桜羽エマの善性から読み解く『まのさば』のテーマ
あけましておめでとうございます。るなです。
正月に『魔法少女ノ魔女裁判』(以下、まのさば)というノベルゲームをクリアしました。
ざっくりいうとゲームシステム部分はダンガンロンパや逆転裁判のような推理ノベル、シナリオ・設定周りは表面的にはダンロンですが、ビジュアルや内容から連想されるあれやこれやの作品の系譜をしっかりと継いでいるような作品です。
市中にネタバレが溢れる前にプレイするのを勧める!
『まのさば』に関する文章として、多いものはキャラクターについて語ったもの、ゲームシステムについて語ったもの、そして(多くはダンガンロンパとの比較から)ミステリー/デスゲームといったジャンルの切り口で語ったものです。それらについてはすでに語り尽くされていると思うので割愛します。
私は作品を観る上で最も興味がある部分である、作品のテーマについて語りたいと思います。
本記事では『まのさば』の主人公である桜羽エマについて掘り下げ、『まのさば』のテーマ性について検討します。
以下、ネタバレあり。
『まのさば』のテーマって?
もうプレイした人しか読んでいないはずなので、いきなり全力のネタバレになりますが、『まのさば』のテーマとはなんだったのでしょうか。
この問の答えは既プレイ者の中でも反応は二分されると予想します。一つは「いろいろあるけど、要はあの一節でしょ?」となる派閥、もう一つはそもそもあまりピンときていない派閥です。そしてこの二つの反応はごく自然なものと考えられます。なぜか?
それは『まのさば』の結論が、一見するとあまりに当たり前で、理想で、妥当すぎて「そうだね」としかならないようなものだからです。『まのさば』のテーマとは、まとめると以下の部分です。
桜羽エマ「人間にも……事件にも……そしてもちろんユキちゃん自身も、いろいろな側面があって……。
物事は見方によっては、全然違う姿を見せるんだと思う。
でもそれはとっても複雑で…だからこそ、単純に理解しちゃいけないんだ。
なんにでも、問題を一気に解決できるような解決策があるわけじゃないし……。」
二階堂ヒロ「地道であっても、1つずつ紐解いていく道……。
それが【正しい道】、なんじゃないかな。……もし人が愚かなだけであれば、どれだけ楽だったろうか。
私はユキの計画に賛同すらしたかもしれない。
……けど、そうではない。人にも物事にも、さまざまな面がある。
君にとって、メルルやエマはこれまで見てきた人類の負の側面とは正反対のものだったんじゃないかな。」
桜羽エマ「だからこそ……それを理解した今の君なら、人間と共存できるはずだよ!」
「多面的に物事を理解し、漸進的に問題を解決していくこと」が理想、その通りだ!
この結論自体は、当たり前の主張ながらゲーム体験とよくリンクしており、それ自体で優れた描き方だったと思います。が、プレイ後の私がそうだったように、この場面はゲーム体験とのリンクによる満足感が強すぎるあまり、テーマについてあまり検討されていないように見受けられます。
では「当たり前の結論」の何を検討するべきか。それは「なぜそれを達成することは難しいのか」です。「多面的に物事を理解し、漸進的に問題を解決していくこと」は、実社会においてもおよそ理想的な状況であると言えます。しかしそれができないからこそ様々な問題があるのです。
そして、それを解く鍵は桜羽エマにあります。
桜羽エマの善性と悪性
『まのさば』のキャラクターは、特に少女たちに限って言えば全員が多面性を持って描かれています。それは対外的な振る舞いや態度と内面・本性の多面性であったり、表向きのプロフィールと実態の乖離であったりします。そしてその最大の重心は各人が抱えている「禁忌」に集約されます。
少女たちの持つ多面性で最も重要なのは善性と悪性の対比です。少女たちは全員、善性と悪性の二面性を持っています。一部の人物においては「思慮不足」など悪性というにはかわいそうな内容なので長所/短所と言い換えてもいいですが、その場合、蓮見レイアの長所:顔がいい(冗談ではなく、彼女が視線を固定する魔法で名声を得られた理由の一端は顔がいいからである)とかも含まれてしまうので内面の性質に注目するためこのように書きます。
では、桜羽エマの善性/悪性とは何か。
