「マイノリティを生きる」を読む(世界 2025年3月号)
読書会メンバーで、今年の頭から『世界』という雑誌を毎月読んでいる。字面で見ても口に出してもなんとかっこいい名前か! VOGUEやNumeroにも負けない、削ぎ落とされた美しいタイトル。
(引用元:https://www.iwanami.co.jp/search/l8325.html)
ジャンルでいえば言論誌になるらしい。『世界』がどういう雑誌かは、前月号の感想で圭が書いてくれたので↓それを読んでみてください。
他の二人には申し訳ないが、私は「世界読んでたらかっこいい」で読んでいる。動機が不純な “ファッション世界” でも、実際に読んでいるんだからそれでいい。そもかっこいいと思ってないとやってらんないよ。ふざけたことばっかり起こる世の中にまじめ一本で向き合うなんて私にはハードすぎる!
さて、定期購読していると3月の頭には4月号が届くんだけど、それぞれの生活もあり「3月に3月号を読む」ペースになっている。2025年3月号の大特集は「マイノリティを生きる」。そのなかから2つを読んだ。
私たちの社会には、さまざまな「少数者」がいる。葛藤があり、歓びがある──そんな毎日を過ごしている。
だが、街頭で、SNSで、見過ごすことのできないヘイトが飛び交っている。折り重なる抑圧のなか、声を奪われ、「みえないこと」にされ続ける人たちがいる。
「マイノリティが直面させられる差別の構造は、日本に生きる、すべての人の目の前にある」(岡野八代)
最も身近なものとして人権を捉え直す。
ここからは、各論のまとめと感想。岡野八代「個人の尊厳をひらく」については私(サトーカンナ)、下地ローレンス吉孝「私はあなたの『マイノリティ』を生きられないーー私自身のためのクィア・アメラジアン宣言」についてはあさえの文章です。
個人の尊厳をひらく(岡野八代)
「ひとは、存在しているという事実を、他者から認められてはじめて、自己の重みを知る」
— 岩波書店『世界』編集部 (@WEB_SEKAI) February 9, 2025
個人に〈内在する価値〉として捉えられてきた個人の尊厳を、より社会的な平等へと開かれた対抗規範として鍛えるために――ケアの倫理を鍵概念として論じる。#岩波世界
岡野八代「個人の尊厳をひらく」 pic.twitter.com/iePHNhG184
日本には差別禁止法がない
政治史に疎いせいなのか、この論文を読むための前提知識が圧倒的に足りていないのか……正直いって難解だった。日本には差別を禁止する法律がないという議論にはじまり、西洋の政治と人権の歴史をなぞって、また日本の課題に戻ってくる。
「日本では市民に人権概念が根づいていない」(p.73)。それは「人権とはなにかを市民が深く理解することを、なにより政府が阻んでいる」(p.74)せいらしい。歴史をふりかえると、国家こそが人権を侵害してきた。だから国家による人権侵害に対抗する国際社会の取り組みとして「国際人権法」が確立された。ふんふん、ここまではわかる気がする。
それで、じゃあなぜ日本では他の国と同じようにいかないのか? そこがよくわからなかった。日本で「潜在的にはもっとも危険な政府が、市民に対して人権理解を促すといった逆立ちした関係に」(p.77)なってしまったのはなぜなの? 他の国ではどうしているの……? この先は自力で学ばなきゃいけなそう。いやあでも、日本では差別を法で禁止してないこと自体、知らなかったなー。
問題を社会にひらく
ただ岡野さんの言う「個人の尊厳をひらく」がどういうことかはわかる。世界に人がひとりきりなら差別は存在しない。しかし尊厳も存在しない。尊厳とは個人のなかにあらかじめ内在しているものではない。むしろ他者との関係のなかにあるものだ。「個人の(なかに閉じていると考えられていた)尊厳を(社会へと)ひらく」ということ。社会にひらいてはじめて、個人の自由は実現されていくということ。
マイノリティについて考えるとき「個人のなかにある価値を認める」という出発点ではなく、問題を生み出している他者との関わりのありかたにこそ着目する。そこからはじめる。たしかに日本にはそういう考え方をもつ人がまだ少ない。だからたとえば「女性差別をなくすために、女性が声を上げる」ような構造になっているんだろう。
マイノリティの問題をマイノリティ当事者(個人)のなかに閉じ込めないこと、他者との関わり=社会の問題としてひらいていくことは、法制定によってもそうだし、私たちひとりひとりの動きによっても、できる。
この文章を書いた人:サトーカンナ
一橋大学社会学部2009年入学、2014年卒業。在学中は安川一ゼミ、小林多寿子ゼミに在籍。現在は音楽、文筆、ナレーションなど声と言葉にかかわるさまざまな活動をする。著書『不在日記』『おろおろオスロ』。
私はあなたの「マイノリティ」を生きられない-私自身のためのクィア・アメラジアン宣言-(下地ローレンス吉孝)
自らの身体に交錯する被害と加害、帝国と植民地――。『大和世』も『アメリカ世』もまだ終わらぬ沖縄社会で、アメラジアンである私はいかに生き得るのだろうか?
