ただのモノになれたものたち
またなくしてしまった。生活への集中力を欠いてきているのか、この三か月間でもう二度目。
学生の頃に買ったヴィヴィアン・ウエストウッドのマフラー。グレーの無地に、ブランドを象徴するあの、土星みたいなかたちのオーブマークがワンポイントで刺繍されている。ブランド創設当初のコンセプトからはだいぶ遠ざかってしまったような、制服にも合わせられるくらいシンプルなやつ。ヴィヴィアンの服や小物はほとんど手放してしまったけれど、どんな服を着ていてもパンクやニュー・ウェイブのかすかな匂いを自分だけが感じとれる香水みたいに、あの小さなオーブに励まされ身につけてきた。
きのうの午後、音もなく去った。ないと気づいた時点から自分の足どりをさかのぼり、買い物をした雑貨屋や立ち寄ったトイレ、ごはんを食べた中華屋にまで戻って問い合わせたけれど見つからない。少なくとも15年、頻繁につける時期もまったくつけない時期もあったけれど、そこまでへたることもなくわたしのクローゼットにいつづけてくれたのに……いなくなる瞬間があまりにもあっけない。わたしの気持ちとはあまりにも関係ない。突然に離れていってしまった。
落としもの無くしものとはあまり縁なくやってきた。物もちもよくて、一度買ったものはだいたい長く使いつづけている。だから急にものがなくなったり壊れてしまったりすることにちっとも慣れていなくて、その都度大きく動揺する。
去年の終わりには、Bluetoothイヤホンの調子が急に悪くなった。充電しても数分でバッテリーが切れてしまう。買ってからまだ二年くらいしか経っていないし、毎日使い倒したというほどでもなく雑な扱いをした覚えもなくてものすごく戸惑った。修理に出すべきかとインターネットで検索したら、同じ現象で困っている人の投稿がいろいろと出てきて「修理するよりも新品を買ったほうが安い」と結論づけられており、多くの人がそうしているようだ。
「電化製品って当たり外れあるよね」
「二年だったら寿命だったんじゃない?」
そうか、そういうものなのか、自分に属しているものたちに対する世の中のみなさまの温度や湿度。結局二か月くらいそのまま騙し騙し使ってから、どうしようもなくなり新しいイヤホンを買った。でもなんだか、まだどこかで納得していない。不便さや買いなおすコストとはまったく別のところで、ものが急に壊れてしまったりなくなってしまったりすることをがんこに心が拒んでいる。
ねえどうしてなの。きのうまであんなになんでもない顔で一緒にすごしてきたじゃんよ。雨に濡れて動けなくなったかい? 使われすぎて疲れちゃったかい? 一緒にすごしてきたものたちのことを擬人化しているんじゃない。ものを「この子」とか呼ぶようなことには違和感があるくせに、急に黙って去られると心がおぼつかない。こじつけでもいいからせめてなにか理由がほしい。
いつかもう一度ふつうに動きだすんじゃないか。またそのうち手元に戻って来るんじゃないか。わたしは自分でも知らない場所で、自分で考えるよりもずっとずっと広い範囲で、身のまわりにあるもののひとつひとつに小さく切り分けた自分のたましいを宿らせていた。わが分身となったたくさんものたち。スマホやパソコン、マグカップ、枕、ノート、観葉植物、スニーカー。それらが集まってようやくわたしがわたしとして成立している。
一月に別のマフラーをなくしたときも、なかなかあきらめきれなくていろんなところに電話をかけ、それでもだめで何日も引きずった。だけど「もうすぐ春がくることを悟って、この冬で君のもとを離れたかったんじゃない?」そう連れあいに言われて、今回のマフラーのことはなんだか静かにあきらめられそうな気がしてきた。ものにもたましいがあるとして、それはもの自体のたましいなんだと理解したのだ。
ものが離れてゆく。わたしに属していた存在から純粋な「モノ」へと還る。人の思い出や勝手に宿されたたましいから抜けだして、ただのモノになったものたちのことを想像するとき、その姿にどちらかといえば伸びやかな自由よりしんとしたさびしさを感じとってしまっていたのは、人間が誰かとの関係に属して生きることから抜けだせないせいか。
モノには社会がない。ヴィヴィアン・ウエストウッドのマフラーはどこかの街角で踏んづけられて、うす汚れた暗い場所で見つけてもらうことを願いながら震えていたりしない。わたしのたましいから放たれた軽さで春風にうまく乗っかって空を遊び泳ぎ、純粋なモノとしての生をまっとうしようとしている!
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