人生の手遅れ感を養う3冊
万人に手渡せる「人生を変える運命の一冊」という魔法のような本は無い。人にもよるし、タイミングも重要だ。
ただし、人生の見方を一変させるような本はある。
強制的に生き方を振り返り、「これでよかったのか?」という疑問を投げかけ、自分が自分に吐き続けてきたウソと向き合わされる。
ずっと正しいと信じてきたことが間違いで、それを認めざるを得ない状況に追い込まれる。素直になればいいのに、できない。過ちを認めることは、それまでの人生を否定することになるから―――そこで、どういう決断をするか?
有名なのはスクルージだろう。
ディケンズの『クリスマス・キャロル』に出てくる、高慢で傲慢なエゴイストだ。財を築き、社会的にも成功しており、「正しい人生」を生きてきたと信じていた。
だからこそ、過去・現在・未来を強制的に見させられ、自分が積み上げてきたものが誤りだったかもしれない―――その可能性を突き付けられる。これを受け入れることは、単なる後悔や反省を超えた残酷なものになる。自分の人生そのものを、根こそぎ問い直すことになるからだ。
スクルージは逃げ道を塞がれ、選択を迫られた。「選択をしない」という選択はできなかった。だから人生を変えることができた、とも言える。
多くの人は、スクルージを見て、「私はこんなヤツとは違う」と感じるだろう。ストーリーの都合により戯画化され、前半に冷酷であるほど、ラストの涙は尊く見える。
しかし、私こそがスクルージであることに気づかされる―――そういう作品が存在する。そればかりか、選択しなければならないのは、他でもない私の人生なんだということを、強制的に思い知らされる。
人生の「手遅れ」感に苛まれる『タタール人の砂漠』
ある種の読書がシミュレーションなら、これは人生の「手遅れ感」の予行演習になる。
この感覚は、カフカ『掟の門』のラストだ。かけがえのない人生が過ぎ去って、貴重な時が自分の手からこぼれ去った、あの「取り返しのつかない」感覚に呑み込まれる。
大事なことは、これから始まる。だからずっと待っていた。ここに来たのは間違いだから、本気になれば、出て行ける。けれど、もう少し様子を見ていた......習慣のもたらす麻痺が、責任感の強さという虚栄が、自分を飼いならし、日常に囚われ、もう離れることができない―――気づいたらもう、人生の終わり。
わずかな残りの時間ぜんぶを使って、後悔しながら振り返る。
そして、なにか価値があることが起っているのに、自分は一切関与できない、それも自分から動こうとはしないために。そういう焦りのようなむなしさに苛まれる。そうやって、じっと待ち続けるあいだにも、時は加速度的に、容赦なく流れ去る。
だが、遅すぎた。何も始まっていなかった人生であることを、人生の最後になって知るということは、なんと残酷なことか。これが、自分の人生でなくてよかった。確かに日々は短調な積み重なりにすぎず、むなしく時が流れてゆくのみ。
期待と、言いしれぬ不安と、焦燥の中で宙吊りになった苦しみから解き放たれるような「なにか」を待つのが日常である限り、いつまで経っても、自分の人生は始まらない。
若い人こそ読んで欲しいが、分からないかもしれない。だが、歳経るごとにダメージが増加し、40超えたら大ダメージになる。手遅れにならないうちに、読んでおきたい。
日々の積分が人生であり、私の命を微分すると「今」になる。だから、今を蔑ろにするということは、私の命を無駄にすることになる。
自己欺瞞が暴かれるとき『春にして君を離れ』
自分が自分に吐くウソ―――これに気づくのは難しい。
誰かの矛盾を突くのは簡単だし、マスコミの不備を指摘するのは易しい。だいたい『言葉』や『記憶』こそあやふやなもの。しかし、そんな私が最も疑わない―――あらゆるものを疑いつくした後、最後に疑うもの―――それは、自分自身だ。
私は、自分を疑い始めるのが怖くて、家族や周囲に注意を向けて気を紛らわしているのかもしれない。自己正当化の罠。
では、こうした日常の諸々から離れたところに放り出されたら? たとえば旅先で交通手段を失い、宙吊りされた場所に居続けたら? 読む本も話し相手もいないところで、ひたすら自分と向き合うことを余儀なくされたら?
