行かないピラティススタジオ
12月に引っ越してから、よく通っていたピラティススタジオにめっきり行かなくなった。行かなくなったといっても、レッスン自体は一応、週一くらいで受けつづけている。オンラインで受講できるのだ。引っ越しするまではスタジオに歩いて30秒くらいのところに住んでいたから、もっぱら現地でレッスンを受けていた。今の家からは歩いて7~8分かかる。たったそれくらいの距離で人は足を運ばなくなってしまうものである。
ピラティスは去年の6月に契約した。春のゆううつに本格的にやられてしまいそうになって決心したのだった。30代に入ってから騙し騙しやってまいりましたが、これはもう……降参でございます! 体力がないとすべてダメです! 健康の神にきちんと降伏した。運動ぎらいとか言っている場合ではない。認める、心の疲れはけっこうな割合で身体に由来していると。
私が通うことに決めたのは若い女性が気合の入ったウェアをまとって出かけるような雰囲気のところではなく、幅広い年代の男女がいきいきと健康を目指す感じのスタジオだ。インストラクターの方はもちろん全員はつらつとして明るい。それはレッスンを受けている人たちもそうで、私よりひと回りもふた回りも上の先輩方が、ピンと背筋をのばし柔らかくしなやかな動きをする。それを見てとても励まされる。がんばって続ければ、あんな感じのミドルやシニアになれるんだ。なかには私と同じように貧弱な腕や脚でぷるぷると身体を支えたり、凝りかたまった股関節まわりがまったく動かなかったりする人もいて、そっちもそっちで励まされる。一緒にやっていきましょうや、なんとか辞めずに!
引っ越してからは家でパソコンをひらいてピラティスレッスンを受けている。そのたびに私は、カメラで画面に映し出されている範囲を超えて、あの、よく通った建物内の見慣れた光景をつぶさに想像する。ロッカールームでぱぱっと身支度をし、ウォーターサーバーの水をいただいてからスタジオに入ると、グレーのマットが並べられている。適当なマットに座って右を見るとさまざまなかたちのマシンが置かれている。その奥には鏡。レッスンがはじまると、一緒に受講する人たちから聞こえてくる深い呼吸音を思いだす。このインストラクターの女性は声の抜けがいいとか、あの人はいかにもバレエダンサーのからだつきだとか、レッスン中にぼやぼやと頭に浮かんでいたことなんかも呼び起こす。
オンラインならば別に系列スタジオのどのレッスンを受けたっていいのに、私はいつも最寄りの、内観をしっかりと把握している、7~8分歩けば着くスタジオのレッスンしか受けていない。そう決めているわけではないのだけど、じっさいそうなっている。たぶん、あそこに行けばああいう気持ちになれると経験で知っていることが重要なのだろう。
引っ越す前の住まいは、ピラティススタジオだけでなく川も近かった。川へは歩いて5分くらい。もうどうしようもなく疲れていたり、すべてがめんどうで何も手につかないときに、川まで歩く。川べりにしゃがみ込んで波の動きをぼうっと見る、川の上を走る電車を目で追う、マジックアワーの色が止めどなく変化する空を眺める。ごきげんな顔で散歩する犬、明日も会うでしょうにいつまでもバイバイを交互に叫びあう小学生。いろいろなものが瞬間をかがやきながら私を通り過ぎる。
「この件は水に流しましょう」という言い方があるが、目の前の川を見ているとすべては水に流れていくということが直感的にわかる。大丈夫だ。たとえ私が立ち止まっていても、世界のすべてはそんなことと無関係に流れていってくれる。そうして自分が自然の一部としてただここに在ることのたやすさに安らぐ。私と同じように川のそばに座って静かに缶ビールを飲むスーツ姿の人、あなたも水が流れるのを見てきっとまた大丈夫ですね。
だから、引っ越してもやはり川の近くに住みたいと思った。それでいまの家も5分ちょっと歩けば川まで行けるところに決めた。のだけども、引っ越してから半年間、じっさいに川まで足を運ぶことはほとんどないまま過ぎてしまった。や、半年も行かずに過ごすことができたと言うのが正しいのかもしれない。
行かないピラティススタジオも、行かない川も、私の内側から私を支えている。徒歩10分圏内にずっしりと重たくたしかに存在してくれている。スタジオを持たずオンラインだけでやっているピラティスレッスンを契約したほうが安いだろう。川近くにこだわらないほうが便利な環境に住めるのかもしれない。でも歩けばいつでもすぐにたどり着ける場所にそれらがある、その気になればかならず行ける事実が私を包み込んでくれる。
100%アクセスできる約束をどうにか手もとに置いておきたい。サブスクや保険よりも祈りやお守りに近い。思うようにいかない身体を一生懸命に動かしてまっすぐ健康になろうとする自分や、ただ自然の存在として流れゆく生をまっとうしようとする自分に、私はいつでもなれる。行かないピラティススタジオよ、川よ! これからもただそこにあってくれ。
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