「自分の思考の限界に挑戦してました」

・・・配属時・・・

「大学のときは何やってたの?」
「社会学です」
「社会学って何?」
「うーん、いつも答え方むずかしいんですけど、社会のいろんなものごとについて考える? って感じですかね」
「広っ!! 全部じゃん」
「全部です」
「たとえば?」
「たとえば……ある社会で当たり前とされていることを疑ったりとか」
「ふーん」
「なんかうまく言えないですけど、自分の思考の限界に挑戦してました!」
「なにそれかっこいいじゃん」
「ははは」

・・・仕事中・・・

「頭いいんだから、そこは佐藤の得意な“思考の限界に挑戦”してよ」
「はあ、すみません」


 頭がいいとはどういうことなのか。

 金をうまく稼ぐための最短ルートを導けることや、非効率だったものを効率化できることを指すのだとしたら、私はじつに頭が悪い。

 私って、ビジネスの世界じゃうまくやっていけないんだ。そう気づくのにも時間がかかった。先輩が間違っているんじゃない、ただ私の入っていく場所が間違っていた。どれだけ時間をかけて向き合ってみても仕事へのモチベーションを上げることはできないままだった。ああ先輩、その節は場違いの新入りが、大変ご迷惑をおかけしました。


 私はただ知らないことを知りつづけたい。

 よく生きるとは、社会の一員であるとは、心が満ちているとは、死ぬとは……つまり人間として生涯をすごすこの世界のすべてが、いったいどういうところなのか、私はそれを知りたい。

 何度も見た風景や自分自身の記憶のなかにも、知らないものを見つけてときめきたい。

 あれほど嫌いでただ辞めなかっただけの部活、どうでもよかった道、別に通うわけでもない何度か行った店。そこに大事ななにか、大事じゃなくても当時知らなかったなにかが、かならずある。

 複雑な世界のなか、知らないことに出会ってはおどろく。そのためには、知っているつもりのものごとに根気強く向き合って知らない側面を見つける力とか、すぐにちょうどいい答えを出さないでどんどん奥深くへ潜っていくための力がいる。おどろきつづけるための力。

 大学で私が身につけたのはきっとそういう方面の基礎体力だった。それをあのとき、先輩にぜんぜんうまく説明できなかった。「自分の思考の限界に挑戦してました」。新入社員の自己紹介としてはずかしすぎる。自分でもよくわかっていなかったからそんな言い方しかできなかったのだろう。

 身につけたと言っても結局、研究者を志すほどにはなれなかった。でも、だからって考えるのを止めてしまうのはどうももったいない気がするのだ。

 世界の知らない部分を人と分かちあって「私たちってまだこんなに知らなかった!」とすごがり合っていたい。誰かが私の知らないことを教えてくれるのも、自分の身に覚えのある知らなさを発見してくれるのもすごくすごく楽しい。

 知っていると見なしてきた世界のなかにも知らないことはほとんど無限にあり、ひとつひとつに出会い直してはびっくりしているだけで、人間程度の短い生はきっとすぐに終わる。知らなさは宇宙だ。つぎつぎに発生し拡大する宇宙。

 頭がいいとか悪いとかどうでもいいけれど、たとえば頭がいいのはどういう人かを今問われたら「複雑なものごとをシンプルにしてしまわないで考えつづけられる人」と答える。私は考えることを仕事にした学者という職業をすごく尊敬している。考えつづけることに責任があるなんてすごい。すごい!

 あれってどういうことだろう、これってなんだろう。こうして宇宙的探索に取り組むことと、世の中の役に立ってお金を稼ぐことはなかなか上手に結びつけられない。

 世界の未知を誰かと共有したい。もしあの先輩に伝えられたとしても、そんな夢みたいなこと言ってないで仕事しろと言われてしまいそうな話だ。それを私はいたって真剣に音楽や文章でつづけてきたけれど、それだけで食えるほどには稼げない。現実はきびしい。金稼ぎは都市に住んでいると特に切実な問題だ。

 でもさ、振り切ってビジネスの世界に身体をすべて浸す必要もないんだよね。

 毎日を暮らし、散歩し、人と話し、その都度知らなさに感動して何かをつくりながら生きるために働く。複雑な私をむりやりシンプルにしてしまわないために、そういうどちらにも振れないやり方をつづけてきたのではなかったか。ほらたまにこうやってわざわざ思い出さないと、ちょっとずつ忘れていきそうで。



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