3Dモデルまんまのトレスはドーピングと同義だと思う件について
先に断っておくと、この記事は「3Dを使うな」という話ではない。
私自身、3Dモデルは便利な補助ツールだと思っているし、使うこと自体を否定する気はまったくない。
「3Dモデルまんまのトレス」とは何か
この記事で言う「3Dモデルまんまのトレス」とは、
3Dモデルを表示させた状態で、そのポーズ・カメラ角度・人体比率・各パーツの配置関係をほぼそのまま線画に起こしている状態を指している。
単に「立ち姿を参考にした」「関節の可動域を確認した」といったレベルではなく、
肩の傾き、骨盤の向き、手足の長さの比率、指の開き方、顔の角度に至るまで、
完成したイラストを重ねるとほぼ一致するようなケースを想定している。
あらかじめ用意された立体を平面に転写している、という意味での「まんま」である。
「参考」「トレス」「補助」「下敷き」の違いについて
混同されがちだが、ここではあえて言葉を分けて使う。
参考とは、
資料を見ながら「こういう構造なのか」「この角度だとこう見えるのか」と理解し、
最終的な形は自分で再構築する行為だ。完成形に直接的な一致は生まれにくい。
補助は、
アタリ取りやパース確認、関節位置の把握など、
“描くための判断材料”として一部を借りる使い方を指す。
主導権はあくまで描き手側にある。
下敷きは、
大まかな構図やバランスを下に置きつつ、線や形は自分で引き直していく段階的な工程で、
結果として元の形からはそれなりにズレが生じる。
一方でトレスは、
既に完成している形をなぞる行為であり、
特に3Dモデルの場合は「立体情報の解釈」そのものをスキップできてしまう。
この記事で問題にしているのは、
このトレス工程がほぼ完成形としてそのまま公開・評価されているケースである。
「ドーピング」という言葉について
「ドーピング」という表現は、あくまで比喩として使っている。
誰かを不正者だと断罪したいわけではないし、道徳的な善悪を決めつけたいわけでもない。
私がこの言葉を使う理由は、
・本来は訓練や積み重ねが必要な部分を、外部の力で一気に補えてしまう
・結果だけを見ると、実力以上のパフォーマンスに見える
・同じ土俵で比較されると、評価が歪みやすい
という構造が、競技におけるドーピングとよく似ていると感じたからだ。
繰り返すが、
3Dモデルというツール自体を否定したいわけではない。
便利な道具であることは間違いないし、使い方次第では強力な学習補助にもなる。
実際のところ、私も複雑なポーズや自分では撮れない角度のポーズを描きたい場合には3Dモデルを参考にしている。
ここで扱っているのは、ツールの存在ではなく、成果物の扱われ方と評価のされ方についての話である。
なぜ評価が歪むのか
「3Dモデルまんまのトレス」が問題になりやすい理由は、
それが“楽をしているから”でも、“ズルいから”でもない。
評価の前提条件が、見る側と作る側で食い違ってしまうからだ。
イラストを見る側は、基本的にこう判断する。
「この人体バランスを自分で考え、この角度を自力で捉え、このポーズを平面に落とし込んだのだろう」と。
しかし、3Dモデルをほぼそのままトレスしている場合、
その過程の多くは既に用意された立体情報に委ねられている。
空間把握、パースの判断、骨格や筋肉の配置といった、本来“描き手の技量”として評価されがちな部分が、
成果物からは見えない形でショートカットされているのだ。
にもかかわらず、完成したイラストだけが提示されると、
見る側はそれを同じ条件で描かれたイラストとして無意識に並べてしまう。
この時点で、評価の土俵はすでにズレている。
もう一つの歪みは、再現性が見えないことにある。
3Dモデル由来のトレスは、特定のポーズ・特定の角度では非常に完成度が高く見える。
だがそれが、描き手自身の空間理解や人体把握に基づいたものかどうかは、
一枚の完成絵からは判断できない。
その結果、
「この人はこのレベルの絵を安定して描ける」
「この構図やアングルを理解している」
という評価が先行しやすくなる。
実際には、3Dモデルがない状態では同等の成果を出せない場合でも、
外からはその差が見えない。
評価が“実力”ではなく“結果”だけに引っ張られてしまう構造が生まれる。
更なる問題点
さらに問題なのは、これが競争や比較の場に持ち込まれたときだ。
SNSや投稿サイトでは、イラストは横並びで消費される。
制作過程や使用ツールの詳細は省略され、
「上手いかどうか」「映えるかどうか」だけが瞬時に判断される。
その中で、3Dモデルの立体情報をほぼ丸ごと利用したトレス作品と、
試行錯誤の末に自力で構造を組み立てた作品が、
同じ“イラスト”というラベルで比較される。
これは努力量の話ではなく、
評価基準が共有されていない状態での比較が起きている、という話だ。
だからこそ私は、これをドーピングに近い構造だと感じている。
外部の力を借りること自体ではなく、
その力を借りたことが見えないまま、同一条件で評価されてしまう点が似ているのだ。
成長をどう歪めるか
3Dモデルまんまのトレスが抱えるもう一つの問題は、
外からは見えにくいが、描き手自身の成長プロセスに影響を与えやすい点にある。
絵の上達において重要なのは、
「なぜその形になるのか」を考え、
間違え、修正し、少しずつ理解を積み重ねていく過程だ。
人体で言えば、
・この角度だと肩はどう見えるのか
