信長が激怒! 大河「豊臣兄弟!」出禁食らった前田利家の大失態
許してもらうためには、戦で結果を残すしかない。そう考えたのだろう。利家は謹慎中の身でありながら、密かに戦に参加。永禄3(1560)年の「桶狭間の戦い」で戦功を挙げている。 それでも許されず、翌年の永禄4(1561)年に美濃へ侵攻した「森部の戦い」で活躍したことで、家臣団に復帰したようだ。『信長公記』には、次のように記されている。 「前田利家は、以前、信長から譴責(けんせき)処分を受けて、この時はまだ出仕を許されていなかった。今川義元との合戦でも、朝の戦いで首一つ、敵方総崩れの際にも首二つを取って提出したが、それでも出仕を許されなかった。このたびの手柄によって、前田利家は赦免された」(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)
結果的には、2年程度で出仕停止が解かれることになったが、いつ許されるかわからない本人にとっては、永遠にも感じられたことだろう。周囲から人が離れていく中、柴田勝家はこれまでと変わらず親密にし、利家を励ましたという。 勝家の人柄が伝わってくるが、このときの思い出がのちに利家を苦しめることになる。 ■利家が秀長とともに挑んだ合戦とは? 利家は永禄12(1569)年、信長に命じられ、利家が兄の利久に代わって家督を継ぐことになる。
『村井重頼覚書』によると、「病弱にして、武者道御無沙汰の状態」と信長に判断されて、強制的に隠居させられたようだ。信長からすれば、戦での功績が充分ではないと不満があったのかもしれない。 だが、前田利久が隠居して、家督を継いだ利家が荒子城に入ることへの抵抗感が強かったようだ。利久の妻は城を退出する際に呪詛を吐き、また、家老の奥村永福は利久の自筆を確認するまで城を頑なに開かなかったという。 利家としても、自身が謹慎を経験したことで「外された者の気持ち」が身に染みてわかったはず。兄弟で道を違えることになった利家だが、秀吉と秀長のコンビネーションをどんな思いで見つめていたのだろうか。