦って個で撃破することが多かったにも関わらず「ひとりの戦い」というサブタイトルをつけるのはおかしいのではないか?
そう考えると、この「ひとりの戦い」が決してギンガレッド/リョウマのことだけを指しているわけではないことが見えてくる。
ではここでの「ひとり」が何を意味するかというと、物理的な「ひとり」ではなく精神的な意味での「ひとり」ではなかろうか。
確かにリョウマは今回仲間たちが不在の中で戦うために心理的なプレッシャーは多少なりともあるが、彼は第一章からある意味で「孤独」を背負って戦ってきた。
星獣剣の資格を亡き兄・ヒュウガの代理として背負うことになった瞬間、彼は他の4人とは明らかに異なる立場で入ってきたのだから、実は孤独耐性が強い。
実際、リョウマ自身は単独で戦うことになっても特別に焦りのようなものは見せておらず、割と強い精神力と胆力を持って事に当たっている。
むしろ、今回「ひとり」というサブタイトルはギンガレッド/リョウマ以上に黒騎士ブルブラックどブドー軍団の氷度笠にかかっているのではないか?
後述するブクラテスとイリエスの謀反からどんどんバルバンの中で孤立を深めていくブドー軍団、そして故郷も大切な弟も亡くしてゴウタウラス以外に頼るものもない黒騎士ブルブラック。
仲間に囲まれているリョウマの方が精神的な孤独耐性に強く、むしろ普段からスタンドアロンを貫いている黒騎士とブドーの方が意外と孤独耐性に弱い。
実はそれが浮き彫りになるのが今回であり、ここら辺は以下で詳しく述べるが、それくらい今回は「ひとり」であることに重点が置かれている。
リョウマにとっての黒騎士と黒騎士にとってのリョウマ
前回に引き続き、今回も際立ったのがギンガレッド/リョウマと黒騎士ブルブラックの価値観の相剋だが、第二十五章を待つまでもなく、ここまでである程度の答えは既に出されている。
黒騎士はギンガレッド/リョウマの戦士としてのあり方を「甘さ」とし、その「甘さ」を「弱さ」と否定せずにはおれないのだが、リョウマもこれで簡単に屈するわけではない。
「それだ、その甘さだ。守るものがある限り、それは弱点となる」
「でも俺は今までそうやって戦ってきたんだ!そのせいで弱いなら、弱くったっていい!その代わり俺は何度でも立ち上がる、守りたいものがある限り!何もかも犠牲にして勝ったとしても、その後に何があるんだ?あなたの戦い方では、終わった後に何も残らない!」
「貴様……!」
前回に続きリョウマが改めて自らの戦士としての拠って立つ所を示したわけだが、コメントや感想サイトなどを見ると、大事なポイントとしてリョウマが決して黒騎士の復讐「そのもの」を否定したわけではないことが評価されているようだ。
確かにギンガマンもまた「復讐者」としての一面を持つから(最初のきっかけがヒュウガを殺された報復感情にある)それは間違いなく、リョウマが否定しているのは復讐に対する考え方=脳のOSであることは間違いない。
だが、それよりももっと大事なのはリョウマがここで最終章まで尾を引く「自己犠牲」を真っ向から否定し、さらにその上で「俺は仲間がいるから強い。お前は一人だから弱い」という言い方を一切していないことにこそある。
復讐云々はあくまでもそれを際立たせるための1つの契機にすぎず、リョウマは仲間の中にいながら実質「孤独」に戦ってきたからこそ、仲間がいなくても狼狽えることなく黒騎士に反論できる強さを持っているわけだ。
ここに私はギンガレッド/リョウマの中にある「男らしさ」「極限の状態での芯の強さ」を見た、ハヤテたち仲間がいる状況ではこのような「強さ」が出てくることは少ない、リョウマのこの強さは孤高の状態でこそ際立つ。
この強さが第二十六章までを経て完成し、4クール目に至ってはそれが神懸かりのリーダーシップへ昇華されるわけだが、そんなリョウマにとっての黒騎士は間違いなく「超えるべき壁」であることが示された。
一方でそんなリョウマが黒騎士にどう映っているのかというと、第二十五章までの展開から逆算して考えると「クランツがなり得たかもしれない姿」であり、どこか黒騎士はリョウマに最愛の弟を重ねている節がある。
これが以前に述べた小林靖子の描く捻れた肉親愛であり、『未来戦隊タイムレンジャー』以降でも形を変えて受け継がれていく要素なのだが、だからこそ黒騎士はリョウマの戦い方を否定せずにはいられない。
だがそれは通常の戦隊の「仲間と団結することへの否定」ではなく「守るものを抱えた状態で戦うことの否定」というやや変わった種類のアンチテーゼなのだが、この展開の仕方自体が工夫があって面白い。
何が言いたいかというと、通常の戦隊ならばほとんど脚本に使われないであろう「復讐」「肉親愛」「自己犠牲」「守るもの」というヒーローもののテーゼを決して安易な「戦隊的なるもの」へと還元しないことにある。
