『星獣戦隊ギンガマン』第十七章『本当の勇気』
◾️第十七章『本当の勇気』
(脚本:小林靖子 演出:長石多可男)
導入
今回はシルバスター乗馬倶楽部でいつもの掃除をする4人に対し、河原で剣術の稽古をつけるリョウマと勇太のシーンから始まる。
何が特徴的と言って、今回は冒頭からラストまで徹底的にリョウマ&勇太のコンビ、そして残りの4人という構図が崩れないことであり、またロケーションや脚本の構成もこれまでとは異なっている。
小林脚本&長石演出という全盛期の天才コンビが織りなす今回と次回は「ギンガマン」という作品が本格的にギアを上げ始め、物語としての緊張感・ボルテージを高めていく段階へと入っていく。
1クール目の基礎土台構築、そして前回までのチームアップと箸休めを挟み、ここから第二十六章までギンガマンというヒーローはもちろん作品全体としてもきつい試練の時期へ入るのだ。
特にここからの戦いはギンガレッド/リョウマにとっては過酷な試練が待ち受けており、第十二章・第十三章でもその布石として描かれていた「本物の銀河戦士」になるための試練に差し掛かる。
その第一弾がこの回であり、個人的には第四章『アースの心』と並ぶギンガマンというヒーローの根幹を作品のメインテーマへと昇華していく発展・応用の段階へ入ったと言っても過言ではない。
第四章がハヤテとヒカルというサブキャラクターの絡みを通して「アースとは何か?」を描きつつ、それ自体をギンガマンのヒーロー像の根幹へ繋げるという最初の試練をクリアした。
それを踏まえた今回ではいよいよ主人公であるリョウマから、もっと正確には過去回想も含むとヒュウガ→リョウマ→勇太を通して「戦士とは何か?」という本質が伝承されていく。
これまでは単なる視聴者と作品を繋ぐメタ的な役割が強かった勇太少年が単なる「庇護対象」「賑やかしのセミレギュラー」から物語の中核に絡む存在にまでなるのだ。
今回で言えば、リョウマから戦士の本質である「勇気」の大切さを教わり、その教わった心を単なる教訓でははく実践の場で発揮してみせるところにまで繋げた。
ここが素晴らしいところであり、青山勇太少年が他の戦隊を含むヒーロー作品にありがちな「ヒーローに憧れる子供」に終わらないところが素敵である。
これまで第一章・第六章・第七章とリョウマとの絡みが描かれてきたが、ここで2人の関係性は単なる「勇者に導かれる大衆」からより双方向性のあるものへ変化していく。
それを受けてというわけではないが、ブドー魔人衆の作戦もより本格化していき、今回で言えば人間爆弾テロというとんでもなく恐ろしい作戦を仕掛けてきた。
ここにもまた一見わかりやすそうで本質は卑劣な手段も厭わないバルバンという悪の組織の恐ろしさが改めて示されており、ストレートでありながら戦略的というね。
ギンガの光を炙り出すために人間爆弾で無差別破壊テロを起こす様などはまさに後年の9.11(アメリカ同時多発テロ)を予見したかのような展開となっている。
しかも街中にはブドーが直々に出向いてギンガレッド/リョウマ以外を相手するという風に、今回は徹底して2つの場面に分断して物語を展開していく。
話の面白さもさることながら、長石多可男演出もこれまで以上に凄まじいキレを見せ始め、4人とブドー一味の街中での乱戦、そしてギンガレッドVS傀儡太夫の一騎討ちと見所満載だ。
それが単なる「キャラ同士の絡み」ではなく「バトル」ありきで組まれているところがいかにも感情重視ではなく目的重視で組まれており、全てにおいて無駄がない。
ヤートットに襲われて震えてしまう勇太やそんな勇太を守りつつヒーローとして背中でも言葉でも語って実行してみせるリョウマたち、さらには久々の星獣でのバトル、そして次回へつながるラストカット。
ここから益々連続活劇の様相を呈しつつ、後半に向けて跳ね上がるための前触れとして非常に印象深い名編として未だに語種となるほどであり、私としてもここからが真のギンガマンの始まりだ。
ヒーローの王道中の王道である「心技体」のバランス
今回のメインテーマはタイトル通り「本当の勇気」なのだが、「ギンガマン」に限らずヒーローものの王道中の王道である「心技体」のバランスであり、冒頭のリョウマと勇太のシーンが印象的だ。
