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酒を飲み過ぎたおかげで天皇陛下からレスを頂戴した話
時は2018年8月5日。北海道の短い夏、真っ只中の日曜日のこと。目を覚ますと、それはそれは酷い二日酔いであった。
前日、私は結婚式に出席し、素敵な女性とゴールインした友人を祝い、ワインをたくさん飲んだ。そのまま二次会にも出席し、ビールをたくさん飲んだ。更にみんなと別れたあと一人で寄り道をし、日本酒を飲んだ。そして帰った。おそらく帰った。記憶はないが、こうして無事に自室のベッドにいることが何よりの証拠と言えるだろう。素晴らしい日だった。だから、これは納得の二日酔い。後悔などない。しかし、つらいものはつらい。
ああ、神龍の正油ラーメンが食べたい。
神龍(シェンロン)とは最寄り駅近くにある、夫婦で切り盛りする中華屋である。その店の正油ラーメンは昔ながらのあっさりとした味わいで、控えめな薄切りチャーシューと食感のいい細めのメンマ、ちょっと多めのワカメがシンプルかつ絶妙なバランス。やたらとでかいレンゲでスープをごくごく飲み干せば、暴飲暴食でやられた胃腸がじんわり癒される、まさに命のスープと呼ぶに相応しい一品である。
じわりと涎が湧き出るも、時間はまだ早朝。神龍の開店までしばらくある。私は開店時間の5分前に家を出ると決め、カーテンの隙間から細く差し込む外界の光に背を向けながら、その時を待った。
11時25分、のそのそと起き上がり、寝巻きのTシャツとジャージのまま、財布だけをポケットに突っ込んで部屋を出た。体調はだいぶマシになっていたが、ぎらぎらと降り注ぐ真夏の日差しは白目を剥くほど強烈で、私の頭を再度ぼんやりさせた。一刻も早く命のスープにありつく必要がある。駐輪場から自転車を出し、いざ神龍へ。アパートの敷地から歩道に出た、その時だった。
「すみません! そこで止まってください!」
なんだ? どうした?
呆然としていると、若い男性が駆け寄ってきた。
「お出かけのところすみません! あと数分で天皇陛下がここを通るので、申し訳ありませんが、僕とここで待っててもらえますか? もうほんとすぐ来ちゃうんで。あ、僕、警察官です!」
警察官を名乗る男性はそう言って頭を下げた。警察官、と言うけれども服装は普通のシャツとジーパンである。本当に警察官なのか? でもこういう私服の警察官、警察24時で見たことがある。いや待て、今、天皇陛下って言った?
ぼんやりしていた私の脳みそが急激に覚醒し、記憶の片隅から情報を3つ、引っ張り出してきた。
【情報①】 今年は北海道命名150年のメモリアルイヤーで、道内で様々なイベントが行われている。
【情報②】 私のアパートの真向いにあるスポーツ施設「北海きたえーる」でも、そのうち何かやるらしい。
【情報③】 記念式典に出席するため、天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后両陛下)が十数年ぶりに北海道をご訪問されるらしい。
脳内で散り散りになっていた情報の欠片たちが、今、一つに繋がった。
北海道命名150年記念式典が、北海きたえーるで開催され、天皇皇后両陛下が御出席されている。
それが、今日。
なんということだ。イチモニ!(※北海道でやっている朝の情報番組)を毎朝欠かさず見ているというのに、どうしてこの重大ニュースを知らずにいたのだろう。onちゃんおはよう体操(※イチモニ!オリジナルの体操。妙な中毒性があり昼頃まで耳に残る)のせいで気が散ったのか? いや、イチモニ!に罪はない。ちゃんと情報をお届けしてくれていたはずだ。私がいつも高速身支度(※30分間でシャワー、メイク、ヘアセットを済ませ家を出る)を遂行しながらテレビを流し見していたのが悪いのである。たいして忙しい日々を送っているわけでもないのだから、YouTubeで高校生ラップ選手権ばかり見ていないでニュースもしっかりチェケラすべきだったのである。
私が己の無知に呆れ返っている横で、警察官は「こちらOKです」「了解です」などと無線で会話をしている。ふと周囲の様子を伺ってみて、驚いた。
いつもは車通りの多いアパート前の道路であるが、車が一台も走っていない。どうやら交通規制が敷かれているようだ。更に、私のアパートの両側2区画向こうに目をやると、人、人、人。天皇皇后両陛下を一目拝見したいと集まった人々が、ポールで区切られた沿道にきっちりみっしり整列しているではないか。一方、私のいる区画は立ち入りが規制されているらしく、私と警察官以外、人っ子一人いない。
「申し訳ありません。ほんとにあと数分なので」
警察官は何度も私に頭を下げた。いや、謝るのはこちらの方である。
状況から察するに警察の皆さんは、天皇皇后両陛下の安全、集まった市民の安全のために、交通規制をしたり、沿道の人々の列を整理したり、この数時間必死に準備を整えていたわけである。そして準備完了、あと数分で天皇皇后両陛下の車が来るぞ! という時に、突然アパートからチャリで飛び出してきた謎の女。前日風呂にも入らず寝て、寝起きそのままのベタベタの髪、ドロドロの顔、明らかな寝巻、おまけに友人が捨てようとしていたのを貧乏根性で譲ってもらったサビだらけの自転車。
不審者である。
「天皇皇后両陛下が北海道にご訪問されるのは11年ぶりで、しかも来年は退位されることが決まっているので、もう北海道にいらっしゃるのは最後かもしれないんですよ。とっても貴重な機会ですよ!」
