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僕はなぜ「音楽そのもの」を価値づけようとするのか—批評の流派をめぐって

共犯関係からの脱却。なぜいま「問い」を投げるのか

サカナクションの山口一郎氏が放った「音楽ジャーナリズムは死んでいる」という一言。あの言葉を受け、僕は自分なりの回答として、サカナクション「怪獣」、そしてミセス・グリーン・アップル「ライラック」の批評動画を公開した。

現在の音楽ジャーナリズムは、その産業構造上、ネタの供給元であるミュージシャンやレーベルを真っ向から批判することが難しい。結果として角の立たない「優しい言葉」ばかりが流通し、「なんとなく褒める」という役割に回収されてきた。そんな側面があったように思う。

振り返ってみれば、僕が運営してきた「みのミュージック」も、少なからずそうした空気感を共有するコンテンツだったという自覚がある。楽曲の魅力を分かりやすく伝え、リスナーの入り口を広げることに主眼を置く一方で、作品に対する価値判断や、ふと感じた違和感を正面から引き受けて語ることについては、どこか慎重になりすぎていた。

山口氏の指摘は、僕自身のスタンスを改めて問い直さざるを得ないものであり、正直なところ、痛いところを突かれたような感覚があった。今回の試みは、そうした自分自身の姿勢も含め、いまの音楽ジャーナリズムを取り巻く状況に対して、あらためて「問い」を投げかけてみようとしたものでもある。

「解説」という批判への回答

これらの動画に対し、「あれは音楽解説であって、音楽批評ではない」という反論が提示されているようだ。

『怪獣』と時代、誠実──音楽"批評"を勘違いしないでね|かよちゃん

2026年、それは革命の年_音楽ジャーナリズムは「機能」しているか—「KID A」と「怪獣」批評騒動|de la chic

両記事に共通して見られる主張は、僕の語りが「社会的な接続」を十分に引き受けておらず、楽曲の構造やアレンジ、技法といった楽典的・内在的な領域に留まっている。ゆえに、それは「解説」の域を出ていない、というものだ。

まず明確にしておきたい。これは決して、どちらが正しいかといった優劣の問題ではない。単純に「流派の違い」なのだ。

内在的批評と外在的批評

大きく分けると、批評には二つの立場がある。

一つは、「内在的批評」だ。 作品そのものの内部構造に立ち入り、何が鳴っているのか、どのような文法や歴史的参照を持ち、何に成功し、何を差し出して成立しているのかを論じ、価値づけを行う態度である。

もう一つは、「外在的批評」だ。 作品を社会、時代、倫理、産業構造、政治的文脈の中に配置し、その接続関係や意味作用を論じる。いわば「作品が世界とどう関わっているか」を解き明かす態度といえる。

僕が行っているのは、明確に前者だ。そして反論を行っている方々は、後者の立場に立っているのだと理解している。このアプローチの違いは、以前、田中宗一郎氏と対談した際にも決定的に噛み合わなかったポイントであり、
今回が初めてではない。

ではなぜ、現在これほどまでに「外在的批評」が支配的なのか。

それは、現代において「何が良い音楽か」という絶対的な審美眼を提示することが、極めて困難になっているからだろう。価値観が細分化されたポストモダンの世界では、「これは良い」と断じる主観的な価値づけは、しばしば独断的で権威的だと見なされる。

その結果、批評家は「自分の耳」だけでジャッジを下すという孤独なリスクを避け、社会状況や時代性といった、客観的に共有しやすい「外側の指標」を後ろ盾にするようになった。作品を文脈の中に「配置」すること。それによって、批評は個人の主観による危うさを回避し、知的な説得力を保つための「足場」を手に入れたといえる。しかしそれは同時に、自らの感性で作品の価値を断言するという、批評本来の責任から距離を置くことにも繋がったのではないか。

そして、そうした「配置」を重視するあまり、肝心の「鳴っている音」や「音楽的な達成」への踏み込みが疎かになってはいないか。それが、僕がずっと抱き続けている違和感の正体でもある。

私の批評観について

僕は、ノエル・キャロルの美学・批評理論に強く影響を受けている。

キャロルは、批評を曖昧な印象論や難解な理論武装から切り離し、「説明責任を伴った価値づけ」の営みとして再定義した人物だ。作品をまず理解可能な形で記述し、その上で、何が達成され、何が失われたのかを判断する。

僕は、このキャロルの考え方に深く共感し、自らの批評実践の基礎に置いている。作品の良し悪しを濁すのではなく、根拠を持ってジャッジすること。だからこそ、僕は批評の定義を、他ならぬ「価値づけ行為」そのものだと考えているのだ。

反論を試みてきた、かよちゃん氏は、哲学者・東浩紀氏を引用し、次のように述べている。

「哲学者の東浩紀さんも、批評を価値判断ではなく『配置』の作業として捉えてきた。

批評とは『良い/悪い』を決めることではなく、作品がどの文脈に置かれ、何と接続しているのかを示す営みだと述べている。たしか、著書『動物化するポストモダン』で語られている。」

『怪獣』と時代、誠実──音楽"批評"を勘違いしないでね|かよちゃん

この考え方自体を否定するつもりはない。ただし、僕の立場とは明確に異なる。

なぜ内在的批評を選ぶのか

僕が内在的批評を重視する最大の理由は、現代社会において、倫理や正義の基準を共有することが極めて困難になっていると感じるからだ。

何が抑圧で、何が進歩で、何が正しいのか。その前提さえもが分裂している今の状況において、社会や倫理を批評の「前提」に置いてしまうと、それはもはや作品の「説明」ではなく、書き手の「立場表明」としてしか機能しなくなる。