「リョウマ……僕、戦士になりたいんだ! リョウマや星獣たちが戦ってるのに、見ているだけじゃ駄目だよ!でも、無理だよね。アースも使えないし、剣も出来ないし」
「力や技だけが、戦士の条件じゃないよ」
「なんで? 戦士にはそれが一番大事でしょ?」
「うーん……ただ暴れるだけならな。けど、戦士に必要な強さや勇気はそこからは生まれない」
このやり取りはいかにもな「ヒーローに憧れる少年を導く師弟関係」の微笑ましい構図があるようだが、このシーンを小林靖子が描くのは決してそういう「いい話」を描くためだけではない。
ここでのポイントは「力や技「だけ」が」「ただ暴れる「だけ」ならな」と「だけ」という言葉を用いているところであり、単なる「力や技よりも「心」こそが大事」というありがちなレトリックにはなっていないのだ。
何が言いたいかというと、リョウマは決して力や技そのものを持つことは否定していないことであり、まずヒーローにとっての大前提である力や技を持つことを肯定している。
勇太少年の言い分に対しリョウマが異論を唱えたのは「力や技こそが大事」という「考え方=脳のOS」に対してであり、勇太少年はあくまでも一般大衆側の94%の考え方=脳のOSしか持っていない。
一方で、リョウマはあくまでバルバンと戦うための力を磨き続けた上で戦士として最も大事な心構えを兄・ヒュウガの教えで徹底的に叩き込まれているため上位6%側の考え方=脳のOSを持っている。
そのため、勇太にはリョウマが述べていることの本質というか思考の抽象度の高さに首を傾げるわけだが、逆説的に言えばヒーローであること、戦士であることとは一般的な価値観・考え方を捨て去ることを意味するのだ。
現実世界でもたとえばトップアスリートや資産家と呼ばれる一流・超一流のステージに立っている人たちはほぼ例外なく銀河戦士と同等のメンタリティーを持っていると言えるだろう。
これをやや格式ばった言い方をすれば、哲学者パスカルの「パンセ」という著書に載っている以下の名言に集約される。
カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。力なき正義は反抗を受ける。なぜならば、常に悪人は絶えないから正義なき力は弾劾される。それゆえ正義と力を結合せねばならない。
リョウマが今回勇太少年に伝えようとしていること、そして過去回想に出てくるヒュウガがリョウマに伝えてきたことは正にこれであり、「心の強さ」とはあくまで「力と技」が十分にあってこそ成立する。
「力や技だけが戦士の条件ではない」というのは第一章からこれまでギンガレッド/リョウマを中心として3000年もの間戦う力と技を十分に磨いてきた戦闘のプロだからこそ成立する話だ。
リョウマが単独でバルバンの幹部を圧倒し一騎討ちでも余裕で勝てる「強者」であるからこそ、「一番心が大切である」という話ができるのであって、これを前2作のレッドが言っても成立しないだろう。
なぜならば、『激走戦隊カーレンジャー』のレッドレーサー/陣内恭介、『電磁戦隊メガレンジャー』のメガレッド/伊達健太はあくまでも青山勇太少年のような一般人レベルの価値観しか持っていないからだ。
力や技が十分に出来上がっていない「等身大の正義」なんてものしか持ってない人が戦士の条件の何たるかを説いたところで、それは非力な庇護対象になりかねない自分の弱さに言い訳をしていることになるからだ。
あくまでも臨戦態勢で力を磨き続けたが、決して自分自身で戦士の資格を勝ち取ったわけではないリョウマがこれまでの戦いでの実績を十分に積み重ねてきたからこそ、この展開が成立することを理解せねばなるまい。
逆に言えば、このレベルまで十二分に理解できない浅薄な輩には本作の何がそんなに素晴らしいかなどわかるわけがないのであって、どこまで行こうと結局は考え方=脳のOSが全てなのである。
まあ似たような展開を翌年の『デジモンアドベンチャー』もそれっぽい展開はやっていたが、あっちなんぞとは比較にならないほどの強固な土台と展開の蓄積がこのヒーロー論を可能としているのだ。
正に圧倒的強者の風格を兼ね備えた銀河戦士の代表にして象徴であるリョウマから勇太へ、決して説教臭くない形で噛み砕いてヒーローものの一番大事なエッセンスが伝承されていくのが今回のミソである。