表向きはヒーローものの王道中の王道を往くシンプルかつストレートな戦隊のように思われる「ギンガマン」だが、「個の強さ」を徹底的に貫こうとした結果として「戦隊的なるもの」をかえって破る形になるのが最大の皮肉だ。
リョウマは確かに冒頭で「俺たちは故郷は無くしたけど、仲間と一緒だし、それに勇太もいるだろ」と言っていたことからリョウマにとって仲間がいることはあくまで「大前提」に過ぎず、それ自体は決して強さの根拠にはならない。
あくまでも徹底した「個」の力を磨き上げた先に本物の「和」としての強さがあることを前回よりも更に鮮明な形で浮き彫りにしたのが今回であり、だから私はそんなストロングスタイルの本作が大好きなのである。
前2作とは違って「和」が最初にありきで「個」の弱さを補うのではなく、「個」の強さを押し出すことで「和」になった時にそれが更なる強さになるという持って行き方に畏敬の念を持たざるを得ない。
そしてそれがまた近年ありがちな「なろう系」の偽りじみた強さ、すなわち「ゴテンクス現象」とは違う徹底した強者の考え方=脳のOS、すなわち孫悟空やベジータのような戦闘民族らしい理屈で返している。
何よりそれが決して昨日今日の付け焼き刃で形成されたやわなものではなく、3000年もの長い時間をかけてギンガの森の中で熟成されてきたものだからこそ、より強固なものになっているのではないだろうか。
黒騎士自身もそのことに実はここら辺から気づきつつあるわけだが、それが形となって現れるのが今後の展開だといえるだろう。
ギンガレッドと氷度笠の渾身の一騎討ち
さて、リョウマと黒騎士の価値観の相剋の後、今度は転生後のギンガレッドと氷度笠の一騎討ちが描かれているのだが、ここで時代劇の王道である「乗馬での一騎討ち」を持ってくるところも本作らしい。
文芸面からの「ひとりの戦い」を描いた後、今度はアクションとしての「ひとりの戦い」を描いているわけであり、このシーンのカメラワーク・殺陣は今見直してもよくこんな画が撮れたなと思うくらいの絶品である。
惜しむらくは予算や管理の都合もあるのか、このシーンを最後に第三十二章から馬が出てこなくなるのだが、ここで本作の馬は見納めと言ってもいいくらいに最大限の魅力を描き切っている。
転生しての鍔迫り合いは見事であり、しかも激しく揺れながらドリー(カメラを水平に動かすこと)でこのスピード感を一切の脚色なしで演出して見せているのが素晴らしい。
このスピーディーかつリアルな迫力は似たようなことをやっている『侍戦隊シンケンジャー』の終盤で描かれるシンケンレッドと不破十臓の一騎討ちでは太刀打ちできない魅力が凝縮されている。
馬に乗って鍔迫り合いを交わし、そこから大きくジャンプしてからの斬り合いに持っていくのだが、ここで剣術だけなら氷度笠の方が上であることが示され、抜刀無惨斬りで容赦無くレッドはやられたはずだった。
しかし、これまで命懸けの死闘を潜り抜けてきたギンガレッドにとってはこの程度のことでは動じない、数々の実績と仲間たちの支えがここでフラッシュバックして彼の強さになる。
その強さは一見諦めにも似た構えの解き方に現れているのだが、ギンガレッドはこの語らぬ描写のなかで氷度笠に打ち勝つ方法を瞬時に計算して編み出していたわけだ。
そして出した答えが抜刀無惨斬りの抜刀の一瞬に生じる隙を逃さずに体をのけぞって避けつつ、急所である鳩尾を星獣剣の一撃で斬ることであり、これはギンガマンならではの戦い方である。
以前にも書いたが、ギンガマンの戦闘スタイルは単純なものではなく、剣術・アース・アニマルアクションを複合的に組み合わせたハイブリッドな実戦型の戦法であり、単純な剣術だけならそれこそカクレンジャーやシンケンジャーの方が上だ。
しかし、忍者系の戦隊や侍戦隊などの和風モチーフの戦隊と異なる点はそこに「野生の動物」である星獣の荒々しいスタイルが織り込まれていることであり、これこそが正統派の黒騎士や剣術の達人であるブドー魔人衆とも異なるところである。
作品としての完成度が高すぎるが故になかなか語られづらいが、実はギンガマンの戦闘スタイルは他に類似するものがないくらいにイレギュラーの塊なのだが、これに関しては追々触れていき、批評でも語るとしよう。
いずれにせよ、三国志を中心にした時代劇の王道である「一騎討ち」を持ってきたということだけがこのシーンの素晴らしさではなく、その中に通常ではあり得ないギンガマンのスタイルを浮き彫りにした。
しかも最後にはそんなギンガレッド無双にさせないようにするためなのか、黒騎士が横槍を入れて敢えてギンガマンの戦い方を認めないというスタンスを貫いており、どこまでも共闘はしない。