余計な仕事を増やした迷惑な不審者である私に対して、若い警察官は親切に解説してくれた。アホな大人と思われまいと「あー、なんかテレビで見たかも」などと一応知っていた風を装ってはみたが、もし知っていたのなら自宅の目の前でこんな世紀のビッグイベントが行われている最中に命のスープがどうのこうの言いながら小汚い格好でサビた自転車に跨ったりするわけがないのである。
そんなやりとりの中、はっとする。自転車に跨ったままだ。自転車に跨ったまま天皇陛下をお迎えするのはさすがにまずいであろう。私はこのタイミングで降りることを前世から決めていたかのような悠々たる身のこなしで自転車から降り、警察官の隣にスッと直立した。しかし、いくら所作を美しく魅せても全身が小汚いので完全に手遅れである。
そうこうしているうちにあっという間に数分が経過したようで、警察官は腕時計を見ながら、「もう来ますよ。左側の駐車場から出てきます。天皇陛下の車には旗が立っているのですぐにわかりますよ」と言った。
間もなく、駐車場から黒い車が出てくるのが見えた。二台目の車に旗が見えたので、その車に注目した。車はゆっくりと左折し、こちらに向かって来る。だんだん近づいて、近づいて、見えた! 後部座席の手前に天皇陛下、その奥に皇后陛下。
車は前進し、私の目の前、もう本当に目の前である。その距離僅か3メートル。お二人が手を振ってくださっている。私も手を振る。しかも天皇陛下と目が合っている。なんせこの区画には私と警察官しかいないのである。間違いなく、完全に、私に向かって微笑み、手を振ってくださっているのだ。
しかし、忘れてはならない。私は天皇陛下の御前にとんでもない身なりを晒している。ベタ髪で、ドロ顔で、寝巻で、サビチャリなのである。あまりにもだらしない国民。こんなもんほとんど不敬罪である。しかもなぜか一人だけベストポジションにいる謎の国民。不審がっているだろうか。ドン引きなさっているだろうか。天皇陛下の本当のお気持ちは分からないが、こんな失礼極りない身なりの私に向かって微笑み、手を振ってくださっている。なんとお優しいお方だろう。
レスだ。
アイドルファンの友人曰く、コンサートでアイドルと目が合ったり、自分に向けて手を振ってくれたりすることを「レスをもらった」と言うらしい。ならば、これは紛れもなくレス。私は天皇陛下からレスを頂戴したのである。
車は通り過ぎて行き、すぐに歓声が聞こえた。沿道に集まった大勢の人たちが手を振っているのが見える。
「ご協力ありがとうございました。混雑しているので、気を付けてお出かけしてくださいね」
小さくなっていく車を見送り、警察官は一礼して去っていった。私も頭を下げた。
警察官の言う通り、駅に向かう人々が一斉に動き出し、ものすごい混み様だった。まるで花火大会である。私は自転車を手で押しながら、駅に向かう道を大きく迂回して神龍へと向かった。
北海道生まれ北海道育ち、生で見た有名人は新千歳空港でジンギスカンを食べていたU.S.A.大ヒット以前のISSAのみという私にとって、あんなにも間近で天皇陛下を拝したことは、あまりに刺激が強かった。興奮冷めやらず、浮足立って、自転車を押す腕が日差しにじりじり焼かれていようとも全く気にならなかった。完全にハイ。天皇ハイである。
とにかく誰かに話したくて、旭川に住む母親に電話した。
「もしもし、今、なんと、こうで、ああで、そんで、ああで」と説明すると、母はそのたび「ええ!?それで!?うそ!?まさか!?」と叫び、「あんた! おばあちゃんにも電話しな!」と言った。
「わかった!」と電話を切り、すぐさまおばあちゃんに電話をかけた。
おばあちゃんは「ええ!?それで!?うそ!?まさか!?」と叫び、ひとしきり驚いた後、しみじみとした口調で言った。
「私ね、ニュースを見てね、今、天皇陛下が北海道にいらしてるんだなって。生きてるうちに、一度でいいからお姿を直接見てみたかったなって思ってたんだよ。本当に。それを、あんたが代わりに見てくれたんだねえ」
おばあちゃんは少し涙ぐんでいるようだった。その声を聞いて私も泣きそうになった。
おばあちゃん。
いつも私の味方をしてくれるおばあちゃん。
少しおっちょこちょいだけど陽気で可愛いおばあちゃん。
スーパ―の駐車場でおじいちゃんの車と間違えて知らない人の車に乗り込んだおばあちゃん。
幼い私にポテトを揚げようとして自宅を半焼させたおばあちゃん。
ろくに顔も見せず、いつも寂しい思いさせてごめん。今まで心配ばかりかけてきたけど、私、天皇陛下からレス、もらったよ。
予定よりも一時間ほど遅れて神龍に到着した私は、すぐさま正油ラーメンを注文した。
「正油、一丁です!」
「はいよ!」
夫妻の元気な声が店に響き渡る。
もし、神龍の開店が11時30分じゃなかったら。
もし、ニュースをしっかり見ていたら。
もし、酒を飲み過ぎていなかったら。
もし、私が下戸だったら。
ラーメンを待っている間、私は辿ればきりがない数多の「if…」を思った。私の行く末を密かに暗示していた人が、果たしていただろうか。偶然は必然、なんて言うけれど、何も知らない私があの奇跡的なタイミングで外に出たことも、必然だったのだろうか。
酒を飲み過ぎたおかげで天皇陛下からレスを頂戴した。
私はこの出来事を、一生語り続けていくだろう。いつか年老いて、おばあちゃんになっても、誰かれ構わずしつこく話して聞かせるに違いない。その頃、元号は何だろう。
「はい、正油ラーメンお待たせしました」
やたらとでかいレンゲで掬ってみると、命のスープはいつもより透き通って見えた。


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長瀬ほのか
@nagase_h
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