メタルヒーローシリーズを彷彿させる人間爆弾テロ
さて、今回改めて驚きだったのは導入でも書いたが9.11(アメリカ同時多発テロ)を予見したかのような無差別テロであり、ブドー魔人衆らしからぬストレートな破壊作戦に出ている。
あくまでもギンガの光探索が目的だからということで虱潰しにあちこちを手探りしていくわけだが、そのために己の犠牲を出さずに人間爆弾を生成するという発想・着想に至るのが恐ろしい。
まるで『特捜ロボジャンパーソン』で描かれていたような都市部の破壊という見慣れた画が出てきたのだが、小林靖子と長石多可男はもしかするとメタルヒーローへのオマージュもあったのだろうか。
ファンなら誰しもご存知だが、『特捜ロボジャンパーソン』で小林靖子は脚本家としてデビューしており、その時から「二人の真壁ジョージ」という時代劇の影武者ネタを描いている。
そんな女史が今回改めてこういう作戦をファンタジー戦隊の中で描いているというのが妙な面白さを生んでおり、決してファンタジーだからといって魔法や奇術だけに頼らないという柔軟性ある発想力が見事だ。
こういう大規模な破壊作戦は4クール目に出てくるバットバス魔人部隊が得意分野としているところだが、ブドー魔人衆もやり方は違えどこういう作戦もきちんとできるというところが侮れない。
しかも自らの手を汚さずに一般人の姿に扮した人形爆弾を量産してというのがとてもいやらしく、富野監督が『無敵超人ザンボット3』で出した人間爆弾に匹敵するえげつなさといえるだろう。
マネキンから洞窟の裏で生成しているところの怖さも正に「悪党というのはどこに身を潜ませているかわからない」ということの表れであるというのがバルバンの底なしの恐ろしさである。
この作戦を選択したことで、山間部でのロケーションと都市部のロケーションを見事に両立しており、しかもそれぞれにきちんと役割や意味づけがなされているという徹底ぶりも凄まじい。
ギンガマンという作品自体もこれまで大自然でのロケーションと都市部のロケーションを分断して撮ることはあったが、その形式を反復することで全く違和感のない画面に仕上がっている。
スーパー戦隊シリーズの大きな特徴としては「チーム戦」というものがあるわけだが、チームだからと言っていつも一緒にいればそれでいいわけではない。
「分断した時にどのようになるのか?」まで含めて描いてこそのチーム戦であり、これ自体は『秘密戦隊ゴレンジャー』の頃から変わらぬ戦隊の1つの伝統といえよう。
その上で今回は日常の中にいきなり非日常の存在が紛れ込む面白さをストレートに演出しており、それが何とも言いようのない緊張感と面白さを生む。
こういう面白さは90年代後半のこの時代だからこそできた作劇に演出だと思うし、逆に言えば後年の『仮面ライダー電王』以降の小林靖子メインライター作品群には見られない作家性である。
今だとこういう爆弾テロみたいな直接的かつ衝撃的な破壊工作はポリコレだったり表現の規制だったりといった事情でできなくなているという側面もあるし、今ではもはや何が「悪」かすら自覚のない時代だ。
なぜ『ドラゴンボールDAIMA』然り『シン仮面ライダー』然り今のエンタメが結局は過去の名作を擦ってばかりなのかというと、この時代の方が攻めた表現ができていたからではなかろうか。
分断させたことで生じた個人戦と集団戦の面白さ
上でも少し触れたが、今回が2クール目の中でも群を抜く面白いフィルムに仕上がっているのは、決して最初に述べたパスカル的ヒーロー論が面白いからということだけではない。
山間部での個人戦と都市部での集団戦を同時進行で分けて描くことによって、スーパー戦隊シリーズの「らしさ」と「らしくなさ」が浮かび上がったからである。
ちょうど『デジモンアドベンチャーVテイマー01』の批評を書いたところなので、是非とも比較も兼ねてご覧いただきたい。
私は「Vテイマー」のアニメ版無印にはない魅力として徹底して「一対一」の魅力があることを挙げたが、同時にそのことがスーパー戦隊シリーズの1つの特徴を浮かび上がらせた。
それはスーパー戦隊シリーズはある種の「女性性」の側面が強いシリーズであるという事実であり、これが同時に『ウルトラマン』『仮面ライダー』との違いでもあるだろう。