分かりやすいため悪性の方から行きます。遠回りだけど仕方ない、エマの内面って難しいから。
桜羽エマの悪性について
彼女の悪性は、二階堂ヒロが彼女を憎むきっかけである「月代ユキのイジメを傍観していた」ことに代表される、ヒロに言わせれば付和雷同で「人に嫌われないこと」が行動原理といえるような、そのスタンスです。
さらに突き詰めれば、桜羽エマが抱えている悪性は極端なまでの「嫌われることへの恐怖」でしょう。象徴的なシーンはエマ編序盤のBAD ENDです。不思議な点があったとはいえ「懲罰房でシェリーに無視されたように感じたから」「みんなに嫌われてしまったから」という理由で、孤立したエマが自害するBAD ENDが二つもあります。
✒自殺!?エマッ!正しくない!!💢💢💢
特質すべきは、このとき魔女化すらしていないことです。つまり、精神的な負荷による魔女因子の暴走という経過を経ずに自害しているのです。彼女にとって、「みんなに嫌われ、孤立すること」は彼女の禁忌すら上回る絶望であり、最も忌避すべき事態と言えます。その意味で彼女の原罪「忌み嫌われるもの」は、イジメを受けていた経緯こそ偽りであるものの、彼女が抱えた原罪であると言えます。
ここから言えることは、彼女が「みんなから嫌われないために行っている」ことは、彼女の善性と素直には言い難いということです。たしかに結果的には善行かもしれませんが、それは偽善であり、いざというときに化けの皮が剥がれます。それを象徴する事件が月代ユキのイジメです。ヒロへ向けた「エマこそが大魔女である」という囁きはユキの誘導で、イジメ自体もユキの仕込みによるものでしたが、「エマがイジメの傍観者であった」という事実はエマ自身の罪です。だからこそ彼女はイジメの記憶を封印し、それが禁忌となっているのです。
ユキの仕込みではなくエマは自ら記憶を封印した。
ヒロによるエマの内面への指摘ではあるが、この場面では真実と断定していいはず。
すなわち、エマの善性として表面的に分かりやすい「博愛主義的な態度」「みんなのことを思って行動する」といった点は、この「嫌われたくない」という行動原理から来ているもので、彼女の善性とは率直には言い難いのです。
実際、これらをエマの善性と言い切るには不自然な点はいくつかあります。彼女は博愛主義的に「みんなで牢屋敷を脱出する」と言っていますが、いざ裁判になると積極的に真相を解明し犯人を処刑台へ送り込みます。作中でも指摘されている通り、彼女は最も積極的に魔女裁判の制度に加担していると言えます。
特に魔女因子の危険性や魔女の実在自体が明らかになっていない1章の裁判には疑問が残ります。このとき、真相解明のためにノアの自死という線をエマは否定しています。本当に「みんなで牢屋敷を脱出する」のであれば、誰も処刑せずに裁判を終えることは可能でした。自死であれば全員処刑は回避できると作中で明言されています。しかし、実在すら疑わしい「魔女を探す」という方向性に、エマによって傾きます。
さらに、2章でナノカが狙ったように牢屋敷の運営側に罪をなすりつけたり、魔法少女以外の外部犯の存在や牢屋敷に残った魔法による事故を強弁することもできます。実際、牢屋敷の周辺には野良のなれはてが存在することも示されています。
エマのこのような行動は特にエマ編で見られますが、ヒロ編では鳴りを潜めるのこともポイントです。エマが本来的に持つ性質であればヒロ編でも発揮されて然るべきですが、ヒロ編ではこの役割はもっぱらヒロが担います。
推測するに、「博愛主義的な態度」「みんなのことを思って行動する」という美点は、本来ヒロの持つ善性なのだと思います。ヒロが死んだルートであるエマ編では、エマはヒロの思考をエミュレートしている節がいくつもあります。
エマ編においてエマが「みんなのことを思って行動」した結果裏目に出たというのが2章の顛末であり、やはりそれをエマの善性というのは難しい部分があります。当然、ヒロはこのようなミスを犯してはいません。
最後にもう一つ、エマが「(自分を含む)世界の全てを嫌悪していた」というのは記憶の封印がなかろうとおそらく事実であるという点です。エマは9章で過去の記憶を取り戻した際に、エマ編ラストで(彼女の肉親なども含むであろう)全人類を殺したことを思い出しましたが、動揺はすれど魔女化はしませんでした。たった二人だけを殺したハンナは魔女化したにもかかわらず、です。
