山上の無期懲役は「冤罪」である
2022年に安倍晋三元首相を殺害した罪などに問われた山上徹也被告(45)が、21日午後にあった裁判で、求刑通り無期懲役の判決を言い渡された。判決は、母親による宗教団体への多額の献金で生活が困窮するなどの被告の不遇な生い立ちに言及したが、犯行に大きな影響を及ぼしたとは認められないと断定。一方で、多くの人がいる場での銃撃による犯行は、悪質性や危険性が大きいとした。
安倍晋三を殺害した山上徹也の判決が、26年1月21日に下された。奈良地裁は彼に無期懲役の判決を言い渡した。
私は法律家ではないが、この判決が相場に対し明らかに重いことは過去の事例や弁護士たちの反応から明らかだ。多くの場合、一人殺は有期刑に留まるのが相場となっている。無期刑や死刑になることもないではないが、そういう場合は強盗殺人や強姦殺人などその他の罪状と組み合わさるかたちで刑が重くなる。個人的な記憶では、単なる殺人で被害者が一人であるという事例で無期懲役になった事例は聞いたことがない。
報道では、山上の生育環境等が考慮されなかった結果であると解説するものが多い。だが、相場を見る限り、彼の過去を考慮したかどうかに関わらず無期懲役はやはり重いと言わざるを得ないのではないかと思う。
この相場外れの量刑が不当であることは火を見るよりも明らかだ。この記事では、死刑存廃の議論を援用することで、山上の無期懲役が「冤罪」に類するものであると指摘する。そして、日本の司法が抱える問題を微力ながらでも指摘したい。
まぁ、頑張って色々書こうとしたのだが、「判決がカス」以上のことがないので……最近こんなのばっかだな。
安倍様の命の価値は下級国民と違う
山上の無期懲役に政治的な背景があることもまた論を待たない。もし、彼が殺害したのがどこにでもいる一般人で、彼が単に手製の火器の威力を試したいだけの無責任な若者だったら、彼の懲役は精々15年から20年と言ったところだっただろう。
この事実は、司法において人命の価値が平等ではないことを否応なくつきつけてくる。被害者が単なる一般人であれば有期刑だが、権力者だと無期懲役になるということは、権力者の命はそれほど重いと言っているに等しい。
日本国憲法では、万人は法の下に平等であるはずだ。だが、司法の現実ではそうなっていない。
典型的な実例は、障碍を持つ子供が死亡した際の民事裁判における損害賠償額の差別である。
大阪市生野区で2018年、聴覚支援学校に通う井出安優香(あゆか)さん(当時11)が重機にはねられ死亡した事故をめぐり、両親らが運転手側に約6130万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審第1回口頭弁論が20日、大阪高裁であった。遺族側代理人で聴覚障害のある田門浩弁護士が手話で「裁判所には差別をなくす方向に前進するよう力強いメッセージを期待する」と意見陳述し、運転手側は控訴棄却を求めた。
(中略)
一審判決は、安優香さんに「労働能力を制限し得る程度の障害があったことは否定できない」と指摘した一方、様々な技術の進歩で「将来、障害の影響を小さくできる」と判断。逸失利益について、事故があった18年の聴覚障害者の平均収入(平均賃金の約7割)より高い85%が妥当とし、運転手側に慰謝料などとあわせて約3770万円の支払いを命じた。
損害賠償額の算定には様々な要因が影響するが、子供に障碍がある場合、それを理由に額が減じられることが慣例となってしまっている。実際の子供の能力は省みられず、ただ障碍があるというだけで、命の価値とも捉えられる損害賠償額が定型発達者より減らされてしまう。
もっとも、この司法の判断は差別的だが、理屈は理解できる。損害賠償額はあくまで失った「本来得られたはずの金額」に対するものであり、障碍者の平均収入が提携発達者より低いという社会の現実を反映して算出すれば当然そうなる。その現実を司法がそのまま利用することは差別的な現状の機械的な追認にほかならず、司法の理想的な態度とは言えない。しかし、そうなってしまう理屈はわからんでもない。
ただし、司法における差別は、こうした「一定の合理性」があるものばかりではない。司法は明らかに不合理で、理屈がなく、ただの忖度や権力への阿りによっても、神聖な法廷の場での差別を行う。
よく目にする例は国や地方といった行政と市民が対峙する訴訟だ。こうした訴訟で国が敗訴する例は稀だということは、我々も何となく受け入れてしまっている。だが、その現実は本来おかしい。
警視庁の警察官の対応をめぐり、南アジア出身でムスリムの50代女性と長女(8)の親子が東京都に賠償を求めた訴訟の控訴審判決が16日、東京高裁であった。萩本修裁判長は、警察官が女性の連絡先などをトラブルの相手に提供した点を違法だと認め、都に計66万円の賠償を命じた。親子の請求を棄却した一審・東京地裁判決を変更し、一部勝訴とした。
(中略)
一方、警察官が親子に人種差別的な発言をしたという原告の主張は、「差別意識や偏見に基づく対応があったとはいえない」として退けた。
実例は枚挙に暇がないが、例として外国人に対する警察の差別的な行為を訴えた訴訟を挙げたい。この事件は、子供連れの外国人女性が日本人男性から襲撃され、警察に通報したらその対応の過程で加害者側に個人情報を流出されたというものだ。当然不当な行為だが、第一審では訴えが棄却されてしまっている。
この背景に人種差別があることは自明だ。事実、警察官が人種差別的な発言をしたという主張の方は高裁判決でも退けられている。司法に人種差別的な認識があればこそ、差別的な対応が差別だと見なされなくなる。
同時に、警察官の明らかに不当な行為が一時は認定すらされなかった背景には、司法の行政に対する忖度がある。これは警察行政と司法の癒着の例ではあるが、同様の癒着はあらゆるところで観察できる。司法は権力による直接的な影響がある場合でも、そうでない場合でも、真実より権力の機嫌を優先する場合が多々ある。
山上の無期懲役も同様の事例だと考えていいだろう。判決を出した裁判官たちがどう考えていたのかはわからないし、証拠もない。忖度は証拠が出ないものだ。被害者が首相なら加害者は厳罰の処すべきだという素朴な (そして裁判官としては愚かすぎる) 感性から生じた結果かもしれないし、山上を厳罰に処せという政府からの有形無形のプレッシャーに従った結果かもしれない。ただそこにあるのは、山上に相場を大きく外れる量刑が言い渡された事実と、それは権力に対する迎合の結果だろうという当然の推測だけだ。
冤罪の概念を広げる
3つの冤罪
山上に対する無期懲役判決は冤罪だといえる。山上が安倍を殺害したのは事実なのに、なぜ冤罪と言えるのか。これを理解するためには冤罪の概念自体を広げる必要がある。
丸山 (2025) が『死刑について私たちが知っておくべきこと』で紹介していることだが、冤罪には3つの概念がある。
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