ウルトラマンや仮面ライダーは(少なくとも初代に関しては)単独で戦うヒーローであって、確かにチーム戦の側面も無きにしも非ずだが、基本的に敵との戦いは「一対一」だった。
その「一対一」の原則を崩したのが『秘密戦隊ゴレンジャー』の「5人全員が主役」なのだが、これは同時に「弱いものいじめ」「THE・数の暴力」というネガにもなりかねない危険性がある。
その対策として初代「ゴレンジャー」ではゴレンジャーストーム・ゴレンジャーハリケーンという5人が1つになって初めて完成する「合体武器」を編み出したところにあるだろう。
一人一人はそんなに強くなくとも、チームを組んだ時に最強になる方式だが、なぜ仮面ライダーやウルトラマンと違って女性も参加できるのかというと、チーム戦においては「非力な女性でも活躍できるから」である。
これは決して性差別ではなく性「区別」であり、それこそ『美少女戦士セーラームーン』が『ドラゴンボール』を超えるギガヒットを生み出したのも、5人1組のチームという戦隊シリーズ方式だったことと無関係ではない。
それこそ、『ドラゴンボール超』の力の大会編ではこのような感想も散見された。
第2宇宙が美少女戦士、魔女っ子を揶揄したものなら、第11宇宙は戦隊ものを揶揄したものである。美少女戦士、魔女っ子にはまる者には「クールであれ」というのがメッセージなら、戦隊ものにはまる者は「女にやられる」がメッセージである。
非常に鋭い意見であり、実際戦隊シリーズの女戦士といえばのところで「七変化」なんてものがあったりしたが、女戦士の役割のルーツは忍者でいう「くノ一」、すなわち「色気で男を油断させて一気に寝首をかく」のが女戦士の元々の役割である。
初代「ゴレンジャー」でなぜ女戦士であるモモレンジャーが爆弾やゴレンジャーストームの起点なのかといえば、正にこの「くノ一」ムーブを一手に引き受ける存在だからに他ならないことは誰もが承知しているだろう。
そもそも、よく考えてみると私自身もそうだが男は目的もなく徒党を組まない「個」の生き物であるのに対して、女とはあくまで周囲からの共感を得て周りとの協調の中で生きる「和」の生き物である。
だから、戦隊シリーズとはそもそも「チームを組んで初めて一人前」からスタートしたシリーズであり、だからこそ男性性とは異なる女性性の強いシリーズであるといえるし、実際戦隊シリーズは女性のファンも多い。
それを踏まえて見てみると、第十二章に続いて今回でも4人VSブドー魔人衆という集団戦と並行してギンガレッドVS傀儡太夫を描いているが、本作はこの「個人戦と集団戦の使い分け」が意識的になされている点に注目したい。
小林靖子は時代劇趣味の作家と言えるが、時代劇の本質とは「一対一の剣戟」と同時に「乱戦で無双する一騎当千の強さ」にこそあり、だからこそ本作然り「タイム」「シンケン」然り主役のレッドには頭一つ抜けた強さを持たせている。
女史はわかっている、一対一こそが男のロマン・華であり、その空間に他の者が立ち入ることなどあってはならない、そんなことがあったら台無しになってしまうことを。
小林靖子はよくアンチから「BL作家」なんて揶揄されがちだが、それはあくまで腐女子がそういう捉え方をするだけであって、彼女自身は並の男より遥かに男前の鋼の精神を持った女傑だと断言する。
リョウマは勇太と共に陽動作戦を立てながらも、決して仲間の元には駆けつけないし、仲間たちも「リョウマのやつ、何してんだ!?」みたいな泣き言や甘えを言わない、それが戦士だと信じて疑わないからだ。
私がなぜ「ギンガマン」を全戦隊の中でも別格に大好きなのかといえば、単に「チームとして強い」だけではなく、ここぞという極限の場面で見せる一対一の格好良さ・強さがあるからだろう。
チームとして強いだけならただの半人前、個人個人が独立した強さを持った上でチームを組んでなお強いという「個」と「和」の両立ができてこそ真のチームなのだ。
ラストカットで遂に登場する謎の騎士
そんな壮絶な爆弾テロに巻き込まれて瀕死の重傷を負いつつも生き延びたリョウマだが、このことからもやはりリョウマをはじめギンガマンの5人の肉体の頑強さと生命力はサイヤ人並と断言して差し支えない。