それは巨大戦にも現れており、結果として銀星獣ギンガレオンとブルタウラスで倒すことにはなったが、時代劇の王道は押さえつつも決して安易な決着の付け方にはしていないのである。
単純な時代劇の王道だけが見たいのであればそれこそ「シンケンジャー」でも見てればいいしアニマルアクションだけが見たいならば「ガオレンジャー」「ジュウオウジャー」でも見てればいい。
だが、本作は両者のいいとこどりを目指しつつ、決してどちらにも与しないという絶妙なバランス感覚によってハイブリッドな戦闘スタイルを極めて高い水準によって実現している。
この部分を今まで指摘した人はまだいないはずであり、物語やドラマなどの文芸面だけではなく、それを活劇として可能にしているアクションシーンにも光を当てることでこれまで語られてこなかった本作の魅力が浮かび上がるのだ。
「ギンガマン」という作品はある意味で「語られている」が、反面まだまだ「見られていない」し「語られていない」ことが沢山ある、まだまだ批評すべき余地は残されている。
本作を見た上でこの回を一番好きだというファンも少なからずいるのはこうしたイレギュラーな、通常の戦隊に収まらない魅力が詰まっているからではないかと思う。
イリエスとブクラテスの謀略が示すもの
さて、ここまででもう今回の魅力は十分に語り尽くしたが、今回少しだけ補足しておくと、実は「ひとりの戦い」に留まらない細部がイリエスとブクラテスの謀略である。
孤立無援に戦うギンガレッド・黒騎士ブルブラック・氷度笠とは異なり、バルバン側の裏側の運動としてイリエスとブクラテスが結託してギンガの光の偽物を掴ませる作戦を立てた。
これが後々とんでもない因果応報となって返ってくるわけだが、ここで注目したいのはスーパー戦隊の本質である「団結」を敵側にさせていることだ。
しかも、親戚であるという血縁関係まで持ち出しているのだが、このブクラテスとイリエスの肉親愛故の結託が実は本作のアンチテーゼであることに気づいた人がどれだけいるだろうか?
具体的に何かというと、これが実は4クール目の展開の発端になっているわけだが、リョウマとヒュウガ、黒騎士とクランツがいわゆる「兄弟」という関係性として描かれている。
そして青山勇太と青山晴彦が「親子」として描かれているわけだが、実はここでもう1つ、イリエスとブクラテスを「親戚」という重ならないパターンで敵側の肉親愛が描かれているのだ。
幾分唐突な気がしないでもないが、確かに正義の味方側が「兄弟」「親子」を打ち出しているのなら、敵側にそういう奴らがいたっておかしくはないという土壌の形成が見事である。
同時にこれは高寺Pがサブ時代に参加していた『超力戦隊オーレンジャー』で大失敗したマシン帝国バラノイアの「家族愛」に対するリターンマッチの側面ももしかするとあるかもしれない。
今まではヒーロー側であるギンガマンと黒騎士中心で見てきたから見落としていたが、実はここで敵側であるバルバンもヒーロー側と同じ「肉親愛」が対比として組まれていることがわかるだろう。
それが想定外のドラマを生み出しているわけだが、小林靖子は決して肉親愛を安直に肯定することもなけれな否定することもない、その時々であるべき姿を描いているだけだ。
なるほど、ある意味で本作を「擬似家族」と主張する人がいるのもわからないでもない、これだけのパターンの肉親のパターンが表現されている作品も他にないからだ。
いわゆる『地球戦隊ファイブマン』『救急戦隊ゴーゴーファイブ』『魔法戦隊マジレンジャー』のような「家族戦隊」よりも人間関係の描き方が多彩かつ繊細で面白い。
今回は四面楚歌状態で戦うギンガレッド/リョウマを中心に三者三様の「ひとりの戦い」が描かれつつ、それとは異なる敵側の肉親愛と結託もまた出してきた。
通常の「戦隊的なるもの」への反抗・挑戦の意を表しつつ、その中でそれぞれのキャラクターの「強さ」も「弱さ」も際立つ、そんな不思議な回で何度見直しても面白い。
ここでの壮絶な戦いがどのように推移していくのかという余白を残しつつ、物語としてもアクション面としても核心へと迫っていることがわかるだろう。
第十七章から本格的に作品としてのギアが上がってきた黒騎士登場からより面白さが加速していく「ギンガマン」は今後も目が離せない。
総合評価はS(傑作)100点満点中110点、「戦隊的なるもの」に安易に収めまいとする中でどのように「戦隊」の本質を炙り出すか?
それこそが本作で真に挑んでいることなのかもしれない。



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