ユキは9章でのエマを殺すべきかという議論の中で「『魔女を殺す魔法』の継承先を見つけるには時間がかかる」と述べています。つまり、エマは「魔女を殺す魔法」の器たる素質があったのです。それは世界への嫌悪にほかならないでしょう。
桜羽エマの真の善性
では桜羽エマの真の善性とは何か。それは前の議論ですでに言及されています。すなわち、真相を解明しようという強い意志、「真実に向かおうという意志」です。そしてどんなに目を背けたい事実であっても真実を受け入れようという覚悟です。
エマが持つ真相解明へ向けた強い意志と覚悟はプレイした方であれば理解できるはずです。3章において、自分の選択が友人を処刑する道だと察した後も彼女は真相解明をやめることはありませんでした。エマ編の終盤、脱出がもはや絶望的になったとき、彼女は「牢屋敷の真実を突き止める」ことを目的としました。彼女の最大の危機を救ったのもまた「真相解明への意志」でした。
まのさばで一番熱いシーン
そして、エマの善性が「真実へ向かおうという意志」であることを最も強く示唆するのは彼女の禁忌です。前述の通りエマは「みんなに嫌われること」を異常に恐れています、加えて記憶を取り戻すまでのエマはイジメの記憶も自分のものとして持っています。しかし彼女の禁忌はそれらではなく「封印された記憶」の方にあります。それは、彼女の犯した最大の罪が記憶を封印することで「真実を消し去ろうとした」ことだからでないでしょうか。なぜならそれはエマが根源的に持つ善性を否定することだからです。
冒頭にジョジョ五部の有名なセリフを引用しましたが、過去に起きた「真実を消し去る」というのは奇しくもジョジョ五部のラスボスであるディアボロの行動と一致します。
知性的であること
このままではジョジョの受け売りになってしまうので、エマの持つ善性をもう一つ加えます。それはエマが常に「知性的」であったこと、知性への信頼を失わなかったことです。つまり、自分と周囲の知性を信頼し、知性によって真相解明ができる、真相解明ができれば事態の解決ができると信じたことです。
そもそも、魔法という「なんでもあり」が使える世界で人知によって真相解明が解明できるかどうかすら定かではありません。9章での魔女化時のような、法外に強い魔法が発現した場合はもはやまともな真相解明は難しいでしょう。またヒロの魔法のように「真実」自体を無意味化しうるような魔法もありえます(だからヒロは魔法が嫌いなのでしょう)。魔法というものを全く知らなかったエマにとってはなおさらです。それでも彼女は魔法にも法則があり、知性によって事件が解明できると信じました。
他者に対しても同様です。彼女は裁判において、正しい知の共有によって真相解明ができると考えました。自分しか知らない情報を活かして偽証するヒロとは対照的です。
エマの行動には、裁判以外の部分でも根底に人間の知への信頼があります。例えばエマ編で魔法による脱出を諦めた後、彼女は科学という人知による解決を図り気球による脱出を思いつきました。魔法を知らなかった彼女にとって「魔法などというものがある、なんでもありに見える世界で」です。
ヒロ編では魔導書の解明を提言しました。見たことない文字で書かれた、自分たちの知識体系からかけ離れた内容の書物であっても人知によって解明できると信じたのです。魔導書の解明に成功したことは、メルルやゴクチョーの想定を超えた牢屋敷に対する最大の一手、まさしく銀の弾丸(シルバーブレット)でした。
ヒロが死に戻りで得た知識も含め、知の蓄積は牢屋敷を打ち倒す最大の武器となりました。
知の継承
「知性によって真実を明らかにする」という行為に付随するテーマとして「知の継承」があります。継承とは「知」が持つミームとしての性質それ自体といえます。代表例として『チ。-地球の運動について-』ではまさしく「知の継承」がテーマの一つとなっています。
エマ編4章において、シェリーとハンナを喪いもはや「全員での脱出」が友人同士ですら叶わなくなったとき、エマは牢屋敷の真相解明に希望を見出しました。それはシェリーの遺言でもあります。名探偵を名乗るシェリーは、知性による真相解明を信じた同志でもあったのでしょう。
橘シェリー「エマさんならきっと、真実を見つけられます!