これは後の批評でも語ろうと思っていたので、ある程度前倒しして先行投資として語ると、やはりギンガマの森の民、わけてもギンガマン5人は各星獣の星からやってきたと思しき初代ギンガマンの直系の子孫だと考えられる。
3000年もの間に地球人としてすっかり帰化したように思われるが、遺伝子としては異星人である初代の血を濃く継承しており、だからこそあれだけ戦闘に特化した強さを持っていることにも納得が行く。
そしてその仮説を裏付けるのが正にラストカットで出てくる謎の黒い騎士こと黒騎士の存在であり、彼の存在がこの作品の世界観を広げテーマを深めてくれる重要な役割を担ってくれるのだ。
ラストカットでリョウマを左肩に担いで登場する黒騎士はこの段階では海のものとも山のものとも付かぬ謎多き人物であるが、次回以降徐々にそのベールが明らかになる。
今回はリョウマと勇太が満身創痍になるレベルで獅子奮迅の活躍を見せてくれたが(モチーフとなる星獣が獅子だけにね)、最後の最後で美味しいところを掻っ攫う形となった。
ここから第二十四章までは黒騎士のキャラクターを立たせる時期へ入るわけだが、牛モチーフと黒の甲冑をここまで渋くカッコ良く仕上げた作品を私は他に知らない。
強いていえば『百獣戦隊ガオレンジャー』のガオブラック、『宇宙戦隊キュウレンジャー』のオウシブラックはブルブラックの直系のパロディと言えるが、そのカッコ良さはデザイン・キャラともに足元にも及ばないだろう。
その黒騎士はどこか爽やかではあった本作の作風に強い刺激を与えてくれる劇薬であると同時に、その存在自体がギンガマンにとっての1つの鏡面という側面も持っているのだ。
今回は結果としてリョウマを助け出してくれたが、あんなに近いところで見張っていたにも関わらずに傍観を決め込んでいたという意味では非情な存在であるともいえる。
スーツアクター・大藤直樹と声優・落合弘治の低くて渋い声質が凄まじい重厚感を与え、これまでのスーパー戦隊シリーズの歴史すらも塗り替えてる存在となっていく。
黒騎士が一体どのような存在として描かれていくのかという視聴者の期待と不安を与えながら、混じり気無しのシリアスを真っ向から描いてくれた回だろう。
総合評価はS(傑作)100点満点中110点、これまでも完璧だった「ギンガマン」がここから作品として大きく跳ねる。



コメント
2なんか最近は王道=簡単に受けを取れるテンプレート、なんて唾棄すべき風潮が漂ってますが、やはり強く気高い芯を持っている人間を見れる20世紀の王道作品の多くが現代においても色褪せない神作となり、上部だけの現代の王道(笑)が何処まで行っても一過性のブーム、殆どが名前すら知られず消えていくのからして、真の意味で王道の作品は本当に奥が深く、何度も読み返したい、それを語りたい価値のあるものだと感じさせてくれますね。
かなり最近の話ですが、『北斗の拳』の原哲夫先生が描かれた新芽を慈しむケンシロウの『アート』にオークションで300万台の価値が付いたのも、それこそ心と強さを整えた人間だからアートとして様になっているのであって、今のエセ王道の作中人物達には成し得ない事でしょう。仮に彼らを描いたモノをオークションに出そうもんなら『ゴミ』と蔑まれて値など付かないと思います。
早く真の王道と呼べる作品をリアルタイムで追う感動を味わいたいと願ってますが……昔の作品を賛美する人間を老害と呼ぶのが当然の今では不可能なのが残念です。
>正直なんだよさん
いわゆる「真の王道」と「上っ面王道」は何が違うのかというと「深み」があるかないかだと思うんですよね、徹底的に突き詰めるところまで突き詰めて作っているかどうか。
それこそ「ギンガマン」を例えば「真の王道」だとすると、今ちょうど同時配信やっている「ジュウオウジャー」なんて単なる「上っ面王道」で全然刺さらないんですよね。
だって、めちゃくちゃ渋い復讐の黒騎士に対して向こうは単なる豆腐メンタルで体育座りしてるメンヘラですよ?これで「王道」とか笑わせんなよって話です。
まあ「鬼滅」「シン・エヴァ」のようなメソメソウジウジしてる奴が最強みたいなのが大衆ウケしてるくらいですから、大衆なんて根本的にバカしかいねえんだなとは思いますが。
結局のところ、「かっこいい大人」がいないから「王道」ができないんじゃないかと思うんですよね、かっこいい大人がいれば自然と王道も出てくるはずですから。