— 岩波書店『世界』編集部 (@WEB_SEKAI) February 11, 2025
下地ローレンス吉孝「私はあなたの『マイノリティ』を生きられないーー私自身のためのクィア・アメラジアン宣言」#岩波世界 pic.twitter.com/TRvLL92NER
アメラジアンとは
下地さんは、米兵と日本と沖縄のルーツを持っているアメラジアンだ。アメラジアンとは、アメリカ人とアジア人の両親をもつ人であり、特に米軍の派兵と米軍基地の駐留を背景として生まれてきた子どもを含意するそうだ。
「ハーフ」や「ミックス」と呼ばれる立場の人々は、外見から「日本人ではない」と判断されて「日本語上手ですね」と言われるなど、マイクロアグレッション(日常的な差別)を受けた人の割合が98%。一方で、「日本人」と「外国人」という大きな枠組みのなかで経験が不可視化されてきた。
そんな「ハーフ」や「ミックス」という立場の差別を、日本政府と米軍からの抑圧という二重の植民地的状況の中にある沖縄社会という場所において受けているのが「アメラジアン」の人々だ。
多様性の歴史
この記事のなかでは、人種・ジェンダーなど、様々な観点でのマイノリティとその課題が登場する。私たちが議論したのは、「マイノリティ差別の解消に向けたプロセスはどれも同じような段階をたどるのではないか、他のマイノリティの歴史から学びがあるのではないか」ということだ。
まずはマイノリティ当事者側が声を上げ、連帯し、自らが抱える課題やそれを生み出す構造を可視化する。
その過程では、ときにマイノリティ当事者内部での分断も生まれる。例えば、障害のある人が作ったアートが、既存の美術教育や流行に囚われない芸術作品だとして、「アール・ブリュット」「アウトサイダーアート」として価値を見出された。障害のある人の存在が肯定的に受け入れられる機会のはずだったが、障害者差別を助長するという批判も生み、アートの才能がある者とそうでない者、特別視を心地よく受け入れられる者とそうでない者の間に亀裂を生む。
課題の可視化や解決策の具体化が進んでくると、マジョリティ側からの批判が強まる。議会や企業における男女間格差を是正するために、女性比率を割り当てる「クオータ性」がその筆頭であろう。日本でクオータ性導入の議論になると必ず「女性に下駄をはかせるのか」という批判が、さんざん下駄を履いてきたはずの男性側から上がる。
最終的な不平等解消に向けて必要なプロセスは、マジョリティ側がその特権性を自覚すること。そのためには、人生のどこかで、ある観点でのマイノリティ性を経験・自覚することが有効なように思う。
下地さんは、アメラジアン・ジェンダークィアといった立場で自身が経験してきたマイノリティ性を表明する一方、男性とされる体を持つ・博士号保有・障害がないといったマジョリティ側として持っている特権性にも自覚的だ。誰にもマイノリティ・マジョリティ性は同居しているのではないだろうか?
日本には、解消すべき人権や多様性の課題が山積み。まずは他の国がとっくにクリアしている、選択的夫婦別姓と同性婚の実現からではないだろうか。
この文章を書いた人:あさえ
一橋大学社会学部2009年入学、2014年卒業。在学中は安川一ゼミ、鈴木直文ゼミに在籍。法人営業、経営コンサルタントを経て、現在はベンチャー企業の事業企画・マーケティング職。
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