そんな中年女性が主人公だ。クリスティーにしては異色作、誰も死なないし、犯人もいない。中年の女性の旅先での数日間が、一人称で描かれる。
しかし、暴かれるものはおぞましい。読み手はきっと自分になぞらえることだろう。
最初は、直近の出来事を思い出し、何気ないひとことに込められた真の意味を吟味しはじめる。それは次第に過去へ過去へとさかのぼり、ついに自己欺瞞そのものに及ぶ。
- 私は人格者であり、人生の成功者だ
- アイツのような惨めな境遇ではない
- パートナーのダメな部分は、私が正してやらないと
こうやってリストアップすると、この女の「自己中心」が見える。しかし、それは「ほんとう」なのだろうか?疑いはじめるとキリがない。自分の人生が蜃気楼のようなものだったことに気づく恐ろしい瞬間が待っている。
「自分の人生」を生きなかった男の末路『セールスマンの死』
かつては敏腕セールスマンだったが、今では落ち目の男が主人公。
家のローン、保険、車の修理費、定職につかない息子、夢に破れ、すべてに行き詰まった男が選んだ道は――という話。だれもが自由に競争に参加できる一方で、競争に敗れたものはみじめな敗者の境涯に陥るアメリカ社会を容赦なく描き出している。
見どころは、このセールスマンの葛藤。
前向きで、強気で、ひたむきだ。人生の諸問題はプラス思考でなんとかなると押しまくる。今で言う「ポジティブシンキング」の成れの果てを突きつけられているようだ。自分に都合よく現実を解釈し、自らを欺き続ける主人公への違和感は、そのまま自分の人生への違和感になる。
そしてついに、目を背け続けてきた現実が、過去が、彼をつかまえる。自己欺瞞が徹底的にあばかれるとき、読み手は思わず自分を振り返りたくなる。私の人生はカラッポなんかじゃないって。同時に、彼がおかしい――いや、狂っているのかどうかも分からなくなってくる。いっそ「狂気」のせいにしてしまえれば救われるのに、と願いながら読む。
興味深いのは、彼が何を「売って」いるのかという謎だ。
戯曲では、彼が持ち歩くサンプル・ケースの中身は明らかにされていない。彼が売っているのは委託された商品などではなく、「自分そのもの」であるという解釈が適切だろう。成果や結果を期待されながらも、結局は時間を切り売りしているわたしにとって、この解釈は痛い、痛いぞ。
彼の狂気が私に同期する。彼の絶望が私に浸透する。
「お話」と分かってはいても「ひとごと」ではないのだ。終盤、追い詰められれば追い詰められるほど、全てを捨てて、やり直したくなる。リセットへの誘惑の演出がまたいい。フラッシュバックを多用し、過去の人物と現在の彼との対話を繰り返す。彼がたどりついた結論は、そのまま私の未来になるかもしれない。
自己欺瞞の人生を直視する
『タタール人の砂漠』のジョヴァンニ・ドローゴ
『春にして君を離れ』のジョーン・スカダモア
『セールスマンの死』のウィリー・ローマン
偶然か必然かにかかわらず、主人公たちは、自分の人生を直視することを余儀なくされる。そして、自分にウソを吐き続けてきたことを認めざるを得ない状況に追い込まれる。
私は物語の最後までたどり着き、主人公たちの絶望に寄り添いながら、読者という安全な場所から、「これが物語でよかった、私の人生でなくて、本当によかった」と胸をなでおろす。
でも、本当?
安全圏にいるというのは幻想で、他ならぬ私自身が、私の人生から目を逸らして、他人の人生を見て安心しているんじゃないの?「自分の人生を生きる」ことから逃げる言い訳を吐き続けているのは、私じゃないの?
その通り、私がスクルージなのだ。私はドローゴのように無為に時を過ごし、ジョーンのように事実を歪め、ウィリーのように自分に嘘を吐き続けてきた。自分の人生を生きなかったことを思い知らされるのは、こんなに酷い気分なのか。
そして私は知っている。「自分の人生を生きる」選択ができた時まで、時を戻すことはできない。人生にはリセットボタンなどなく、あるのは電源ボタンだけなんだと。
そして私は、これも知っている。人生はオートセーブだから、「いま」選択をやり直すことだってできる。自分が好きだと言える方、後悔しない方の選択なら、いまからでもできる。
走馬灯を眺める時に味わう苦悩を、いま味わうことで、自分の人生を生き直すことができる。そんな3冊だ。
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