結果として作品そのものは置き去りにされ、読み手は音楽の内容ではなく、その批評家の「態度」に同意できるかどうかという、一種の踏み絵のような基準で判断するようになってしまう。僕は、それだけは避けたい。

それに、正直な実感を言わせてもらえば、外在的な文脈に頼りすぎた批評は、往々にしてポエムのような印象論に着地してしまいがちだ。(もちろん、これまでになかった気づきを与えてくれるものも多いが)読んでいても、僕はそこには「燃えない」のである。

だからこそ、あえて「内側」に踏みとどまることを目指している。

  • 音楽として、具体的に何が起きているのか。

  • どのような設計思想で作られているのか。

  • 何が成功し、その裏で何が代償として引き受けられているのか。

これらを徹底的に言語化し、価値づけること。もちろん、社会との接続を否定しているわけではない。ただそれは、精緻な内在的批評を積み重ねた果てに、結果として立ち上がってくるものであって、最初から用意しておくべき「正解」ではないはずだ。

あえて一歩踏み込んだ本音を言えば、外在的な「配置」を重視するアプローチには、音楽そのものを語るための「耳」や「知見」と向き合うプロセスが、無意識のうちに後回しにされているのではないか、という懸念がある。

これまで、日本の音楽批評において「社会を語ること」は、時に音楽面への踏み込みの甘さを補完するための手段として機能してきた側面はないだろうか。

もちろん、音楽批評において楽典的知識はマストではない。しかし、それは限りなくマストに近い「ベター」だと思っている。目の前で鳴っている音が、なぜその色彩を放っているのか。その理由を構造的に把握しようとする努力を放棄して、安易に「社会」という大きな物語に接続してしまうのは、作品そのものに対する不誠実ではないか。

僕が内在的なアプローチにこだわるのは、それが作品を「記述」し、その価値を論証するための、最も客観的で検証可能な土台だからだ。

音を掘り下げた先に、時代が立ち上がる

もちろん、内在的批評と外在的批評は、白黒はっきり切り離せるものではない。作品そのものを深く読み解いていけば、そのプロセスの先で、ふいに時代や社会との接続が浮かび上がってくることがあるからだ。

たとえば、先日公開したミセス・グリーン・アップルの「ライラック」についての批評。あれはまさに、僕なりの「内在的批評」を積み重ねた結果として、図らずも「社会との接続」が露わになった例だと言える。

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ライラックの構成

ミセスの楽曲が「ドーパミン中毒の若者向け」と揶揄されるその正体を、僕は社会学的な分析からではなく、イエスの『危機』にも匹敵する情報過多なアレンジメントの中に見出した。アテンションスパンが短縮されたTikTok的環境への過剰なまでの適応。リスナーとの対等な関係を拒絶し、ひたすらポップスのスペクタクルを乱射し続けるスーパーマン的なナルシシズム。

これらは、僕が「音」そのものの設計思想を解剖した結果として導き出された結論だ。最初から「SNS社会の病理」という外在的な正解を当てはめるために音楽を聴いたのではない。音楽的な「足し算の美学」を極限まで突き詰めて記述した結果、期せずして、現代という時代が要請する歪な構造と接続してしまったのだ。

当然、僕がやっていることが音楽ジャーナリズムの唯一の正解だとは思っていない。外在的批評が担ってきた歴史的な役割も理解しているし、その射程を否定するつもりもない。

ただ、批評の形は一つである必要はないはずだ。

内在的に価値づける批評もあれば、外在的に配置する批評もある。それらが互いを排除するのではなく、健全に併存できる地盤が必要なのだと考えている。僕の仕事は、そのうちの一つの選択肢を、理論ではなく「実践」として提示し続けることにある。

これからも僕は、音楽を音楽として語る。 それが、いま最も誠実な態度だと信じているからだ。

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「批評を曖昧な印象論や難解な理論武装から切り離し、「説明責任を伴った価値づけ」の営みとして再定義」〜はビアズリーらもっと前の人達の仕事であって、キャロルは継承しただけでは?キャロルの重要なところはそこじゃなくて、社会や倫理だのといったみの氏が前提に置きたがらないことを統合しようと…

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俺の名は

正直、批評家が各々のスタンスでバトってる様子は、どちらが正しいか間違ってるかを抜きにしても、傍から見てとても知的好奇心をくすぐられて面白いです。そしてそれ自体ものすごく人間的行為だと思います(良い意味でも悪い意味でも)。野次馬根性で申し訳ありません。ただ今回の件は相手方界隈の振る…

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外在的批評にはある欠陥が潜んでいると思う。それは、例えばある曲を誰がどこの国でいつの時代に作曲しリリースしたのかという外部情報全て目隠しで、ただ純然たる音楽として聴かされた場合、内在的批評なら音楽そのものに対する評価が可能だが、外在的批評では情報不足で出来る事がかなり限定されてし…

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内在的か外在的かはどうであれ、読み手を置いていかないのがあなたの批評の売りだと思います。拘りを読み手に押し付けないバランス感覚が気持ちよかったです。「批評」というのは拘りを持つほどつまらないものになっていくのかもしれませんね。

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