私の代わりに、この忌々しい牢屋敷の真相を暴いちゃってください!
それが私の願い!」
しかし、この状況で真相を解き明かしても自分たちの脱出が叶うのか、難しいと言わざるを得ないでしょう。少なくとも望む形での脱出はもはや叶いません。
それでもエマが真相解明に希望を託した理由は、それが犠牲になった少女たちへの弔いであると同時に、真実を「次の魔法少女」へ真実を託す意図があったのではないでしょうか。自分が過去の魔法少女から、そして死んでいったシェリーやナノカから託されたように。
メルルが黒幕と発覚した後、一度は森に逃げ延びたエマが牢屋敷に戻ってきた理由は解明した真実を託すためだったと推測します。
そしてエマが後続へ託そうとした真実は、奇跡的なか細い糸によって自分たちに継承され、希望となります。ヒロの死に戻りとココの魔法の覚醒によって。
再び、テーマへ
ここまでの議論で、「多面的に物事を理解し、漸進的に問題を解決していくこと」を実現するためのハードルが浮かび上がります。
第一に「人間の知性によって多面的に物事を理解できる」と信じること。そして「真の理解に辿りつきさえすればいつか人間の知性によって解決可能である」と信じること。
端的に言えば諦めない、知性への希望を捨てないことです。
しかし、知っての通りその道程は容易いものではありません。したがって、様々な形で他者と協力する必要があります。
第二のハードルは「他者を信じ情報を共有する」ことと「他者から共有された情報を受け入れる」こと。
情報を隠したり嘘の情報を共有することは、この部分を阻害します。ヒロやナノカが抱える秘密主義の欠点です。
最後の壁は時間です。これは寿命という人間の限界でもありますが、人知の発展により解決へ近づく可能性もあります。
すなわち最後のハードルは「知の継承」です。
蓄積された知を否定する反知性主義的態度は、この部分を阻害します。「知の継承」を阻止するため、メルルとゴクチョーが次の魔法少女を招く前に徹底的に牢屋敷を「清掃」している様子が描かれています。
これら全ての素養を最も強く持っていた人物こそが桜羽エマであり、またこの素養をエマの善性だと考えた理由です。一言で言えば知的誠実性です。
9章の最終盤にてユキとの議論は「人間は救いようがないほど愚かであるか?」という内容に発展しますが、これはいささか唐突に思えます。
「人間が原初の魔女を虐殺した」ことは事実であり、人間が愚かであろうとなかろうと救いようのない側面を持っています。現に魔女因子を持つ少女を殺処分していますし、復讐で滅ぼされるだけの理由があると言えるでしょう。
しかしこの後、主題は「人間の成長」へと移ります。
これはまさしく人間の知性を信じるか否かという問いです。
そしてユキは全ての命運を一人の少女へ託しました。彼女が最も信じた人間である、エマへ。
月代ユキ「人は学び……そして成長する。
人間は……成長を止めた我々魔女よりも、未来があると…….。
私はそれがよくわかっていませんでした。
……けれど。
きっとみんなの言うことは正しかった。
…….あなたたちを見ていると、そう思います。」
ヒロちゃんはすごいけど、エマだってすごいんだ!
