蔵之前忠勝をして「稀代の勝負師」とうならせたのが井上淳介である。
なるほどあの小さい身体に闘志をみなぎらせて撞く姿はわたし世代の憧れであったし、何よりも華があった。
ビリヤード店の息子に生まれ、35才になってプロ入りした淳介さんをわたしは書こうと思う。
淳介さんが生まれた昭和15年ころは、ビリヤードの主流は四つ玉だった。
彼の実家は2軒の球屋を経営しており、当時の写真をみせてもらうと10名以上の和服の女性が写っていてこれはゲーム取りの面々だ。この頃のビリヤードはなかなかに華やかなもので、庶民の娯楽の一角を占めていたように思われる。その写真の端に「米式ローテーション」の看板があるがこれはポケットのことで、「英式ローテーション」はスヌーカーのことだったそうだ。
後に淳介さんは四つ玉の10本(500点)選手になるが、さぞかし手ほどきを受けたのだろうと思っていたら大まちがいで、球屋の息子に生まれたものの意外にも彼は父からビリヤードを厳しく禁じられていた。
「ビリヤードなんかやってもロクなことにならん。そんな暇があったら勉強しろ。」
だが彼は隠れて撞いた。
そのうちに少しくらいは撞けるようになったのだろう。中学生のころ店の常連に連れられて天神橋6丁目の「北陽」に行く。そこは「ニギリ」(隠し球)のメッカだった。
参加料100円で、自分の球を入れたら全員の参加料を総取りである。
当時の100円は大したもので、昭和40年ころ私の実家では1個10円の鶏卵を買うのがしんどくて庭でニワトリを飼っていたし、小学生の小遣いは一日10円が相場だった。
そして淳介さんはこの勝負で勝つ。
1ゲーム終わるたびに100円札5、6枚をわしづかみにしてポケットに入れる感触は、この後50年以上もつづく彼のビリヤード人生の原動力になった。

セリー
上図のような状態から白球を撞き台の周囲をぐるぐる回る。このセリー防止のために考案されたのがボークラインである。中島啓二はこの技を駆使して5点制で3万点! 撞いた。

だが、わたしの知人(故人)はポケット台でセリーをやってみせた。名人芸である。
大学卒業後3年ほど会社勤めをした淳介さんは、昭和40年ころ高齢の父にかわって球屋の跡を継ぐことになった。「吹田中央ビリヤード」である。
「正直なところ球屋経営にそれほど興味はなかったです。他に夢もあったしね。ただ、自分をここまで育て大学まで行かせてくれたのはビリヤードのおかげです。それを閉店する気にはなりませんでした。」
この頃には、商売としてもビリヤードはそれほど旨味のあるものではなくなっていた。
それまではゲーム代と散髪代はほぼ同じくらいの値段で、1時間90円の時代は散髪代も90円であったし、その後120円180円と値上げすれば散髪代も同じように値上げしていたのだが、昭和50年ころにはゲーム代360円に対して散髪代は1500円と大きな差がついていたのだ。
しかも全盛を誇った四つ玉人気に翳りが見え始めていた。
かつての5点制のときは5点当たりを狙って様々の妙技があったのだが、1点制ではその必要がなくなったためにゲーム自体のおもしろさが半減し、その後四つ玉は急速に衰退することになる。
淳介さんはそれまで2台だけだったポケット台を増やし、他店との対抗戦を企画した。「吹田中央チーム」は強く、それ以後30~40回行われた対抗戦で一度も負けなかった。
淳介さんの不思議なところは、球屋を経営していながら25才から33才までの間、試合に出場しなかったことだろう。
普通はある程度強くなれば試合に出てみたくなるものだが、彼はひたすら自分の店で常連相手に撞くばかりだった。
それが1974年、突然「内閣総理大臣杯」に出場する。
ローテーション180点のこの大会が彼のデビュー戦である。34才になっていた。
順調に勝ち進んだ淳介さんは、決勝で新進気鋭の横田武(現JPBA)に敗れ準優勝に終わる。
これが彼の闘魂に火をつけた。
(つづく)
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