・骨盤が傾くと脚の長さはどう変わるのか
・重心はどこに乗るのか
そういった判断を、自分の頭で何度も行うことで、
少しずつ“描ける範囲”が広がっていく。
しかし、3Dモデルをそのままトレスできてしまう環境では、
この「考える工程」を大幅に省略できてしまう。
正解の立体が最初から提示されているため、
「なぜこうなるのか」を考えなくても、
“それっぽい正解”の線が引けてしまうからだ。
結果として、
・理解していない部分
・本来なら躓くはずだったポイント
・練習すべき弱点
これらが、表面上は見えなくなる。
一枚の完成絵は綺麗でも、
中身の理解が伴っていないまま進んでしまう可能性がある。
さらに厄介なのは、成功体験の質が変わってしまうことだ。
3Dトレス由来の完成度の高い絵が評価されると、
「このやり方でいいんだ」という手応えが先に来る。
その時点で、遠回りに見える基礎練習や試行錯誤は、
無意識のうちに優先度が下がっていく。
これは怠慢ではなく、自然な心理だ。
人は“上手くいった方法”を繰り返す。
だがその方法が、
自分の理解を深める工程を含んでいない場合、
成長は特定の条件下に強く依存する形になる。
3Dモデルがあると描ける。
ないと途端に描けなくなる。
ポーズや角度が変わると、対応できなくなる。
この状態は、本人が思っている以上に長く尾を引く。
もう一つの歪みは、限界が見えにくくなることだ。
自力で描いている場合、
「ここが分からない」「ここが弱い」という感覚は、
線の迷いや破綻として如実に表れる。
しかし、トレス中心の制作では、
限界点が“立体の外側”に押し出されてしまう。
結果として、
自分の実力を正確に把握する機会が減り、
どこをどう練習すればいいのかも見えにくくなる。
これは成長が止まる、というより、
成長の方向感覚が狂うと言った方が近い。
誤解してほしくないが、
これは「3Dを使うと成長しない」という話ではない。
問題なのは、
理解を深める工程を飛ばしたまま、
完成形としてそれを固定してしまうことだ。
成長を支えるはずのツールが、
使い方次第で成長を迂回させてしまう。
その危うさを、私はここで指摘したい。
「それでもプロは使っている」件について
この話題になると、必ず出てくる反論がある。
「プロのイラストレーターや漫画家も3Dモデルを使っているじゃないか」というものだ。
これは事実だし、否定しようとも思わない。
ただし、ここで見ているのは**“使っているかどうか”ではなく、“どう使われているか”**だ。
多くのプロの現場では、3Dモデルは
・パースや構造の確認
・複雑なポーズの検証
・背景や小物との位置関係の整理
といった、判断を補助する役割で使われることが多い。
最終的な線や表現は、描き手の裁量と理解に委ねられている。
また、プロの場合は、
過去の作品や仕事量によって、
「この人が何を理解していて、何を描けるのか」がすでに可視化されている。
一枚の完成絵だけで評価される状況とは、前提条件が大きく異なる。
同じ“3Dを使っている”という言葉で括ってしまうと、
この違いが見えなくなってしまうのだ。
じゃあ線引きはどこなのか
では、どこからが問題で、どこまでは許容されるのか。
正直に言えば、明確な一本線は存在しない。
だからこそ、この話はややこしい。
ただ、私自身の中には、いくつかの判断基準がある。
一つ目は、
完成したイラストが、3Dモデルなしでも同程度に再現できるかどうか。
二つ目は、
3Dモデルが「考えるための材料」になっているか、それとも「答えそのもの」になっているか。
三つ目は、
その成果物が、純粋な画力の証明として扱われていないか。
これらの条件が重なるほど、
私はそこに違和感を覚える。
線引きは他人が決めるものではなく、
描き手自身がどこまでを自分の実力として引き受けるか、という話でもある。
創作における「上手さ」とは何か(まとめ)
ここまで長々と書いてきたが、
結局私が言いたかったのは、
「3Dモデルは悪だ」という話ではない。
便利なツールは、使い方次第で武器にもなるし、
思考を止める装置にもなってしまう。
問題なのは、
ツールが補っている部分と、
描き手自身が積み上げている部分の区別が、
評価の場で曖昧になってしまうことだ。
創作における「上手さ」とは、
一枚の完成度の高さだけではなく、
再現性や応用力、理解の深さを含んだものだと思っている。
それを支えるためにツールを使うのなら、
3Dモデルは非常に心強い存在になる。
けれど、
ツールが成果の大部分を担っている状態で、
それをすべて自分の実力として扱ってしまうとき、
私はそこに“ドーピングに似た構造”を感じてしまう。
これは誰かを裁くための意見ではない。
創作に向き合う中で、
「自分は今、何を描いているのか」
「どこまでが自分の力なのか」を考えるための、一つの視点に過ぎない。
正直なところ、この考えが誰かに受け入れられなくても構わない。
ただ、自分が絵を描き続けるうえで、
「納得できる上手さとは何か」を言葉にしておきたかった。
このnoteは、誰かを裁くための意見ではなく、
創作を続ける自分自身への確認作業だ。
ここまで読んでくれた人が、少しでも何か引っかかるものを持ち帰ってくれたなら、それで十分だと思っている。


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