「魔女裁判」を克服する
想定される反論には文中で答えを書いたつもりですが、残された反論があります(逆になんかあれば知りたい、🌸✋️「ちょっと待って!」してほしい)。
それは「エマの知性とかなんとか言うけど、作中の裁判って現実の裁判と違ってガバガバのお気持ちバトルじゃん!」という点です。
これは作品批判のようにも見えますが、「魔女裁判」の本質を付いているとも言えます。
すなわち「『魔女裁判』は全く現代の民主主義的な『裁判』ではない」からです。これは作中の魔女裁判も史実の魔女裁判も同様です。
魔女裁判について
作中の「魔女裁判」では、まずまともに証拠の検証や法に基づく判断がなされません。クローズド・サークルのミステリとも異なり、国家ぐるみのためまともに警察や司法の元に渡る可能性は0と言ってもいいでしょう。そのため、証拠として用いられるのは素人に毛が生えたレベルであろうレイアの検死で法典はミリアやマーゴの法知識です。本来どちらも知的専門職が行うべき仕事です。
さらにいえば魔法が存在するため通常の証拠やアリバイの考え方は意味をなしません。魔法には法則がありますが、犯人の魔法の法則は犯人が嘘を付いていた場合、当てにするのは難しいです(そのようなトリックはあまりありませんでしたが)。私としても、特に「不可能に見える犯罪が魔法による犯行・トリックであれば可能である」という理屈により犯人が特定される流れは、単に可能であるということしか主張していないことへの疑問があります。たとえば7章のノアは定期的に雨を降らせて遊んでいれば「いつもやっていることを誰かが利用した」と主張していくらでも言い逃れできたでしょう。
もう一つ特筆するなら事件の利害関係者でない、第三者である「裁判官」が存在しない点です。全員が容疑者であるどころか「犯人を決めきることができなかった場合、全員を処刑する」というルールにより冤罪であっても誰かに罪を押し付けることが選択肢に浮上します。「誰も吊らない」ことがルール上ほぼ許容されていないという点で、裁判というより人狼ゲームです。「真相解明とかいいから怪しい奴を雑に吊って安心したい」というのは自然な心理です。
要は二階堂ヒロが看過していたように、裁判として全く正しくない!まさに魔女裁判です。
このようなルールでは「お気持ちバトル」になるのは必然的です。
というより「お気持ちバトル」にならないように、まともに真相解明できるよう整えた制度が現代の司法制度であり、また歴史上で「魔女裁判」が持つ意味の一つはこのあたりにあります。
『まのさば』において、ルールを看過したヒロが人狼ゲーム的な説得のゲームを展開したのは、即座に「お気持ちバトル」へ最適化してみせたヒロのクレバーさであり、同時に悪性とも言えます。あくまで現代的な「真相解明」を重視したエマ主導の裁判がすっとろく、ヒロの裁判がエキサイティングに感じられる要因です。
ところで、現代においても「お気持ちバトル」を目にする機会は多いでしょう。代表的なのはインターネットでしょうか。
上述のように、まともに司法制度がなく、利害関係者同士が直接議論して勝敗を決めるような場では必然的に「お気持ちバトル」が生じやすいのです。
それこそ、お互いが桜羽エマのように知性的判断と真相解明を重んじる人物でない限り「お気持ちバトル」は避けられないと思います。
そして、大人数で行う「お気持ちバトル」は基本的に多数派が勝ちます。
逆に言えば「お気持ちバトル」に持ち込んだ時点で、勝つために重要なことは「真実」ではなく「過半数の人間を巻き取ること」です。ここに危険なポピュリズムが誕生します。
ポピュリズムという魔女裁判
思えば『まのさば』での魔女裁判は多数派を取るゲームであり、ゲーム性としてはポピュリズムのゲームでした。
