昭和時代、なぜエロ本は「山」「駐車場」に捨てられたのか?――少年の足が支えた非公式流通、移動経済から分析する
匿名の連鎖が作った非公式ネットワーク
前述のとおり、津田は番組で「飽きたら捨てるのはもったいないから、中学生のために置いておいた」と語っていた。冗談のようにも聞こえるが、実際の状況はそれに近い。 多くの場合、成人向け雑誌は破棄されず、次に手にする誰かを想定して、見つかる場所に置かれていた。そこには匿名の連鎖があった。所有は放棄されても、存在は引き継がれる。名も顔も知らない相手に向けられた、奇妙な受け渡しである。物理的な地点を情報の格納場所として利用することで、特定の場所が、送り手と受け手の中継ポイントに変わっていた。 この現象は、見知らぬ他者への暗黙の信頼が成立していたことを示している。提供する側は、自分の後に来る誰かも同じ悩みを抱えているだろうと想像する。取得する側は、先人が残したものを信じて探しに行く。直接の接触や対話はなくとも、場所という媒介を通して相互の期待が成立していたのだ。 社会全体で共有される少年の通過儀礼としての暗黙の了解が、この循環を支えていた。共通の目的を持つ者たちが、特定の座標を介して非対面で意思を通わせる仕組みが、都市の片隅で自然に動いていたことになる。 金銭を介さず、場所という物理的な座標だけで成立する独自の資源再分配の仕組みがここにあった。提供側は廃棄にともなう心理的負担を「次世代への譲渡」という形に置き換える。取得側は移動にかかる労力を対価として情報を得る。この双方向のやり取りが、物理的な座標をプラットフォームとして機能させていたのである。 現代の共有サービスに近い情報交換が、身体の移動と特定の地形を通じて成立していた。受け取る側が目的地まで自らの足で向かうことで、情報のやり取りは完了する。直接の金銭授受がない代わりに、移動という負担を引き受けることが、この循環の成立条件になっていた。
デジタル時代の「移動」と「しげみ」
平成後期から令和にかけて、この風景は急速に姿を消した。情報に瞬時にアクセスできる手段が広く普及し、紙媒体の役割は薄れていった。公園や山は管理が厳しくなり、家庭内のゴミ処理も可視化が進んだ。情報を得るための地理的な制約がほぼなくなり、移動の負担は限りなく減少した。 しかし、こうした変化は技術の進歩だけでは説明できない。社会全体の監視体制が強化され、かつて存在した「見て見ぬふり」の余地が失われたことも大きい。防犯カメラや位置情報の追跡技術が広まり、「誰の目も届かない空白」はほぼ消えたのだ。加えて、大人と子どもの関係性も変わった。以前は「子どもは勝手に育つ」という放任的な態度が見られたが、今は行動を細かく管理し、リスクを事前に排除する傾向が強い。 昭和の少年たちが自転車を走らせて山に向かったように、現代の若者も誰にも見つからない「場所」を求め、デジタル空間を移動し続けている。形は変わっても、秘密をやり取りするための独自の秩序は今なお息づいているのだ。かつては家から離れるために身体を動かすことが必要だったが、現代では端末の中で複数の自分を使い分ける「IDの移動」が広く行われるようになった。 メインアカウントとは別に、趣味や本音を語るためのサブアカウント、いわゆる裏垢を持つ若者は多い。アプリを切り替え、ログアウトして別の人格でログインする行為は、かつて少年が山道を登り秘密の場所を目指した体験と、本質的には通じている。物理的な距離を稼ぐ苦労がなくなった代わりに、人格を切り替える心理的な負担を自ら負うことで、自分の領域を確保しているのである。 24時間で消える投稿は、情報の鮮度を保ちつつ、証拠を残さない「一時的なしげみ」として機能する。デジタルデータは複製が容易で、一度ネット上に出れば完全に削除することはほぼ不可能だ。時間制限を用いて、自分の情報がどれだけ存在するかを決める。このいずれも、他者の視線と自由とのバランスを取るための合理的な選択である。効率や便利さが優先される時代において、人間の好奇心や発見の喜び、匿名性の価値をどう残すかが問われている。 若者たちが生み出す“新しいしげみ”は、データやアカウントの集まりではなく、社会や文化の中で自由や余白を保つ手段でもある。紙の本や山道でなくても、デジタルであろうとリアルであろうと、形を変えながら好奇心や創造力を育むものなのだ。情報を得るための物理的な障壁が消えたことで、価値の基準は移動距離から、いかに社会の監視を巧みにすり抜けるかという情報の扱い方に移っている。
伊綾英生(ライター)