「周囲からの信頼が厚い」「常に中心人物」であったヒロが、毎回不利な条件におかれながらも圧倒的な強さを見せたのは、本人が主張しているように論理と整合性によるものだけではなかったのかもしれません。
ヒロが裁判において行った偽証は、少なくとも一部はノアに、そしてエマ編と同等の捜査・推理力を持つとすればおそらく大部分はエマにバレていたのではないでしょうか。それでも指摘を受けず彼女が優位に立ち回れたのは、彼女の人徳によるものだったのでしょう。しかしそれはポピュリストとしての適正でもあります。
史実においても、近代において「魔女裁判」「魔女狩り」と類似性の高い出来事はポピュリズムの暴走と結びつけられる事が多々あります。ナチスドイツによるホロコーストやWW2後のアメリカでの赤狩りが代表例です。
特にユダヤ人弾圧は、中世の魔女狩り自体も同様の側面を持っていたことが知られています。
ポピュリズムの暴走に対抗する手段は、知的誠実性を持ち、少数派となろうとも真実を追究し、大衆が正当な判断ができるようにすることでしょう。
まさに、エマたちが知の蓄積により魔女裁判を克服し、ハッピーエンドへ辿りついたように。
これこそが二階堂ヒロという鮮烈な人物の対として桜羽エマという人物が置かれた理由だと考えます。
エマヒロってイズムからしてエマヒロなんだ…。
あとAcaciaが次回作でネットをテーマにしてるのもこのあたりが理由な気がするな…。
※補足:自供が早すぎるという話もあるが、(あまり意識しないけど)全員処刑のタイムリミットがあることと、殺人衝動が増すだけで利己的になるわけではないから「友人がパニック吊りで冤罪になるくらいなら敗色濃厚なら自供しよう」というのは自然な思考な気がします。
※補足2:「ヒロがポピュリスト的側面を持つ」というのはヒロへの批判ではありません。ポピュリズムは民主主義的な手続きに内在する性質であり、それ自体は善でも悪でもありません。問題はポピュリズムにより「真実」がおざなりにされることです。その点でヒロは、幸いなことに「正しさ」という確固たる判断基準を持ち、正しければ自らが処刑されることすら厭わない精神性を持っていました。
あとがき
思ったよりも真面目かつまとまった文章になって驚いた。
以下、感想。
まのさば、テーマ部分は軽視されてる印象があるけど、知性の話だと気付き感銘を受けたので文章にしました。
インタビューで若者向けにダンロンやまどマギのエッセンスを伝えたい的なことを言っていたが、テーマ部分は独自性があってまさに今若者向けに作るべきテーマだと思っている。全く説教くさくないのがすごいぜ。
まのさばって個人的には人の善性と愛の物語だと思っていて、プレイ後に思ったのは話題性のためなのかもしれないけどあそこまで露悪を前面に出すのってミスリーディングなんじゃないかと。
だって、最終的には友情と優しさが世界を救っちゃうし。
とはいえ「本質は露悪じゃない」って結構なネタバレだからどこまで言っていいのか迷う。
けっこう『なく頃に』シリーズと比べて読み進めてしまった節はあるけど、そのあたりの系譜としてもいいゲームだったなーというのが今の印象。
好きなCPはエマヒロ、シェリハン、ノアアン、ユキメル。このゲーム公式最大手すぎる。
……本当はユキエマヒロの三角関係が一番好き。
なんで実質自己紹介が最後なんだ?


初めまして、少し気になったことがあるのでコメント残します エマの博愛主義やみんなの事を想って行動する態度がヒロ編ではなりを潜める、とされていますがそれは違うのではないでしょうか? ヒロ編は基本的にヒロの主観で語られるためにヒロが認識していない事はほぼ描写されていません。実際マーゴ…